3 / 60
【3】
しおりを挟む
父の執務室から自室に戻ったアテーシアは、さてどうしようと鏡に向き合った。
紺碧の瞳がこちらを見ている。兄が「吸い込まれそう」と揶揄した瞳である。
青でもなく翠でもない、濃く深く深海にも似た紺碧の瞳に、せめて光彩に榛色が混ざっていたなら目立たなかっただろうと残念に思う。
この瞳の色を持っていたのは祖父である。
父も兄もそうして母も、家族は皆揃いも揃って鮮やかな青い色の瞳であった。髪色こそ同じ焦げ茶のブルネットであるが、隔世遺伝したこの瞳こそゴーンド家の引いてはモールバラ公爵一族の色なのだ。
見る人が見るなら解ってしまう。アテーシアがモールバラ公爵家の直系子孫であるのだと。
「これはマズいでしょう。」
学園に通うには、この見目をなんとかせねばなるまい。多忙にかまけて社交も街歩きもご無沙汰なアテーシアは、私財だけは潤沢であったから、贅沢にも週刊誌を取り寄せていた。
書物は高価である。雑誌とは云え、それを毎週購入するには安定した財力があるか、商家を営んだり流行を追う稼業に従事しているかであろう。
たった一人の令嬢の為に毎週書籍を購入するのは贅沢な事である。
だがしかし。アテーシアには自由な時間も惰眠を貪る時間も無く、なんなら午後のお茶すらすっ飛ばして勉学に励んでいたから、それくらいの贅沢は許される。
意識を学問からちょっと逸脱させるのにもってこいなのが高尚とは言えない週刊誌なのである。
王都で人気の『週刊貴婦人』は、その点非常に具合が良い。
まず表紙絵が流行最先端のご令嬢の姿絵である。流行に疎いアテーシアは、なになに今はこんなドレスが流行っているのね、だとか、髪を結うのにこんな結い方があるのね、だとか、侍女等と一緒にテーブルを囲みながら眺めるのが良い息抜きになっていた。
連続小説『ベルサイユのかすみ草』には、何度涙腺を破壊された事か。
王妃教育の「秘技・顔色を変えない」を骨の随まで仕込まれているアテーシアにとって、心の赴くままに咽び泣ける悲恋の物語は、まだ若い身でありながら情操のリハビリとなっていた。
たった一冊の週刊誌に、アテーシアは心の機微を救われている。そうして今は、雑誌の中の記事に、正確には挿絵に見入っていた。
「眼鏡が流行っていると言うの?」
巷では『眼鏡っ娘』と言うらしい。そうして、
「前髪があるわ。」
アテーシアの前髪は古風と言えば聞こえは良いが、まあ、クラシカルな髪型である。
前髪を作らずに長く流すか時折ポンパドールにするか、横髪と一緒に編み込むか。
だが目の前の特集記事『今日の街角ご令嬢』の挿絵には、前髪ぱっつんのご令嬢が膝丈のワンピースを纏ってこちらに微笑みかけている。
「成る程。」
こんなぱっつんにしてしまったら、夜会や茶会の装いは無理だろう。
美しく装う母のエレガントな姿を思い出す。けれども、アテーシアはデヴュタント前である。社交場に出ない今ならギリギリ行けるかもしれない。
早速侍女を呼んで、
「これをお願い出来るかしら。」と言えば、侍女は慌てて母を呼んでしまった。
「アテーシア。旦那様からお話しは聞いているわ。子爵の身分で学園に通うのは、正直頂けないお話しよ。けれど、我が儘ひとつ言うことなくこれまで励んだ貴女には、せめて学園生活くらい楽しんで欲しいと思っているわ。ですが、それとこの髪型とは別のお話しでしてよ。」
「ですがお母様。この見目では直ぐに身分もバレてしまいますわ。私、やる時は徹底的にやりたいのです。手抜きなんて出来ませんわ。このぱっつんな前髪に、この眼鏡を掛ければ、多分この瞳も解り難いでしょうし、誰も私が公爵家の人間だと思わないでしょう。
お母様、嘘を付くなら最後まで。これは貴族の鉄則ですわ。」
常に無い力説に、果たして母は折れてくれた。
父も母もここまでアテーシアに甘いのは、まるでゼンマイ仕掛けの絡繰人形の様に、王家から与えられたカリキュラムをひたむきに熟してきた娘への憐憫に他ならない。
我が儘も口答えもせずに、只管勤勉に学ぶだけの暮らしであった。
そうして、何のための学びなのか元を辿れば突き当たる肝心の婚約者とは、親の目から見ても全然全く上手く行っていない。
寧ろアンドリューをすっ飛ばして、王妃とは月一で茶会に呼ばれたりして、殿下より王妃との交流の方が深くなっている。
母はやはり母である。名を変え変装してまで学園に通おうとする娘の気持ちも分からなくもないのである。
「まあ、良いでしょう。」
結局、母も父と同じ様な言葉で許してくれた。そうして眼鏡の手配もしてくれるという。黒縁の、吊り上がったのが良いわね。ガヴァネスみたいで良くないかしらと言うアテーシアの希望は、素気なく却下されてしまったが。
