黒革の日記

桃井すもも

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「キャスリーン。」

名を呼ばれてキャスリーンは思わず口を噤む。

「ああ、驚かせる気は無かった。どうか怖がらないでくれないか、その、」

アダムはそこでキャスリーンから視線を逸らし部屋の隅を流し見た。それから何かを思い決めたようにキャスリーンを再び見つめた。

「その、私は君が思うような清廉な男では無い。君が私の何処に惹かれたと言うのかとんと解らないが、私はそんな良い人間では、」「私が、私が貴方様が良いのだと言ったら?!」
「...」
「貴方を愛しているのです。他には何も望まぬ程に。この身は既に清くはございません。清廉で無いのは私の方なのです。
ですがアダム様。私は貴方の子が欲しい。誰の子でも無い、貴方の為だけに子を生みたい。どうか一夜限りで良いのです。私を、貴方の、真実の妻に、」
「一夜?」
「ええ。一夜だけで良いのです。」
「それは受け入れられそうに無い。」
「そんな、」 

キャスリーンは目の前が潤んで霞むのが解った。ああ、駄目なのか、只の一夜も愛してもらう事を許されないのか。

「君を得て、一夜限りで手放せる自信など、私には無いんだよ。」

キャスリーンはアダムの青い瞳を見つめた。

「キャスリーン、君を手に入れてしまったら、もう私は君を手放せない。それが解るから一夜限りだなどと言う約束は出来ないんだ。
君を得るのなら、君の人生ごと、まるごと君の全てが欲しい。私は君が思うより欲深く腹黒い人間なんだよ。
キャスリーン、覚悟を決めて言っているのか?ままごと遊びなら他を当たって欲しい。そうでなければ、私に君の全てを奪わせてくれ。」

キャスリーンの潤んだ瞳から、ぽろり、ぽろり、ぽろぽろと雫が落ちる。
その頬をアダムがいつかの様にハンカチ拭った。ちらりと刺繍が見えて、青い小鳥なのだと解った。
それがキャスリーンの青い小鳥なのかアマンダの小鳥であるのか、キャスリーンにはどちらでも良かった。何故ならキャスリーンとアマンダは、もう既に二人で一人であると思ったから。



大きな掌が背をなぞる。
もう一つの掌に首の後ろを支えられて、キャスリーンは思わずアダムに抱き付いた。

まるで閨事を知らぬ生娘のような幼稚な仕草に気恥ずかしくなる。

アダムはそんなキャスリーンをどう思うのか、合わせた口づけを更に深めた。

キャスリーンはほとんど爪先立ちになって、一層抱き上げられた方がという程に、両手でアダムの首にぶら下がり、もっととせがんでアダムに応えた。

「キャスリーン。」

長い口づけから解放されれば、愛しい唇が耳元で囁く。これ程までに愛を込めて名を呼ばれた事があっただろうか。キャスリーンは生まれて初めて自分の名を愛しく思った。

「アダム様。」

喰まれる耳に擽ったさを逃しながら、キャスリーンも名を呼び返す。貴方にも私が貴方を愛しく思うこの想いが伝わります様に。
そんな思いを込めて名を呼んだ。

辛うじて余裕があったのは其処までだった。口づけられたまま抱き上げられて、無我夢中でアダムの口吻を受け止める。ゆっくり降ろされ横たえられて、そこで互いの顔を見つめ合う。

アダム瞳の中にキャスリーンが映る。

「後悔は受け付けない。もう逃げ時は過ぎてしまったよ。」

荒い息が整わなくて、キャスリーンはその言葉に頷く事しか出来なかった。


快楽なら夫に教え込まれた筈だった。
確かにこの身に歓びを得て憶えた筈だった。
けれどもこんな歓喜は知らない。

大きく熱い掌が、キャスリーンが知らない歓びを教え込む。耳元で囁かれる声音にさえ翻弄されて、キャスリーンは時も場所も自分自身も解らぬ程に我を忘れた。

抱きしめ合う身体の境い目がどちらがどちらか解らぬ程に密着して、一層のこと溶けてしまいたい、そうしたら貴方と一つになれるのに、そんな事を考えた。

アダムがキャスリーンを見下ろして、その視線にああ漸くこの男性ひとをこの身に受け入れられると解ったその時に、キャスリーンはアマンダを呼び起こした。

アマンダ、来て、私の身の内に入って来て。
その瞬間にキャスリーンが受け入れたのはアダムが先であったのかどうだったか。

揺りかごに揺らされる様に緩やかに大きく揺さぶられて、ああこの人はこんな時にも深くて穏やかで温かいのだわ。内側から何処も彼処もアダムに満たされながら大波に揺らされた。それがとても幸せで、大きな身体にしがみついて只管与えられる熱に浮かされていた。

幸せ。
幸せ。
アマンダ、解る?
貴女と私、愛する人と一つになった。
この世にこんな幸せがあるなんて。
こんな幸せ知らなかった。

熱く大きな身体に抱き竦められて苦しい程にきついのに、頬も目尻もこめかみも余す所なく口吻を落とされる。

ゆったりと身体をうつ伏せられれば熱い胸板を背中に感じた。太くて大きな腕が胸の前で交差して白い乳房を持ち上げる。うなじに柔らかな唇を押し当てられながら、口から零れるのは男の名ばかりであった。



「アダム様、私、とても幸せ..」

満たされても尚、離してくれない男の瞳に向かって、キャスリーンは掠れる声で囁いた。
青い瞳が細められる。目尻に細かな皺が見えて、それさえ愛おしくキャスリーンは愛する男の眦に口づけた。

この世の終わりも来世の始まりも、貴方と一緒に迎えたい。
貴方の瞳も熱い体温も、耳の奥に深く響くその声も、全部憶えてこの生を終えよう。
そうして次の生でも必ず貴方を探し出す。


大きな手の指先で、乱れた前髪を梳かされながら、ああ、私、今宵アダム様の子を宿すわ。キャスリーンは確かな予感を覚えた。




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