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「アテーシア、本気で言っているのかな?」
「ええ。本気も本気、マジですわ。」
「マジ?」
侍女らがよく言う流行り言葉を口にすれば、どうやら父には通じない様であった。
「だが、何故態々従属爵位の名を名乗るのだ?お前は我が公爵家の令嬢で王太子殿下の婚約者ではないか。今までは貴族子女等との会合は叶わなかったが、これからは堂々と殿下の婚約者として子女等と交流出来るのだぞ?」
「ええ。ですから尚の事なのです。公爵家の身分では高みに据えられて、貴族社会の真の姿も見えませんでしょう。別の身分であれば、高位貴族の平素の姿も低位貴族の在りようもこの目で直に確かめる事が出来るのではないかと思うのです。」
「しかし、アテーシア。お前に使える従属爵位は子爵位だぞ?それでは高位貴族はおろか殿下に侍るのにも不足がある。」
父が言うのもよく解る。
公爵家に従属爵位は幾つかある。サンダー伯爵位は兄が既に継承されていたから、アテーシアが使える爵位はルース子爵位であった。
子爵は低位貴族であるから、伯爵家以上の高位貴族にはそうそう気安く関われないだろう。身分の公平は学問の上の事であり、爵位が消えて無くなる訳では無い。
そうして子爵の娘を騙る事は、学園においてアンドリュー殿下に近付く機会が無い事を意味する。
それでなくてもほぼ没交渉である。殿下は流石にアテーシアの顔を憶えているとは思うが、名が違えば他人のそら似と思うだろう。所詮、その程度の面識しかないのである。
王国のデヴュタントは十六歳の夏に行われる。まだ春の今は、正式な婚約者として社交の場にアテーシアが出る事は無かった。
貴族達に面の割れていないアテーシアなら、名を変えてちょっと見目も変えれば、容易く他人になれそうに思えた。
婚約者であるのに疎まれて、婚約して六年も経つというのに年に数度の会合しか無かった。その会合も、記憶に残る会話はあっただろうか。話題を辿れば、今日は天気が良いなから始まって、妃教育を頑張っているそうだねに続いて、後は何を話したか。そうだ、モールバラ公爵家には素晴らしい牝馬がいるらしいね、だ。殿下はお馬が好きらしい。
それから、それから、なんだったろう。それより最後に会ったのはいつだろう。
娘の言葉に耳を傾けていた父公爵も、二人が親しく逢瀬を重ねる関係などでは無い事を承知している筈である。だが、じきに学園に通う様になったなら、親しく学び会話を重ねて過ぎた時間を取り戻せるだろうと考えていた。
娘に無理を強いたい訳では無い。
けれども娘は六年を妃教育に費やした。それは既に妃として生まれた事と同義であろう。娘ほど王太子に相応しい令嬢はいないと彼は思っていた。
身分も資質も教養も、欠けるところの無い娘である。ちょっと頓珍漢なところはあるけれど、世間の狭い若い令嬢ならば有り得る事だろうと、あまり深刻には考えていなかった。
何より陛下が望んでいる。王妃もアテーシアなら不足は無いと認めている。
だがしかし、何故これ程まで王太子殿下との距離が離れてしまったのか。確かに勤勉な王子で、座学に加えて剣技を極めるのに勤しんでいるのは知っている。王子でなければ騎士団長まで登れるのではないかと言われている。
あれだけ美しい見目をして、その頬に傷を拵えて稽古に励んでいるのだとか。
どうしたものか、この二人。果たして添わせて良いのだろうか。
公爵は、ここに来て漸く娘の境遇に思い至った。この、何処かズレてる娘であれば、一層子爵の身分を纏って、貴族の縮図と言える学園で、高位貴族の行いも低位貴族の実力も、何より殿下の真の姿をその目で確かめるのも良いのかもしれない。
「良かろう。許可しよう。この機会にお前に子爵位を譲ろう。入学祝いだ。」
「え?お父様、宜しいので?名を借りるだけで良いのです。私は爵位が欲しい訳では無いのですが...」
「王妃も生家より爵位を継承されおられる。臣籍降下する王子にお譲りになるだろう。お前も子爵位を得て良いだろう。将来お前の子に継承するか公爵家に戻すかは好きにすれば良い。よって、これよりお前の正式な身分は子爵当主となる。だが婚姻するまでは、公の場では公爵家の身分を名乗ると約束出来るならだが。」
兄も伯爵位を継承しており、婚姻する事で正式に伯爵を名乗ることになる。それも父から公爵位を継承するまでの暫定的な爵位であるから、未婚の今は便宜上小公爵を名乗っていた。
「お約束致します!」
紺碧の瞳をキラキラさせてアテーシアは答えた。形骸的な爵位であるから領地管理など無い。名ばかり子爵であるのも世間知らずな自分には相応しい。学園では子爵令嬢を名乗って、そうだ名前もちょっと変えてみよう、戦女神の名前から離れよう。
「では、私はこれよりシア・G・ルースを名乗らせて頂きます!」
流石に家名は変えられない。しかし公爵位のモールバラを秘するだけで十全である。そうして元の名も前半分を削っただけであるから決して虚偽とはならないだろう。学園では、ルース子爵令嬢シアである。
してやったりなアテーシアを前に、父公爵は頭が痛くなるのであった。
「ええ。本気も本気、マジですわ。」
「マジ?」
侍女らがよく言う流行り言葉を口にすれば、どうやら父には通じない様であった。
「だが、何故態々従属爵位の名を名乗るのだ?お前は我が公爵家の令嬢で王太子殿下の婚約者ではないか。今までは貴族子女等との会合は叶わなかったが、これからは堂々と殿下の婚約者として子女等と交流出来るのだぞ?」
「ええ。ですから尚の事なのです。公爵家の身分では高みに据えられて、貴族社会の真の姿も見えませんでしょう。別の身分であれば、高位貴族の平素の姿も低位貴族の在りようもこの目で直に確かめる事が出来るのではないかと思うのです。」
「しかし、アテーシア。お前に使える従属爵位は子爵位だぞ?それでは高位貴族はおろか殿下に侍るのにも不足がある。」
父が言うのもよく解る。
公爵家に従属爵位は幾つかある。サンダー伯爵位は兄が既に継承されていたから、アテーシアが使える爵位はルース子爵位であった。
子爵は低位貴族であるから、伯爵家以上の高位貴族にはそうそう気安く関われないだろう。身分の公平は学問の上の事であり、爵位が消えて無くなる訳では無い。
そうして子爵の娘を騙る事は、学園においてアンドリュー殿下に近付く機会が無い事を意味する。
それでなくてもほぼ没交渉である。殿下は流石にアテーシアの顔を憶えているとは思うが、名が違えば他人のそら似と思うだろう。所詮、その程度の面識しかないのである。
王国のデヴュタントは十六歳の夏に行われる。まだ春の今は、正式な婚約者として社交の場にアテーシアが出る事は無かった。
貴族達に面の割れていないアテーシアなら、名を変えてちょっと見目も変えれば、容易く他人になれそうに思えた。
婚約者であるのに疎まれて、婚約して六年も経つというのに年に数度の会合しか無かった。その会合も、記憶に残る会話はあっただろうか。話題を辿れば、今日は天気が良いなから始まって、妃教育を頑張っているそうだねに続いて、後は何を話したか。そうだ、モールバラ公爵家には素晴らしい牝馬がいるらしいね、だ。殿下はお馬が好きらしい。
それから、それから、なんだったろう。それより最後に会ったのはいつだろう。
娘の言葉に耳を傾けていた父公爵も、二人が親しく逢瀬を重ねる関係などでは無い事を承知している筈である。だが、じきに学園に通う様になったなら、親しく学び会話を重ねて過ぎた時間を取り戻せるだろうと考えていた。
娘に無理を強いたい訳では無い。
けれども娘は六年を妃教育に費やした。それは既に妃として生まれた事と同義であろう。娘ほど王太子に相応しい令嬢はいないと彼は思っていた。
身分も資質も教養も、欠けるところの無い娘である。ちょっと頓珍漢なところはあるけれど、世間の狭い若い令嬢ならば有り得る事だろうと、あまり深刻には考えていなかった。
何より陛下が望んでいる。王妃もアテーシアなら不足は無いと認めている。
だがしかし、何故これ程まで王太子殿下との距離が離れてしまったのか。確かに勤勉な王子で、座学に加えて剣技を極めるのに勤しんでいるのは知っている。王子でなければ騎士団長まで登れるのではないかと言われている。
あれだけ美しい見目をして、その頬に傷を拵えて稽古に励んでいるのだとか。
どうしたものか、この二人。果たして添わせて良いのだろうか。
公爵は、ここに来て漸く娘の境遇に思い至った。この、何処かズレてる娘であれば、一層子爵の身分を纏って、貴族の縮図と言える学園で、高位貴族の行いも低位貴族の実力も、何より殿下の真の姿をその目で確かめるのも良いのかもしれない。
「良かろう。許可しよう。この機会にお前に子爵位を譲ろう。入学祝いだ。」
「え?お父様、宜しいので?名を借りるだけで良いのです。私は爵位が欲しい訳では無いのですが...」
「王妃も生家より爵位を継承されおられる。臣籍降下する王子にお譲りになるだろう。お前も子爵位を得て良いだろう。将来お前の子に継承するか公爵家に戻すかは好きにすれば良い。よって、これよりお前の正式な身分は子爵当主となる。だが婚姻するまでは、公の場では公爵家の身分を名乗ると約束出来るならだが。」
兄も伯爵位を継承しており、婚姻する事で正式に伯爵を名乗ることになる。それも父から公爵位を継承するまでの暫定的な爵位であるから、未婚の今は便宜上小公爵を名乗っていた。
「お約束致します!」
紺碧の瞳をキラキラさせてアテーシアは答えた。形骸的な爵位であるから領地管理など無い。名ばかり子爵であるのも世間知らずな自分には相応しい。学園では子爵令嬢を名乗って、そうだ名前もちょっと変えてみよう、戦女神の名前から離れよう。
「では、私はこれよりシア・G・ルースを名乗らせて頂きます!」
流石に家名は変えられない。しかし公爵位のモールバラを秘するだけで十全である。そうして元の名も前半分を削っただけであるから決して虚偽とはならないだろう。学園では、ルース子爵令嬢シアである。
してやったりなアテーシアを前に、父公爵は頭が痛くなるのであった。
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