母と侍女が部屋を出てから、独りになったアテーシアは考える。
父には、別の身分であれば、高位貴族の平素の姿も低位貴族の在りようもこの目で直に確かめる事が出来るだなんて大層な事を語ったが、そんなのは方便でしかない。
本心では、学園で貴族子女等がどんなであるかなんて興味も無い。
ただひとつ、アンドリューと接触するのを良しと思えなかった。
これまで六年もの間、交流を深められずに来たと言うのに、これから共に学園に通ったからと、行き成り関係が変わるなんて事があるだろうか。そもそも学園でどんな顔で会えば良いのか。
女軍神の名を授かって、名前が強いばっかりに疎まれていると信じて疑わないアテーシアは、学園で大勢の子女等の前でそんな扱いを受けたなら、今まで努力した自分が報われないと思った。
そうして、この婚約に明るい未来を思い浮かべられないが為に、名も見目も謀って、一層別人となってでもアンドリューと距離を取りたいと考えた。
君子危うきに近寄らず。
女軍神、王太子に近寄らず、である。
紺碧の瞳がこちらを見ている。兄が「吸い込まれそう」と揶揄した瞳である。
青でもなく翠でもない、濃く深く深海にも似た紺碧の瞳に、せめて光彩に榛色が混ざっていたなら目立たなかっただろうと残念に思う。
この瞳の色を持っていたのは祖父である。
父も兄もそうして母も、家族は皆揃いも揃って鮮やかな青い色の瞳であった。髪色こそ同じ焦げ茶のブルネットであるが、隔世遺伝したこの瞳こそゴーンド家の引いてはモールバラ公爵一族の色なのだ。
見る人が見るなら解ってしまう。アテーシアがモールバラ公爵家の直系子孫であるのだと。
「これはマズいでしょう。」
学園に通うには、この見目をなんとかせねばなるまい。多忙にかまけて社交も街歩きもご無沙汰なアテーシアは、私財だけは潤沢であったから、贅沢にも週刊誌を取り寄せていた。
書物は高価である。雑誌とは云え、それを毎週購入するには安定した財力があるか、商家を営んだり流行を追う稼業に従事しているかであろう。
たった一人の令嬢の為に毎週書籍を購入するのは贅沢な事である。
だがしかし。アテーシアには自由な時間も惰眠を貪る時間も無く、なんなら午後のお茶すらすっ飛ばして勉学に励んでいたから、それくらいの贅沢は許される。
意識を学問からちょっと逸脱させるのにもってこいなのが高尚とは言えない週刊誌なのである。
王都で人気の『週刊貴婦人』は、その点非常に具合が良い。
まず表紙絵が流行最先端のご令嬢の姿絵である。流行に疎いアテーシアは、なになに今はこんなドレスが流行っているのね、だとか、髪を結うのにこんな結い方があるのね、だとか、侍女等と一緒にテーブルを囲みながら眺めるのが良い息抜きになっていた。
連続小説『ベルサイユのかすみ草』には、何度涙腺を破壊された事か。
王妃教育の「秘技・顔色を変えない」を骨の随まで仕込まれているアテーシアにとって、心の赴くままに咽び泣ける悲恋の物語は、まだ若い身でありながら情操のリハビリとなっていた。
たった一冊の週刊誌に、アテーシアは心の機微を救われている。そうして今は、雑誌の中の記事に、正確には挿絵に見入っていた。
「眼鏡が流行っていると言うの?」
巷では『眼鏡っ娘』と言うらしい。そうして、
「前髪があるわ。」
アテーシアの前髪は古風と言えば聞こえは良いが、まあ、クラシカルな髪型である。
前髪を作らずに長く流すか時折ポンパドールにするか、横髪と一緒に編み込むか。
だが目の前の特集記事『今日の街角ご令嬢』の挿絵には、前髪ぱっつんのご令嬢が膝丈のワンピースを纏ってこちらに微笑みかけている。
「成る程。」
こんなぱっつんにしてしまったら、夜会や茶会の装いは無理だろう。
美しく装う母のエレガントな姿を思い出す。けれども、アテーシアはデヴュタント前である。社交場に出ない今ならギリギリ行けるかもしれない。
早速侍女を呼んで、
「これをお願い出来るかしら。」と言えば、侍女は慌てて母を呼んでしまった。
「アテーシア。旦那様からお話しは聞いているわ。子爵の身分で学園に通うのは、正直頂けないお話しよ。けれど、我が儘ひとつ言うことなくこれまで励んだ貴女には、せめて学園生活くらい楽しんで欲しいと思っているわ。ですが、それとこの髪型とは別のお話しでしてよ。」
「ですがお母様。この見目では直ぐに身分もバレてしまいますわ。私、やる時は徹底的にやりたいのです。手抜きなんて出来ませんわ。このぱっつんな前髪に、この眼鏡を掛ければ、多分この瞳も解り難いでしょうし、誰も私が公爵家の人間だと思わないでしょう。
