15 / 60
【15】
しおりを挟む
鍵はなんの変哲もない古鍵に見えた。
小さく古びており、とても王国の禁書を収める棚の鍵には見えなかった。それでも小さなアテーシアの手の中で、確かな存在感を放っていた。
「頂けませんわ。」
小箱の蓋を閉めて、アテーシアは箱をそっとテーブルに置いた。
「禁書は私の目に触れて良いものではございません。」
「君には資格がある。」
それはモールバラ公爵家の人間であるからか、アンドリューの婚約者であるからか。
しかし、一点違えてはならない事がある。
「殿下は仰いました。禁書に触れられるのは殿下の妃だと。私は殿下の妃ではございません。」
婚約とは約束ではあるけれど婚姻した事実ではない。アテーシアは、今日はアンドリューの婚約者ではあれど明日はどうかは解らない。限りなく没交渉の二人の未来とは、アテーシアにとっては暗いものにしか見えなかった。
「入学の祝いでございましたら、お気持ちだけ有難く頂戴させて頂きます。」
アテーシアはそこで静かに席を立って、退室の為に礼をした。アンドリューに背を向けて扉へ向かえば、女官の一人が側に付き従う。ここは王族の住まう特別区であったから、退出するのにもアテーシア独りと言う訳には行かない。彼女は王妃付きの女官であり、アンドリューとアテーシアの深まらない関係も知っている。
「アテーシア。」
退室しようとするその背に向かって、アンドリューが声を掛けた。アテーシアはその声に振り返り、次の言葉を待つ。
「学院は楽しいかい。」
アテーシアは淑女学院に入学したことになっている。けれども、現実の学園生活を思い浮かべて答えることにした。
「はい。」
アンドリューはそれに「そうか」と言っただけで、再び小箱を渡そうとはしなかった。
週末を生家で過ごすアテーシアは、日曜日の晩餐後には寮へと戻る。寮生活に慣れてしまうと、朝に邸から登校するのが些か面倒に思えてしまう。寮の生活は不便はあれど、何ものにも囚われない自由が感じられた。
コンコンと、小さく扉をノックすれば、「どなた?」と声が返って来た。
「シアです。」と小声で答えれば、程なくして扉が開いた。
「お帰りなさい、シア。」
「只今帰りました、パトリシア。」
元々一匹狼的な二人は、互いに最も親しい友人であるけれど、始終一緒と言う訳ではない。寮に戻って夕食を共にしてからは、各々自室で過ごす事が多かった。
それでも、今日の様に生家から戻った夜は、アテーシアはパトリシアの部屋を訪れる。
大抵は、香りの良い茶葉やお茶請けの菓子などを持ち込んで、その中には『週刊貴婦人』も含まれる。
『週刊貴婦人』は、ご令嬢やご婦人方に人気の週刊誌である。学園の図書室にも毎週水曜日には新刊棚に並ぶのだが、如何せん、人気の余りになかなか読むことは叶わない。
ようやく棚に戻って来ても、次に待っているご令嬢方の圧を感じて、ゆっくり読めた例が無い。
邸には毎週火曜日に届けられているのだが、態々その為に帰ろうとは思えず、休暇の際に侍女らと一緒に読むのだが、学園へ戻る際に持って来る。そうして、お茶請けをつまみながらパトリシアとページを捲るのはアテーシアにとっては今まで体験した事のない楽しいひと時であった。
パトリシアは忌み子として生家から離れて暮らしているが、金銭的に圧迫されている訳では無い。
身だしなみは美しいし、持ち物も上質の物で揃えられている。両親や兄が彼女に対してどんな接し方をしているのかは、これまで聞いたことが無いから解らない。
けれども、弟だけなら直ぐに解る。奴の態度は全く以って宜しくない。
いつかこの件でも、彼奴をとっちめてやりたいとアテーシアは考えている。
この休日をアテーシアは生家に戻り家族と過ごした。王妃とのお茶会もあったし、突発的ではあれどアンドリューとも会った。
パトリシアは休日もこの寮で過ごしている様であった。詳しく聞いたことがないのは、休日に家族と過ごすアテーシアが聞く事ではないと思われたのと、パトリシアが話したい話題だけで、二人には十分だと思えたからだろう。
パトリシアからは、家族を慕う寂しさも忌み子を厭う家族への悪感情も感じられなかった。彼女は正しく侯爵家の令嬢で、貴族の矜持と気品をしっかりと身に付けている。そんなパトリシアからは、侯爵家に於いて令嬢としての確かな教育を施されていたのが見て取れた。
「ふふ、前髪がまた短くなっているわ。」
「ええ、伸びて来たので侍女に頼んで切ってもらいました。」
「貴女に似合っている。可愛いくてよ。」
「え、可愛いだなんて...」
「貴女、とても可愛らしいわ。」
こんな風に同性から掛けられる甘い言葉もこそばゆくて胸が温かくなる。
アテーシアは、パトリシアを通して自分以外の他者の幸福について考える様になった。この美しく清廉な友人が虐げられる理不尽さに憤りを感じるし、彼女が切り開く未来には幸福が待っていてほしいと願っている。
それは、将来の伴侶と定められているアンドリューに対しての感情とは異なっていた。アンドリューとは、アテーシアにとって欠けるところの無い満月である。見上げて崇める対象である。
初見の席で上手く心を通わせられず躓いてしまった関係ではあるが、それでも初めの頃は温かな感情を抱いていた。記憶を辿れば最初のそれは、烟る金の髪を持つ王子に対してはっきりと思慕の想いを抱いていたと思い出す。
アンドリューから禁書棚の鍵を渡されて同時に思い出したのは、十歳のアテーシアが、アンドリューの妃になる日を心待ちにしていた幼く淡く甘やかな感情であった。
そうしてその芽生えた仄かな恋心を手放したのも、やはりアンドリューの真っ青な瞳の中に自身へ向けられる同等の想いを感じ取れない事に気付いてしまったからだろう。
小さく古びており、とても王国の禁書を収める棚の鍵には見えなかった。それでも小さなアテーシアの手の中で、確かな存在感を放っていた。
「頂けませんわ。」
小箱の蓋を閉めて、アテーシアは箱をそっとテーブルに置いた。
「禁書は私の目に触れて良いものではございません。」
「君には資格がある。」
それはモールバラ公爵家の人間であるからか、アンドリューの婚約者であるからか。
しかし、一点違えてはならない事がある。
「殿下は仰いました。禁書に触れられるのは殿下の妃だと。私は殿下の妃ではございません。」
婚約とは約束ではあるけれど婚姻した事実ではない。アテーシアは、今日はアンドリューの婚約者ではあれど明日はどうかは解らない。限りなく没交渉の二人の未来とは、アテーシアにとっては暗いものにしか見えなかった。
「入学の祝いでございましたら、お気持ちだけ有難く頂戴させて頂きます。」
アテーシアはそこで静かに席を立って、退室の為に礼をした。アンドリューに背を向けて扉へ向かえば、女官の一人が側に付き従う。ここは王族の住まう特別区であったから、退出するのにもアテーシア独りと言う訳には行かない。彼女は王妃付きの女官であり、アンドリューとアテーシアの深まらない関係も知っている。
「アテーシア。」
退室しようとするその背に向かって、アンドリューが声を掛けた。アテーシアはその声に振り返り、次の言葉を待つ。
「学院は楽しいかい。」
アテーシアは淑女学院に入学したことになっている。けれども、現実の学園生活を思い浮かべて答えることにした。
「はい。」
アンドリューはそれに「そうか」と言っただけで、再び小箱を渡そうとはしなかった。
週末を生家で過ごすアテーシアは、日曜日の晩餐後には寮へと戻る。寮生活に慣れてしまうと、朝に邸から登校するのが些か面倒に思えてしまう。寮の生活は不便はあれど、何ものにも囚われない自由が感じられた。
コンコンと、小さく扉をノックすれば、「どなた?」と声が返って来た。
「シアです。」と小声で答えれば、程なくして扉が開いた。
「お帰りなさい、シア。」
「只今帰りました、パトリシア。」
元々一匹狼的な二人は、互いに最も親しい友人であるけれど、始終一緒と言う訳ではない。寮に戻って夕食を共にしてからは、各々自室で過ごす事が多かった。
それでも、今日の様に生家から戻った夜は、アテーシアはパトリシアの部屋を訪れる。
大抵は、香りの良い茶葉やお茶請けの菓子などを持ち込んで、その中には『週刊貴婦人』も含まれる。
『週刊貴婦人』は、ご令嬢やご婦人方に人気の週刊誌である。学園の図書室にも毎週水曜日には新刊棚に並ぶのだが、如何せん、人気の余りになかなか読むことは叶わない。
ようやく棚に戻って来ても、次に待っているご令嬢方の圧を感じて、ゆっくり読めた例が無い。
邸には毎週火曜日に届けられているのだが、態々その為に帰ろうとは思えず、休暇の際に侍女らと一緒に読むのだが、学園へ戻る際に持って来る。そうして、お茶請けをつまみながらパトリシアとページを捲るのはアテーシアにとっては今まで体験した事のない楽しいひと時であった。
パトリシアは忌み子として生家から離れて暮らしているが、金銭的に圧迫されている訳では無い。
身だしなみは美しいし、持ち物も上質の物で揃えられている。両親や兄が彼女に対してどんな接し方をしているのかは、これまで聞いたことが無いから解らない。
けれども、弟だけなら直ぐに解る。奴の態度は全く以って宜しくない。
いつかこの件でも、彼奴をとっちめてやりたいとアテーシアは考えている。
この休日をアテーシアは生家に戻り家族と過ごした。王妃とのお茶会もあったし、突発的ではあれどアンドリューとも会った。
パトリシアは休日もこの寮で過ごしている様であった。詳しく聞いたことがないのは、休日に家族と過ごすアテーシアが聞く事ではないと思われたのと、パトリシアが話したい話題だけで、二人には十分だと思えたからだろう。
パトリシアからは、家族を慕う寂しさも忌み子を厭う家族への悪感情も感じられなかった。彼女は正しく侯爵家の令嬢で、貴族の矜持と気品をしっかりと身に付けている。そんなパトリシアからは、侯爵家に於いて令嬢としての確かな教育を施されていたのが見て取れた。
「ふふ、前髪がまた短くなっているわ。」
「ええ、伸びて来たので侍女に頼んで切ってもらいました。」
「貴女に似合っている。可愛いくてよ。」
「え、可愛いだなんて...」
「貴女、とても可愛らしいわ。」
こんな風に同性から掛けられる甘い言葉もこそばゆくて胸が温かくなる。
アテーシアは、パトリシアを通して自分以外の他者の幸福について考える様になった。この美しく清廉な友人が虐げられる理不尽さに憤りを感じるし、彼女が切り開く未来には幸福が待っていてほしいと願っている。
それは、将来の伴侶と定められているアンドリューに対しての感情とは異なっていた。アンドリューとは、アテーシアにとって欠けるところの無い満月である。見上げて崇める対象である。
初見の席で上手く心を通わせられず躓いてしまった関係ではあるが、それでも初めの頃は温かな感情を抱いていた。記憶を辿れば最初のそれは、烟る金の髪を持つ王子に対してはっきりと思慕の想いを抱いていたと思い出す。
アンドリューから禁書棚の鍵を渡されて同時に思い出したのは、十歳のアテーシアが、アンドリューの妃になる日を心待ちにしていた幼く淡く甘やかな感情であった。
そうしてその芽生えた仄かな恋心を手放したのも、やはりアンドリューの真っ青な瞳の中に自身へ向けられる同等の想いを感じ取れない事に気付いてしまったからだろう。
3,755
お気に入りに追加
3,351
あなたにおすすめの小説

意地を張っていたら6年もたってしまいました
Hkei
恋愛
「セドリック様が悪いのですわ!」
「そうか?」
婚約者である私の誕生日パーティーで他の令嬢ばかり褒めて、そんなに私のことが嫌いですか!
「もう…セドリック様なんて大嫌いです!!」
その後意地を張っていたら6年もたってしまっていた二人の話。

王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。

【完結】妹が旦那様とキスしていたのを見たのが十日前
地鶏
恋愛
私、アリシア・ブルームは順風満帆な人生を送っていた。
あの日、私の婚約者であるライア様と私の妹が濃厚なキスを交わすあの場面をみるまでは……。
私の気持ちを裏切り、弄んだ二人を、私は許さない。
アリシア・ブルームの復讐が始まる。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
【完結】夫は私に精霊の泉に身を投げろと言った
冬馬亮
恋愛
クロイセフ王国の王ジョーセフは、妻である正妃アリアドネに「精霊の泉に身を投げろ」と言った。
「そこまで頑なに無実を主張するのなら、精霊王の裁きに身を委ね、己の無実を証明してみせよ」と。
※精霊の泉での罪の判定方法は、魔女狩りで行われていた水審『水に沈めて生きていたら魔女として処刑、死んだら普通の人間とみなす』という逸話をモチーフにしています。

【完結】悪役令嬢は3歳?〜断罪されていたのは、幼女でした〜
白崎りか
恋愛
魔法学園の卒業式に招かれた保護者達は、突然、王太子の始めた蛮行に驚愕した。
舞台上で、大柄な男子生徒が幼い子供を押さえつけているのだ。
王太子は、それを見下ろし、子供に向って婚約破棄を告げた。
「ヒナコのノートを汚したな!」
「ちがうもん。ミア、お絵かきしてただけだもん!」
小説家になろう様でも投稿しています。

筆頭婚約者候補は「一抜け」を叫んでさっさと逃げ出した
基本二度寝
恋愛
王太子には婚約者候補が二十名ほどいた。
その中でも筆頭にいたのは、顔よし頭良し、すべての条件を持っていた公爵家の令嬢。
王太子を立てることも忘れない彼女に、ひとつだけ不満があった。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる