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ミカエルとは、どうやら貴族の子息であるらしかった。辺境伯と縁のある家である様で、それはミカエルがアテーシアと同様に辺境伯邸内の客室を与えられていることで推察された。
アテーシアに限らず、一時的に辺境伯領で鍛錬を願う貴族の令息もいるのだろう。特に夏季休暇の今なら、アテーシアやミカエルの様に短期的な入隊もあろう、というのはアテーシアが勝手に推測したものである。
アテーシアにとって、誰が何処から来ただとか、何処の家の出であるとかはあまり関心の向く事では無かった。此処にいられるのは夏季休暇の間である。短い夏を無駄な思考で消費するのは惜しまれた。
アテーシアは、面倒事はすっかり王都に置いて来て、きれいさっぱり忘れている。ベン・ボン兄弟に稽古を付けてもらえるのも久しぶりであったし、ミカエルという稽古仲間も出来たから、思う存分汗と泥に塗れて稽古に励んだ。
ミカエルも、数日のうちにはすっかり部隊に馴染み、ベン・ボン兄弟と手合わせを願っては二人に転がされて泥塗れになっていた。
何故か自然に辺境伯家の晩餐の席に同席しているミカエルについては、辺境伯夫妻はアテーシアに改めて彼の背景についてを紹介する事は無かったから、アテーシアも詮索はしなかった。
『◯月△日、本日は晴天なり。ご婚約者様とはお会い出来ませんでしたー。』
おっと、しまった。今日も「ー」が多かった。うっかり筆が走って末尾を伸ばしてしまったが、貴重な王家の便箋である。無駄にしてはならないから、このまま出しちゃおう。
就寝前にアンドリューへの文を書きながら、あとは何か陳情する事は無かったかを考える。
もうすっかり、婚約者の様子を文で伝えると言うミッションは放棄していたから、早馬の労力を無駄にしない様にと陳情ばかりを書き送っている。
文を書き終え、今夜のうちに辺境伯に渡しちゃおうと二階の客室から階下へ降りた。執事を見付けて閣下に文を渡したいのだと言えば、執務室へと案内された。
執事がアテーシアの訪いを告げれば、直ぐに入室を許されたから執事の後を付いて部屋に入って、アテーシアは危うく手にした文を落としそうになった。
「やあ、シア嬢。久しぶりだね。」
あ、あ、あ、あ、アンドリュー殿下。
アテーシアは咄嗟に声も出せずにはくはくする。
「ん?それは私宛の文かな?」
何故に貴方が此処にいる?
今だ一歩も前に進めず立ち尽くすアテーシアに、アンドリューは夜の室内も明るくなる様な眩しい笑みを向けた。そうして、あろう事か自ら立ち上がりスタスタこちらへやって来て、アテーシアの手を取った。アテーシアが持つ文をやんわり引き離す。
「得難い情報の収集並びに取り纏め、ご苦労であった。君の報告は全て関係各所に回したよ。」
為政者の顔でそう言って、
「ああ、それと。
毎日毎日書き損じが散見されたがそれは不問にしておこう。」
そう言って麗しい笑みを向けた。
明日からは、語尾の「ー」は許されない。いやいや本人が此処にいるのだから、文を出すのは終いだろう。
アテーシアは、反射的に辺境伯を見る。
『だから言ったろう。毎日遊び呆けているからこうなるんだぞ』と視線で返された。
晩餐の席ではアンドリューが来るだなんて知らされなかった。どうして来たんだ。なんで来たんだ。それより自分はどうすれば良いんだ。アテーシアはシアであり、シアはここにいるからアテーシアはここにいない。
あれあれあれれ、頭がこんがらがって来たぞ。
「殿下、文はお受け取りになられたのであれば、シア嬢は下がって宜しいでしょう。シア、もう部屋にお帰り。稽古で疲れたろう。」
辺境伯が、『今のうちに逃げろ』と言っている。君子危うきに近寄らず。シアは殿下に近寄っては駄目だ。
「伯爵、良いではないか。折角会いに来た私の婚約者は、バカンス序でに地方に足を伸ばして不在だと言うのだから、何も知らされなかった私は傷心なのだよ。折角ここで学友に会えたんだ、少しばかりお付き合い願いたいね。シア嬢、宜しいか。」
宜しくないです、駄目ですよ!
何より、そのバカンス情報、どこでそんな事になったんだ?
アテーシアは辺境伯に目線で訴えるも『何も聞くな』と目線で返された。そうこうするうちに、出来た執事がアテーシアの分の飲み物を用意しちゃったりなんかして、貴方、気が利き過ぎるのよと抗議したくなった。
「随分、日に焼けたね。」
「はあ。」
この席、可怪しくないか?
何故か辺境伯を前にして、アテーシアはアンドリューの隣の席を促された。駄目でしょう、この配置。しかし、アンドリューがこちらへと言うのだから仕方が無い。それから、話し掛ける度にいちいちこちらを覗き込まないで欲しい。
向かいに座る辺境伯を見れば、むきーっ、なんでにやにやしてるんだ!
アンドリューは、そんなアテーシアにはお構いなく、辺境伯領とは毎日晴れなんだね、とか、辺境とは四日に一度晴れ後曇りになるんだね、とか、アテーシアの適当な報告をちくちくちくちく非難する。
真横から覗き込まれて麗しい微笑みで嫌味を聞かされる苦行。辺境伯領に来てから受けたどの鍛錬より辛く苦しい時間であった。
「シア嬢。」
「はあ」
「君が言ってくれた様に、私は婚約者に文を送っているんだがね。」
「はあ」
「全然返事が来ないのだよ。」
「...」
「どうしてだろうね。君、私が書けばきっと彼女も返事をくれると、確かそう言ったよね。」
「...」
「一体彼女に何があったんだろうか。郵送事故でも起こったのか。」
「...」
「君からの文なら毎日きちんと届いている。いろいろ嘆願めいた事がびっしり記されているが、残念なのは我が婚約者殿の様子が一個も書かれていない事かな。ああ、すまない。無理を言ったね。君は鍛錬で多忙なんだね。私の頼み事を迂闊にもうっかりと愚かにも忘れてしまうのは仕方のない事だよね。
はてさて、君の文は届くのに、どうして愛しの婚約者殿の文は届かないのか。それを考えると、私は今晩眠れそうにない。」
アテーシアはそれから四半刻、アンドリューの嫌味を聞かされ続けた。
アテーシアに限らず、一時的に辺境伯領で鍛錬を願う貴族の令息もいるのだろう。特に夏季休暇の今なら、アテーシアやミカエルの様に短期的な入隊もあろう、というのはアテーシアが勝手に推測したものである。
アテーシアにとって、誰が何処から来ただとか、何処の家の出であるとかはあまり関心の向く事では無かった。此処にいられるのは夏季休暇の間である。短い夏を無駄な思考で消費するのは惜しまれた。
アテーシアは、面倒事はすっかり王都に置いて来て、きれいさっぱり忘れている。ベン・ボン兄弟に稽古を付けてもらえるのも久しぶりであったし、ミカエルという稽古仲間も出来たから、思う存分汗と泥に塗れて稽古に励んだ。
ミカエルも、数日のうちにはすっかり部隊に馴染み、ベン・ボン兄弟と手合わせを願っては二人に転がされて泥塗れになっていた。
何故か自然に辺境伯家の晩餐の席に同席しているミカエルについては、辺境伯夫妻はアテーシアに改めて彼の背景についてを紹介する事は無かったから、アテーシアも詮索はしなかった。
『◯月△日、本日は晴天なり。ご婚約者様とはお会い出来ませんでしたー。』
おっと、しまった。今日も「ー」が多かった。うっかり筆が走って末尾を伸ばしてしまったが、貴重な王家の便箋である。無駄にしてはならないから、このまま出しちゃおう。
就寝前にアンドリューへの文を書きながら、あとは何か陳情する事は無かったかを考える。
もうすっかり、婚約者の様子を文で伝えると言うミッションは放棄していたから、早馬の労力を無駄にしない様にと陳情ばかりを書き送っている。
文を書き終え、今夜のうちに辺境伯に渡しちゃおうと二階の客室から階下へ降りた。執事を見付けて閣下に文を渡したいのだと言えば、執務室へと案内された。
執事がアテーシアの訪いを告げれば、直ぐに入室を許されたから執事の後を付いて部屋に入って、アテーシアは危うく手にした文を落としそうになった。
「やあ、シア嬢。久しぶりだね。」
あ、あ、あ、あ、アンドリュー殿下。
アテーシアは咄嗟に声も出せずにはくはくする。
「ん?それは私宛の文かな?」
何故に貴方が此処にいる?
今だ一歩も前に進めず立ち尽くすアテーシアに、アンドリューは夜の室内も明るくなる様な眩しい笑みを向けた。そうして、あろう事か自ら立ち上がりスタスタこちらへやって来て、アテーシアの手を取った。アテーシアが持つ文をやんわり引き離す。
「得難い情報の収集並びに取り纏め、ご苦労であった。君の報告は全て関係各所に回したよ。」
為政者の顔でそう言って、
「ああ、それと。
毎日毎日書き損じが散見されたがそれは不問にしておこう。」
そう言って麗しい笑みを向けた。
明日からは、語尾の「ー」は許されない。いやいや本人が此処にいるのだから、文を出すのは終いだろう。
アテーシアは、反射的に辺境伯を見る。
『だから言ったろう。毎日遊び呆けているからこうなるんだぞ』と視線で返された。
晩餐の席ではアンドリューが来るだなんて知らされなかった。どうして来たんだ。なんで来たんだ。それより自分はどうすれば良いんだ。アテーシアはシアであり、シアはここにいるからアテーシアはここにいない。
あれあれあれれ、頭がこんがらがって来たぞ。
「殿下、文はお受け取りになられたのであれば、シア嬢は下がって宜しいでしょう。シア、もう部屋にお帰り。稽古で疲れたろう。」
辺境伯が、『今のうちに逃げろ』と言っている。君子危うきに近寄らず。シアは殿下に近寄っては駄目だ。
「伯爵、良いではないか。折角会いに来た私の婚約者は、バカンス序でに地方に足を伸ばして不在だと言うのだから、何も知らされなかった私は傷心なのだよ。折角ここで学友に会えたんだ、少しばかりお付き合い願いたいね。シア嬢、宜しいか。」
宜しくないです、駄目ですよ!
何より、そのバカンス情報、どこでそんな事になったんだ?
アテーシアは辺境伯に目線で訴えるも『何も聞くな』と目線で返された。そうこうするうちに、出来た執事がアテーシアの分の飲み物を用意しちゃったりなんかして、貴方、気が利き過ぎるのよと抗議したくなった。
「随分、日に焼けたね。」
「はあ。」
この席、可怪しくないか?
何故か辺境伯を前にして、アテーシアはアンドリューの隣の席を促された。駄目でしょう、この配置。しかし、アンドリューがこちらへと言うのだから仕方が無い。それから、話し掛ける度にいちいちこちらを覗き込まないで欲しい。
向かいに座る辺境伯を見れば、むきーっ、なんでにやにやしてるんだ!
アンドリューは、そんなアテーシアにはお構いなく、辺境伯領とは毎日晴れなんだね、とか、辺境とは四日に一度晴れ後曇りになるんだね、とか、アテーシアの適当な報告をちくちくちくちく非難する。
真横から覗き込まれて麗しい微笑みで嫌味を聞かされる苦行。辺境伯領に来てから受けたどの鍛錬より辛く苦しい時間であった。
「シア嬢。」
「はあ」
「君が言ってくれた様に、私は婚約者に文を送っているんだがね。」
「はあ」
「全然返事が来ないのだよ。」
「...」
「どうしてだろうね。君、私が書けばきっと彼女も返事をくれると、確かそう言ったよね。」
「...」
「一体彼女に何があったんだろうか。郵送事故でも起こったのか。」
「...」
「君からの文なら毎日きちんと届いている。いろいろ嘆願めいた事がびっしり記されているが、残念なのは我が婚約者殿の様子が一個も書かれていない事かな。ああ、すまない。無理を言ったね。君は鍛錬で多忙なんだね。私の頼み事を迂闊にもうっかりと愚かにも忘れてしまうのは仕方のない事だよね。
はてさて、君の文は届くのに、どうして愛しの婚約者殿の文は届かないのか。それを考えると、私は今晩眠れそうにない。」
アテーシアはそれから四半刻、アンドリューの嫌味を聞かされ続けた。
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