お母様、嘘を付くなら最後まで。これは貴族の鉄則ですわ。」
常に無い力説に、果たして母は折れてくれた。
父も母もここまでアテーシアに甘いのは、まるでゼンマイ仕掛けの絡繰人形の様に、王家から与えられたカリキュラムをひたむきに熟してきた娘への憐憫に他ならない。
我が儘も口答えもせずに、只管勤勉に学ぶだけの暮らしであった。
そうして、何のための学びなのか元を辿れば突き当たる肝心の婚約者とは、親の目から見ても全然全く上手く行っていない。
寧ろアンドリューをすっ飛ばして、王妃とは月一で茶会に呼ばれたりして、殿下より王妃との交流の方が深くなっている。
母はやはり母である。名を変え変装してまで学園に通おうとする娘の気持ちも分からなくもないのである。
「まあ、良いでしょう。」
結局、母も父と同じ様な言葉で許してくれた。そうして眼鏡の手配もしてくれるという。黒縁の、吊り上がったのが良いわね。ガヴァネスみたいで良くないかしらと言うアテーシアの希望は、素気なく却下されてしまったが。
母と侍女が部屋を出てから、独りになったアテーシアは考える。
父には、別の身分であれば、高位貴族の平素の姿も低位貴族の在りようもこの目で直に確かめる事が出来るだなんて大層な事を語ったが、そんなのは方便でしかない。
本心では、学園で貴族子女等がどんなであるかなんて興味も無い。
ただひとつ、アンドリューと接触するのを良しと思えなかった。
これまで六年もの間、交流を深められずに来たと言うのに、これから共に学園に通ったからと、行き成り関係が変わるなんて事があるだろうか。そもそも学園でどんな顔で会えば良いのか。
女軍神の名を授かって、名前が強いばっかりに疎まれていると信じて疑わないアテーシアは、学園で大勢の子女等の前でそんな扱いを受けたなら、今まで努力した自分が報われないと思った。
そうして、この婚約に明るい未来を思い浮かべられないが為に、名も見目も謀って、一層別人となってでもアンドリューと距離を取りたいと考えた。
君子危うきに近寄らず。
女軍神、王太子に近寄らず、である。
3,170
お気に入りに追加
3,310
あなたにおすすめの小説
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
意地を張っていたら6年もたってしまいました
Hkei
恋愛
「セドリック様が悪いのですわ!」
「そうか?」
婚約者である私の誕生日パーティーで他の令嬢ばかり褒めて、そんなに私のことが嫌いですか!
「もう…セドリック様なんて大嫌いです!!」
その後意地を張っていたら6年もたってしまっていた二人の話。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
全てを捨てて、わたしらしく生きていきます。
彩華(あやはな)
恋愛
3年前にリゼッタお姉様が風邪で死んだ後、お姉様の婚約者であるバルト様と結婚したわたし、サリーナ。バルト様はお姉様の事を愛していたため、わたしに愛情を向けることはなかった。じっと耐えた3年間。でも、人との出会いはわたしを変えていく。自由になるために全てを捨てる覚悟を決め、わたしはわたしらしく生きる事を決意する。
筆頭婚約者候補は「一抜け」を叫んでさっさと逃げ出した
基本二度寝
恋愛
王太子には婚約者候補が二十名ほどいた。
その中でも筆頭にいたのは、顔よし頭良し、すべての条件を持っていた公爵家の令嬢。
王太子を立てることも忘れない彼女に、ひとつだけ不満があった。
完結 「愛が重い」と言われたので尽くすのを全部止めたところ
音爽(ネソウ)
恋愛
アルミロ・ルファーノ伯爵令息は身体が弱くいつも臥せっていた。財があっても自由がないと嘆く。
だが、そんな彼を幼少期から知る婚約者ニーナ・ガーナインは献身的につくした。
相思相愛で結ばれたはずが健気に尽くす彼女を疎ましく感じる相手。
どんな無茶な要望にも応えていたはずが裏切られることになる。
【完結】夫は私に精霊の泉に身を投げろと言った
冬馬亮
恋愛
クロイセフ王国の王ジョーセフは、妻である正妃アリアドネに「精霊の泉に身を投げろ」と言った。
「そこまで頑なに無実を主張するのなら、精霊王の裁きに身を委ね、己の無実を証明してみせよ」と。
※精霊の泉での罪の判定方法は、魔女狩りで行われていた水審『水に沈めて生きていたら魔女として処刑、死んだら普通の人間とみなす』という逸話をモチーフにしています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる