黒革の日記

桃井すもも

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「キャスリーン様、旦那様にはなんと。」

「そうね。許可を頂戴しなくてはいけないわね。」

王太子とアダムを見送って、フランツは改めてキャスリーンに尋ねた。
フランツには、先日王太子が来邸した際に詳細を話した。

夫人が愛玩動物を飼うのは自由である。
だが、その入手先と仲介した人物が問題であった。

王太子と前帝国駐在大使。
前大使は間もなく外務大臣に就任が決まっている。

「流石に私の口からは。キャスリーン様よりお話しされた方が宜しいと思われます。その、伯爵様の邸宅にも訪問なさるのであれば尚の事。」


フランツの進言は至極当然の事であった。ここ数日、アルフォンは邸を空けていた。離れに連泊している。それをキャスリーンに関わることで呼び出すと云うのが悩ましい。

「フランツ。旦那様はいつお戻りに?」
「分かりかねます。」
「そうよね。王城には出仕されているから殿下からお話しがあるのではないかしら。」
「殿下はキャスリーン様に先立ってお話しになる事は無いかと思われます。」
「ええ?殿下ならポロリと話してしまうのでは?」
「そんな不敬な事を考えるのはキャスリーン様くらいです。」
「そうかしら。」

家令のロアンも一緒に考えたが、結局、離れにいるアルフォンが本邸に戻るのを待つことにした。
王太子が世話役なのだから、許可も何もない。事後報告になるのは仕方あるまい。

三人で話し合い、アダムの邸を訪問して飼育を習う事にした。護衛と侍女の他にメイドも付ける。四人で習えばなんとかなろう。アダムが育てている貴重な鳥なのだから、万全の体制で受け入れねばならない。

独身のアダムに夫人はいない。そこへキャスリーンが訪うのに、なるべく人数が多い方が周囲の目にもいらぬ憶測を生まずに済むだろう。


困ったことは小鳥の代金であった。
王太子は置いておいて、小鳥を譲り受けるのに対価を確認したところ、アダムは贈らせてほしいと引かないのである。

「可憐なご婦人の元でこそ小鳥は美しく囀るのです。どうか可愛がって頂きたい。」と、一歩も譲らない。

「御礼を考えなくては。そうそう、殿下にも。」
王太子殿下を後回しにする胆力を見せたキャスリーンに、家令も執事も我が侯爵家は今代安泰であると確信を深めた。



「初めは湯でふやかした餌を食べさせます。二時間から成長に合わせて四時間おきが良いでしょう。その際に、必ず名前で呼び掛けてあげて下さい。いつまでも憶えないと思うでしょうが、ある日突然話し出します。それはそれは可愛いですよ。」

「まあ!まあ!本当に?ええ、必ず声を掛けますわ。」

「暫くはキャスリーン様が差し餌をなさって下さい。雛は餌を与える人間を親だと見做します。それは生涯変わりません。侍女殿に任せては侍女殿に懐きます。」

「わかりました。必ず私が手ずから与えます。」

「ところで名前はもう?」
「ええ、ジェントルと。」
「真ですか?」

アダムが驚きの表情を見せた。
小鳥に付けるのは可怪しな名前であったろうか。

「ああ、いやいやお気にならさらず。良い名です。きっと素晴らしい紳士に育つでしょう。」

僅かな違和感を残すも、それも直ぐにかき消えた。

「小鳥は大変な頑張り屋です。今日出来ない事を明日は為そうと励みます。例えばこの子は三日前は飛べませんでした。少々臆病でしてね。けれども今はほら。」

アダムが小鳥から距離を取りそれから名を呼ぶと、呼ばれた途端に小鳥は羽ばたいた。そうして迷わずアダムの肩に止まり、それから彼の漆黒の髪を啄む。

「ははは、ありがとう。とても気持ちが良いよ。」
「この子は何をしているのでしょう?」
「毛繕いをしてくれているのですよ。小鳥は愛情深い。優しく思いやりがある。快活で勇敢で朗らかだ。」
「まあ、それ程?」
「ええ。この小さな身体は勇気と愛情でいっぱいなのですよ。彼らは幸せになる為に生まれて来る。」

ああ、なんて素晴らしい言葉なんだろう。
アダムの口から発せられる言葉の一つ一つがキャスリーンの心を鼓舞する。

幸せになる為に生まれて来ても良いのだわ。

両親からも夫からも愛されない自分。
生まれた価値を感じたことなどこれまで無かった。

「し、幸せになって良いのでしょうか。」
「ええ、幸せになって良いのです。」
「本当に?」
「本当です。貴女はもっと幸せになるべきだ。」

キャスリーンはひと粒零れてから、零れ落ちる涙を止められない。
涙が後から後から湧いては零れる。
アダム様の前で涙するだなんて。
恥ずかしいのに止められない。
流れ落ちる涙が頬を濡らす。流れては心に沁み入る癒しの涙に思えた。
気が付くとキャスリーンはアダムに涙を拭かれていた。

アダム様のハンカチを汚してしまった。
思考は理性で訴えかけるも、心と身体はアダムの為すがままに全てを委ねてしまいそうになる。

侍女も護衛もメイドもキャスリーンの置かれた身上を知っていたから、彼女が涙を流すのを止める事など出来なかった。

親に命じられた婚姻と同時に愛されぬ妻の座に押しやられて、家政ばかりは預けられ、愛される事も大切にされる事も無い。

つい数ヶ月前までは親の庇護の下にある令嬢であったのに、夫の行いの為に孤独を強いられ好奇の目に晒されて、それでも夫人の務めを果たそうと気丈に振る舞う夫人である。

唯の一度も夫を責める事など無かった。離れに住まう女性を疎ましく嫌厭する様子も見せなかった。

誰が涙を責められよう。
キャスリーンの幸せを侯爵家が齎すことは皆無であるのに。

アダムに肩を抱かれて背中をさすられ、更に嗚咽を漏らす若き夫人を皆は見守る他は無かった。

アダムが許すのであればこの邸で思いっきり泣かせてあげたい。

あの邸には、侯爵邸には、キャスリーンの泣ける場所などどこにも無いのだから。



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