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いやあ、さっきのアンドリューは何だったのだろう。
彼とはあれほど沸点の低い人だったろうか。
走り出した馬車の中で、アテーシアは先程のアンドリューを思い出す。
あんなアンドリューを初めて見た。
あれは間違いなく怒っていた。
君子危うきに近寄らずとは常より思っていたのだが、君子こそ危うい人物だった。
あんな芯まで底冷えする表情をアテーシアに向けたアンドリューは、生徒会室でカロライナ嬢へ向けたような温かな笑みを見せてくれることなど無いのだろう。
城内競歩で汗ばんだ身体が、すっと冷えた。
これはもしかしたら、思った以上に早く事態が動くかも知れない。
そうアテーシアが思ったのは、その晩、父が邸に戻らなかったからである。どうやら城に詰めているらしい。
思い当たる事は一つしか無い。
アンドリューをあれほど冷たく怒らせたアテーシアは、王太子の伴侶に不適格と判断された筈である。あの場には近衛騎士もいて一部始終を見ていたし、女官ならスーパー競歩で早々に振り切ってしまった。そんな王太子妃など大陸中探しても何処にもいないだろう。
事は水面下で動いており、今は嵐の前の何とやら。解消だなんて生温い、場合によってはアテーシアに王妃の資質が欠けていると見做されての破棄となるかも知れない。
王太子殿下に婚約破棄をされたなら、アテーシアはもう何処にもお嫁になんて行けないから、身の振り方を考えなければならないだろう。
嫁ぐ未来が潰えるのであれば、これは本腰を入れて辺境騎士を目指さねばなるまい。
月の美しい夜である。アテーシアは窓辺に歩み寄って窓から空を見上げた。
満月を過ぎたばかりの月が欠けている。
欠けるところの無い満月の様なアンドリューを怒らせて、現実の月まで欠いてしまった様に見えた。
アテーシアは、手に持ったサーベルの鞘を抜く。刃に月光が反射してきらりと冷たい光を放った。
真正面に剣を掲げ持ち、そのまま空へ向けて月光に晒す。
この剣身は我が身である。
今宵これより私は貴族令嬢の身分を忘れよう。実際はまだちょっと無理だけれど、気持ちだけでもそう思おう。
私は辺境の地で生きる剣士となろう。この刃一本を糧にして、この人生を生き抜こう。
幼い頃より少しばかり思い込みの激しいアテーシアは、一通り思い込みの儀式を終えて、それからそそくさと剣を仕舞う。
大切に剣を仕舞ってから、寝台に寝転んだ。そうしてかなり寝つきが良い質であったから、あっという間に深い眠りに入ってしまった。
だからうっかり巷の恋愛小説にあるような、失恋を思い嘆いて感傷に浸る絶好の機会を失った。
気が付いた時には、既に朝になっていた。すっきりとした目覚めで朝を迎えていた。
「お父様は、まだ王城にいらっしゃるのかしら。」
執事にそれとなく聞いて見れば、やはりまだ戻っていないと言う。
もう午後のティータイムも過ぎている。父が城に詰めるのは珍しい事ではないのだが、それは大抵面倒事を片付けている時である。
母も兄も戻らない父を心配する様子はなかったから、居た堪れなくなってしまったアテーシアは昨日のアンドリューのと会話を掻い摘んで話してしまった。
滅多に会わない婚約者を、何が悪かったのか怒らせてしまった。あんなアンドリューを見たことがなかったから、アンドリューに良かれと思ったアテーシアは余程の悪手を打ったのだろう。
意図した訳では無いのだが、結果、王城の女官を振り切って背中に羽を生やしたように馬車に飛び乗って帰って来たところまでを説明すれば、母はにんまり笑みを浮かべた。兄は泣いているように見えた。何かを堪えるあまり泣き笑いになってしまって、その可怪しな様子にアテーシアは申し訳なく思った。
「良いのではなくて。貴女が気にする事などないわ。女官はお気の毒ですけれど、この機会に身体を鍛えればよろしい。」
「私、悪気なんて全然なかったのです。いつもの癖でつい歩く速度が速まってしまって。それに、コンスタンスはちゃんと付いてきてくれたし。」
コンスタンスとは、昨日登城するアテーシアに侍っていた侍女である。超絶競歩で王妃の間から戻って来たアテーシアに驚きながらも、彼女はきっちりアテーシアの背後から付いてきた。
アテーシアは多忙であるが故に歩く速度が速い。それを優雅な姿勢で熟すから傍目に不自然に見えないだけで、モールバラ公爵家に仕える者ならみんな知ってる事である。
「それに、私は殿下を怒らせてしまいました。何が悪かったかは皆目見当が付きませんが。」
そこで兄がぶほっと噎せて、ハンカチで目元を拭っている。
「貴女は何も気にせずに、辺境の大地を楽しんでいらっしゃい。雄大な自然に抱かれた辺境伯領で伸び伸び剣の稽古をしていれば良いわ。メリーを連れて行くのでしょう?遠乗りもきっと楽しいわよ。」
メリーとは、アテーシアの親友である。
モールバラ公爵家の厩で飼われる牝馬である。社交界から離れて妃教育に励むアテーシアには、お友達とは自邸の馬しかいなかった。
学園に入って漸くパトリシアやフランシスと出会って、「ヒト科」の友人が出来たのである。
西の辺境伯へ向うのにも、アテーシアはメリーに乗って行く予定であった。
彼とはあれほど沸点の低い人だったろうか。
走り出した馬車の中で、アテーシアは先程のアンドリューを思い出す。
あんなアンドリューを初めて見た。
あれは間違いなく怒っていた。
君子危うきに近寄らずとは常より思っていたのだが、君子こそ危うい人物だった。
あんな芯まで底冷えする表情をアテーシアに向けたアンドリューは、生徒会室でカロライナ嬢へ向けたような温かな笑みを見せてくれることなど無いのだろう。
城内競歩で汗ばんだ身体が、すっと冷えた。
これはもしかしたら、思った以上に早く事態が動くかも知れない。
そうアテーシアが思ったのは、その晩、父が邸に戻らなかったからである。どうやら城に詰めているらしい。
思い当たる事は一つしか無い。
アンドリューをあれほど冷たく怒らせたアテーシアは、王太子の伴侶に不適格と判断された筈である。あの場には近衛騎士もいて一部始終を見ていたし、女官ならスーパー競歩で早々に振り切ってしまった。そんな王太子妃など大陸中探しても何処にもいないだろう。
事は水面下で動いており、今は嵐の前の何とやら。解消だなんて生温い、場合によってはアテーシアに王妃の資質が欠けていると見做されての破棄となるかも知れない。
王太子殿下に婚約破棄をされたなら、アテーシアはもう何処にもお嫁になんて行けないから、身の振り方を考えなければならないだろう。
嫁ぐ未来が潰えるのであれば、これは本腰を入れて辺境騎士を目指さねばなるまい。
月の美しい夜である。アテーシアは窓辺に歩み寄って窓から空を見上げた。
満月を過ぎたばかりの月が欠けている。
欠けるところの無い満月の様なアンドリューを怒らせて、現実の月まで欠いてしまった様に見えた。
アテーシアは、手に持ったサーベルの鞘を抜く。刃に月光が反射してきらりと冷たい光を放った。
真正面に剣を掲げ持ち、そのまま空へ向けて月光に晒す。
この剣身は我が身である。
今宵これより私は貴族令嬢の身分を忘れよう。実際はまだちょっと無理だけれど、気持ちだけでもそう思おう。
私は辺境の地で生きる剣士となろう。この刃一本を糧にして、この人生を生き抜こう。
幼い頃より少しばかり思い込みの激しいアテーシアは、一通り思い込みの儀式を終えて、それからそそくさと剣を仕舞う。
大切に剣を仕舞ってから、寝台に寝転んだ。そうしてかなり寝つきが良い質であったから、あっという間に深い眠りに入ってしまった。
だからうっかり巷の恋愛小説にあるような、失恋を思い嘆いて感傷に浸る絶好の機会を失った。
気が付いた時には、既に朝になっていた。すっきりとした目覚めで朝を迎えていた。
「お父様は、まだ王城にいらっしゃるのかしら。」
執事にそれとなく聞いて見れば、やはりまだ戻っていないと言う。
もう午後のティータイムも過ぎている。父が城に詰めるのは珍しい事ではないのだが、それは大抵面倒事を片付けている時である。
母も兄も戻らない父を心配する様子はなかったから、居た堪れなくなってしまったアテーシアは昨日のアンドリューのと会話を掻い摘んで話してしまった。
滅多に会わない婚約者を、何が悪かったのか怒らせてしまった。あんなアンドリューを見たことがなかったから、アンドリューに良かれと思ったアテーシアは余程の悪手を打ったのだろう。
意図した訳では無いのだが、結果、王城の女官を振り切って背中に羽を生やしたように馬車に飛び乗って帰って来たところまでを説明すれば、母はにんまり笑みを浮かべた。兄は泣いているように見えた。何かを堪えるあまり泣き笑いになってしまって、その可怪しな様子にアテーシアは申し訳なく思った。
「良いのではなくて。貴女が気にする事などないわ。女官はお気の毒ですけれど、この機会に身体を鍛えればよろしい。」
「私、悪気なんて全然なかったのです。いつもの癖でつい歩く速度が速まってしまって。それに、コンスタンスはちゃんと付いてきてくれたし。」
コンスタンスとは、昨日登城するアテーシアに侍っていた侍女である。超絶競歩で王妃の間から戻って来たアテーシアに驚きながらも、彼女はきっちりアテーシアの背後から付いてきた。
アテーシアは多忙であるが故に歩く速度が速い。それを優雅な姿勢で熟すから傍目に不自然に見えないだけで、モールバラ公爵家に仕える者ならみんな知ってる事である。
「それに、私は殿下を怒らせてしまいました。何が悪かったかは皆目見当が付きませんが。」
そこで兄がぶほっと噎せて、ハンカチで目元を拭っている。
「貴女は何も気にせずに、辺境の大地を楽しんでいらっしゃい。雄大な自然に抱かれた辺境伯領で伸び伸び剣の稽古をしていれば良いわ。メリーを連れて行くのでしょう?遠乗りもきっと楽しいわよ。」
メリーとは、アテーシアの親友である。
モールバラ公爵家の厩で飼われる牝馬である。社交界から離れて妃教育に励むアテーシアには、お友達とは自邸の馬しかいなかった。
学園に入って漸くパトリシアやフランシスと出会って、「ヒト科」の友人が出来たのである。
西の辺境伯へ向うのにも、アテーシアはメリーに乗って行く予定であった。
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