56 / 62
Another【5】エリザベスの望まれた婚姻
しおりを挟む
エリザベスはその晩、考えた。あれから寝台に入ってからも眠る事が出来なかったから、考えるしかなかった。
シャーロットの悲鳴じみた声が耳に残ってリフレインする。だがそれは、不思議と不快には思わなかった。エリザベスは、シャーロットが潔いと思った。シャーロットは清々しいほどヘンリーを欲している。
あの凄まじい熱量を、果たしてエリザベスは持ち合わせているだろうか。エリザベスは、ヘンリーの為にあれ程までに感情を露わにして叫べるだろうか。
ヘンリーの側にいるのはシャーロットが相応しい。ひと晩中考えて辿り着いた答えは、ただその一つであった。
ヘンリーが貴族でいたいなら、彼自身でその為の道を探すしか無い。剣技を鍛錬しての騎士爵か、あまり現実的ではないが何某かの功績を上げたなら準男爵位を賜ることも不可能ではない。
その上でシャーロットを娶るなら二人は貴族でいられるだろう。その為に、何が出来るのか何をすべきなのか、それを考え努力をするのは二人にしか出来ない。
けれども、彼等が身分に拘らず生きていこうとするなら、選択肢は限りなく広がるだろう。二人で広いこの世界のどこででも生きる方法を選べる。貧しい?豊かな未来を捨てて愛し合う伴侶を求めたのだから、あとの問題は二人で解決するしか無い。
止め処なく思考の海を泳いでいると、耳元が冷たく感じた。気付かないうちに、エリザベスは泣いていたようだった。目尻から零れ落ちた涙が耳元まで垂れていた。
いつぶりの涙だろう。自分でも驚いてしまった。
エリザベスは余り泣けない。立派な後継であろうと自分を律するうちに、泣きたいのに泣けなくなってしまった。
それは感情を爆発させることに対しても同様で、シャーロットの様に金切り声を発して叫んだなら、喩えそれが傍からどんなに無様に見えたとしても、心の内はすっきりするのかも知れない。
「泣ける..か。」
図書室に並ぶ週刊雑誌に、確かそんな謳い文句の小説が掲載されていた。友人達が、あれを読むにはハンカチが二枚必要よと言っていた。そうだ、あの小説は舞台化されたのではなかったか。
エリザベスの思考が動き出す。寝間着の袖で涙を拭って灯りの消えた暗闇の中で考える。
「観に行ってみようかしら。」
漏らした呟きは、宵の静寂に染み込む様に消えて行った。
翌朝は、シャーロットは朝餉の席に現れなかった。自室で食事を摂るらしく、父も母もそれに触れる事は無かった。
そうしてエリザベスは、一足先に登校する事にした。母に、これからは一人で登校したいと馬車の使用を願えば、母は「良いでしょう」とだけ言って、直ぐに馬車の用意がされた。
執事には、
「ヘンリー様がお見えになったら、シャーロットはいつもより仕度に時間が掛かるでしょうから、私は先に出たとお伝えして頂戴。シャーロットを宜しくお願いしてね。」
と伝えた。
それからもう一つ。
「チケットをお願いしたいの。一枚で良いわ。演目は...」
執事はそれに「承知致しました」と頷いて、そうして小さな包みを手渡した。その後「行ってらっしゃいませ」と腰を折って見送りをしてくれた。
エリザベスは、今日から昼食時には食堂へ行かない。
学園には食堂とは別にテラスがあって、そこで各人持ち寄ったランチボックスを食べる事が出来る。エリザベスもこの日から、料理長に頼んでランチボックスを用意してもらう事にした。
朝、執事から手渡された小さな包みがそれで、中には小振りにカットされたサンドウィッチと燻製肉、フルーツの他には一口サイズの魚のフライが入っていた。
「美味しそう。」
昼食に食欲が湧くのは久しぶりの事だった。昨日も、エリザベスの席を取ることなく二人で並び座って食事をするシャーロットとヘンリーの姿に、食欲を感じる事は出来なかった。確かに空腹は感じていたのに。
密閉ポットの蓋を緩めると、途端に果実の様な爽やかな香りが辺りに漂う。この時期ならではの瑞々しい茶葉の香り。
「美味しい。」
空腹を満たすだけの食事ではなかった。空腹の胃に染みる様に、料理長等の気遣いが心に沁み入る。
「美味しいわ。」
テラスの一人席に座り、一枚ガラスの大きな窓から見える外の景色を見た。学園には小さな庭園がある。生徒達で構成される美化クラブがあって、有志の学生等が植物を植えて育てている。
初夏の今は薔薇の盛りであった。側に行ったなら匂い立つ香りを楽しめるだろう。
後で寄ってみようか。
目に映るとりどりの色を眺めながら、そんな事を考えた。
思えば最近の昼食とは、手元のカトラリーと食材を見るだけで、前を向くことは無かった様に思う。顔を上げれば、そこには二人並び座るシャーロットとヘンリーがいる。そんな光景を遮断するのに、この頃のエリザベスは視界を下ろし独りの世界に没入するのが常であった。
だから季節が夏の気配を帯びてきて、固い蕾が開いて鮮やかな花弁を見せていることにも気が付けずにいた。
この世には、色とりどりの花があり、腹を満たす美味しい食材がある。幸運な事に、エリザベスは貴族の娘に生まれたから、字も読めればそこそこ学もある。
なんて恵まれた世界にいるのだろう。それで何を悩むのだろう。これ程恵まれた身の上なのだ。この世界にいて、この身を燃やして生きていこう。燃やし尽くすまで生きてみよう。自分に出来る事ならなんだってしてみよう。与えられた居場所があるなら、そこで花を咲かせよう。
薔薇には薔薇が寄り添う様に、志を共にする伴侶と共に、この貴族の世界を泳いで行こう。
すっかり空になったランチボックスを膝に乗せて、エリザベスは薔薇が咲き誇る小さな庭園を眺めた。
シャーロットの悲鳴じみた声が耳に残ってリフレインする。だがそれは、不思議と不快には思わなかった。エリザベスは、シャーロットが潔いと思った。シャーロットは清々しいほどヘンリーを欲している。
あの凄まじい熱量を、果たしてエリザベスは持ち合わせているだろうか。エリザベスは、ヘンリーの為にあれ程までに感情を露わにして叫べるだろうか。
ヘンリーの側にいるのはシャーロットが相応しい。ひと晩中考えて辿り着いた答えは、ただその一つであった。
ヘンリーが貴族でいたいなら、彼自身でその為の道を探すしか無い。剣技を鍛錬しての騎士爵か、あまり現実的ではないが何某かの功績を上げたなら準男爵位を賜ることも不可能ではない。
その上でシャーロットを娶るなら二人は貴族でいられるだろう。その為に、何が出来るのか何をすべきなのか、それを考え努力をするのは二人にしか出来ない。
けれども、彼等が身分に拘らず生きていこうとするなら、選択肢は限りなく広がるだろう。二人で広いこの世界のどこででも生きる方法を選べる。貧しい?豊かな未来を捨てて愛し合う伴侶を求めたのだから、あとの問題は二人で解決するしか無い。
止め処なく思考の海を泳いでいると、耳元が冷たく感じた。気付かないうちに、エリザベスは泣いていたようだった。目尻から零れ落ちた涙が耳元まで垂れていた。
いつぶりの涙だろう。自分でも驚いてしまった。
エリザベスは余り泣けない。立派な後継であろうと自分を律するうちに、泣きたいのに泣けなくなってしまった。
それは感情を爆発させることに対しても同様で、シャーロットの様に金切り声を発して叫んだなら、喩えそれが傍からどんなに無様に見えたとしても、心の内はすっきりするのかも知れない。
「泣ける..か。」
図書室に並ぶ週刊雑誌に、確かそんな謳い文句の小説が掲載されていた。友人達が、あれを読むにはハンカチが二枚必要よと言っていた。そうだ、あの小説は舞台化されたのではなかったか。
エリザベスの思考が動き出す。寝間着の袖で涙を拭って灯りの消えた暗闇の中で考える。
「観に行ってみようかしら。」
漏らした呟きは、宵の静寂に染み込む様に消えて行った。
翌朝は、シャーロットは朝餉の席に現れなかった。自室で食事を摂るらしく、父も母もそれに触れる事は無かった。
そうしてエリザベスは、一足先に登校する事にした。母に、これからは一人で登校したいと馬車の使用を願えば、母は「良いでしょう」とだけ言って、直ぐに馬車の用意がされた。
執事には、
「ヘンリー様がお見えになったら、シャーロットはいつもより仕度に時間が掛かるでしょうから、私は先に出たとお伝えして頂戴。シャーロットを宜しくお願いしてね。」
と伝えた。
それからもう一つ。
「チケットをお願いしたいの。一枚で良いわ。演目は...」
執事はそれに「承知致しました」と頷いて、そうして小さな包みを手渡した。その後「行ってらっしゃいませ」と腰を折って見送りをしてくれた。
エリザベスは、今日から昼食時には食堂へ行かない。
学園には食堂とは別にテラスがあって、そこで各人持ち寄ったランチボックスを食べる事が出来る。エリザベスもこの日から、料理長に頼んでランチボックスを用意してもらう事にした。
朝、執事から手渡された小さな包みがそれで、中には小振りにカットされたサンドウィッチと燻製肉、フルーツの他には一口サイズの魚のフライが入っていた。
「美味しそう。」
昼食に食欲が湧くのは久しぶりの事だった。昨日も、エリザベスの席を取ることなく二人で並び座って食事をするシャーロットとヘンリーの姿に、食欲を感じる事は出来なかった。確かに空腹は感じていたのに。
密閉ポットの蓋を緩めると、途端に果実の様な爽やかな香りが辺りに漂う。この時期ならではの瑞々しい茶葉の香り。
「美味しい。」
空腹を満たすだけの食事ではなかった。空腹の胃に染みる様に、料理長等の気遣いが心に沁み入る。
「美味しいわ。」
テラスの一人席に座り、一枚ガラスの大きな窓から見える外の景色を見た。学園には小さな庭園がある。生徒達で構成される美化クラブがあって、有志の学生等が植物を植えて育てている。
初夏の今は薔薇の盛りであった。側に行ったなら匂い立つ香りを楽しめるだろう。
後で寄ってみようか。
目に映るとりどりの色を眺めながら、そんな事を考えた。
思えば最近の昼食とは、手元のカトラリーと食材を見るだけで、前を向くことは無かった様に思う。顔を上げれば、そこには二人並び座るシャーロットとヘンリーがいる。そんな光景を遮断するのに、この頃のエリザベスは視界を下ろし独りの世界に没入するのが常であった。
だから季節が夏の気配を帯びてきて、固い蕾が開いて鮮やかな花弁を見せていることにも気が付けずにいた。
この世には、色とりどりの花があり、腹を満たす美味しい食材がある。幸運な事に、エリザベスは貴族の娘に生まれたから、字も読めればそこそこ学もある。
なんて恵まれた世界にいるのだろう。それで何を悩むのだろう。これ程恵まれた身の上なのだ。この世界にいて、この身を燃やして生きていこう。燃やし尽くすまで生きてみよう。自分に出来る事ならなんだってしてみよう。与えられた居場所があるなら、そこで花を咲かせよう。
薔薇には薔薇が寄り添う様に、志を共にする伴侶と共に、この貴族の世界を泳いで行こう。
すっかり空になったランチボックスを膝に乗せて、エリザベスは薔薇が咲き誇る小さな庭園を眺めた。
5,239
お気に入りに追加
5,810
あなたにおすすめの小説
【完結】この胸が痛むのは
Mimi
恋愛
「アグネス嬢なら」
彼がそう言ったので。
私は縁組をお受けすることにしました。
そのひとは、亡くなった姉の恋人だった方でした。
亡き姉クラリスと婚約間近だった第三王子アシュフォード殿下。
殿下と出会ったのは私が先でしたのに。
幼い私をきっかけに、顔を合わせた姉に殿下は恋をしたのです……
姉が亡くなって7年。
政略婚を拒否したい王弟アシュフォードが
『彼女なら結婚してもいい』と、指名したのが最愛のひとクラリスの妹アグネスだった。
亡くなった恋人と同い年になり、彼女の面影をまとうアグネスに、アシュフォードは……
*****
サイドストーリー
『この胸に抱えたものは』全13話も公開しています。
こちらの結末ネタバレを含んだ内容です。
読了後にお立ち寄りいただけましたら、幸いです
* 他サイトで公開しています。
どうぞよろしくお願い致します。
いつか彼女を手に入れる日まで
月山 歩
恋愛
伯爵令嬢の私は、婚約者の邸に馬車で向かっている途中で、馬車が転倒する事故に遭い、治療院に運ばれる。医師に良くなったとしても、足を引きずるようになると言われてしまい、傷物になったからと、格下の私は一方的に婚約破棄される。私はこの先誰かと結婚できるのだろうか?
お姉さまは最愛の人と結ばれない。
りつ
恋愛
――なぜならわたしが奪うから。
正妻を追い出して伯爵家の後妻になったのがクロエの母である。愛人の娘という立場で生まれてきた自分。伯爵家の他の兄弟たちに疎まれ、毎日泣いていたクロエに手を差し伸べたのが姉のエリーヌである。彼女だけは他の人間と違ってクロエに優しくしてくれる。だからクロエは姉のために必死にいい子になろうと努力した。姉に婚約者ができた時も、心から上手くいくよう願った。けれど彼はクロエのことが好きだと言い出して――
前世軍医だった傷物令嬢は、幸せな花嫁を夢見る
花雨宮琵
恋愛
侯爵令嬢のローズは、10歳のある日、背中に刀傷を負い生死の境をさまよう。
その時に見た夢で、軍医として生き、結婚式の直前に婚約者を亡くした前世が蘇る。
何とか一命を取り留めたものの、ローズの背中には大きな傷が残った。
“傷物令嬢”として揶揄される中、ローズは早々に貴族女性として生きることを諦め、隣国の帝国医学校へ入学する。
背中の傷を理由に六回も婚約を破棄されるも、18歳で隣国の医師資格を取得。自立しようとした矢先に王命による7回目の婚約が結ばれ、帰国を余儀なくされる。
7人目となる婚約者は、弱冠25歳で東の将軍となった、ヴァンドゥール公爵家次男のフェルディナンだった。
長年行方不明の想い人がいるフェルディナンと、義務ではなく愛ある結婚を夢見るローズ。そんな二人は、期間限定の条件付き婚約関係を結ぶことに同意する。
守られるだけの存在でいたくない! と思うローズは、一人の医師として自立し、同時に、今世こそは愛する人と結ばれて幸せな家庭を築きたいと願うのであったが――。
この小説は、人生の理不尽さ・不条理さに傷つき悩みながらも、幸せを求めて奮闘する女性の物語です。
※この作品は2年前に掲載していたものを大幅に改稿したものです。
(C)Elegance 2025 All Rights Reserved.無断転載・無断翻訳を固く禁じます。
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
忙しい男
菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。
「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」
「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」
すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。
※ハッピーエンドです
かなりやきもきさせてしまうと思います。
どうか温かい目でみてやってくださいね。
※本編完結しました(2019/07/15)
スピンオフ &番外編
【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19)
改稿 (2020/01/01)
本編のみカクヨムさんでも公開しました。
初耳なのですが…、本当ですか?
あおくん
恋愛
侯爵令嬢の次女として、父親の仕事を手伝ったり、邸の管理をしたりと忙しくしているアニーに公爵家から婚約の申し込みが来た!
でも実際に公爵家に訪れると、異世界から来たという少女が婚約者の隣に立っていて…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる