名前が強いアテーシア

桃井すもも

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アンドリューの文なら二度、受け取っていた。彼はアテーシアに言った様に、自分から婚約者への文を書いてくれていた。
そんな事は婚約以来初めての事で、これまでの二人は極めて限られた回数しか交流する事が無く、文だけが二人を繋ぐツールであった。そうしてその文もアテーシアから月に一度送るのが常であった。

辺境伯はアテーシアの状況の大凡を理解した上で、毎日シアがアンドリューに送る文を預かる際に、「殿下から文が届いていたろう?」と、返事を書かずに良いのかを尋ねていた。

忘れた訳では無いのだ。書かねばならないと思っていた。今日こそは明日こそはと、ガヴァネスから与えられた課題から逃げる幼子おさなごの様に、結局逃げっぱなしになっていた。

真逆、アンドリューがここに来るだなんて。
晩餐の席では何も聞かされてはいなかったから、彼は夜になって辺境伯邸を訪れたのだろう。先触れの無い急な訪いとは政治的な案件であるかも知れないから、アテーシアには確かめようが無い。

アンドリューはまるでアテーシアに会いに来たような口振りであったが、それは方便であろう。もしかしたら、アテーシアが嘆願した事案の裏取りであるのかも知れず、アテーシアは自身が報告した事柄の数々を思い返す。

明日からどうしよう。アテーシアはいつまで地方に行っている事になってるのだろう。
嘘の上塗りに嘘をつくのは思った以上に苦しいもので、どんどん辻褄が合わなくなる。アテーシアは突然のアンドリューの訪問にすっかり追い詰められて、寝付きの良い質であるのにその日は一睡も出来なかった。

夜明けの頃であろうか。
扉が小さくノックされた。その音を聞き逃さなかったアテーシアは、扉に歩み寄り開ける前に「何方?」と尋ねた。

「私よ。」それは辺境伯夫人の声であった。

「眠れなかったのね。」
扉を開けたアテーシアの顔を見て、夫人は開口一番にそう言った。

「旦那様から聞いているわ。貴女は明日、公爵令嬢に戻るのよ、解っているわね。貴女は殿下の来訪を聞いて、明日、急ぎ出先から戻って来る。戻って来るのはアテーシア嬢よ。そうしてシア嬢は本日より短期の遠征に向かう事になっているわ。少しばかり無理があるけれど、殿下も態々それをお確かめになる事はなさらないでしょう。
ドレスは私が今日のうちに用意します。ちょっと日焼けし過ぎたから、白粉で誤魔化しましょう。今日は邸内で大人しくしているのよ。食事も部屋に運ばせるわ。」

辺境伯夫妻がシアとアテーシアの交代を整えてくれた。夜通し悩んでいたのも、胸のつかえが一気に無くなる。

「可哀想に。そんな情けない顔をして。大丈夫よ、何も心配いらないわ。明日に私が声を掛けるまで、ゆっくり寝てらっしゃい。こちらに来てからの疲れも溜まった頃でしょう。」

母がいたなら、きっと同じ事を言ってくれただろう。辺境伯領に来て、温かな母の愛情に触れられた様な気がした。
アテーシアは甘えるのが上手くない。生来の頑張り屋さんであるのに加えて、王太子の婚約者として自身を律していたから、この数年は特にそうであった。

大きな瞳をタレ気味にして情けない顔を晒すアテーシアを、夫人はぎゅっと抱き締めてくれた。豊満な身体に包まれて、その柔らかさにアテーシアは心から安堵した。
そうして心が軽くなって、すっかり悩みが吹っ切れたアテーシアは、夫人に言われた通り丸一日を爆睡した。

寝付きが良い為に、途中覚醒しかかるも、微睡むうちに再び睡魔に襲われる。騎士等に混じって小さな身体で奮起した疲れを深い眠りで癒すのだった。



新しい朝が来た。希望の朝だ。
早朝、すっきりとした目覚めを迎えたアテーシアは、室内で軽く音楽体操をする。ふんふん音楽を口遊み、リズムに合わせていちに、いちにと身体を解す。
部屋に運ばれた食事をもりもり平らげ、いつもは自分でする身支度も、この日は侍女が髪も化粧も念入りに整えてくれた。勿論、ぱっつんな前髪はポンパドールもどきでカバーした。

昼餉を済ませた頃合いで、部屋を夫人が訪れた。

「さあ、アテーシア様。参りましょう。」

夫人の笑みに誘われて、アテーシアも柔らかく微笑めば、そこには昨日までの泥塗れのシアではなく、王太子殿下の婚約者である公爵令嬢アテーシアがいた。

令嬢らしい可憐な姿に、辺境伯夫人が、もしも王家が公爵令嬢を手放したなら、すかさず拐ってしまおうと胸の奥で誓った事など知りようも無かった。


「久しぶりだね、アテーシア。」
「お久しぶりでございます、アンドリュー殿下。」

カーテシーで礼をすれば、音を消したような流れる所作に侍女等が見惚れる。辺境伯夫人も目を細める。

「私達の仲だよ。今更、硬い挨拶はよしてくれないか。」

そう言ってアンドリューは、アテーシアの手を取りその指先に触れるだけの口付けを落とした。瞬間、アテーシアもかっくん膝を落としそうになった。

頑張れアテーシア、負けるなアテーシア。
アンドリューとは、こんな甘々であったろうか。六年にも及ぶ不干渉と学園でのアンドリューとが混じり合って、アテーシアの知るアンドリューとシアが関わるアンドリューの境界が解らなくなる。

「漸く君に会えた。アテーシア、君の顔をよく見せてくれるか?」

貴方、誰?!
アテーシアは唖然とする。別人かと思うアンドリューの変貌に、声を発する事が出来なかった。

しかし、直後。

「君の文はどうやら郵送事故で届かなかったらしいから、私は早急に街道整備と物流の見直しに注力する事を決めたんだよ。
ああ、すまない。そんな事はどうでも良かった。君の顔が曇るのを見たい訳では無いのだよ。」

強烈な嫌味を食らって、ああ、此奴コイツは学園で良く知るアンドリューだと納得が行った。



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