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国内大手の商会を経営する貴族家に生まれ、自身も帝国で学び外商を経験したアストリウスは、物の価値が解る目利きである。
だから、母が贈った品の価値もひと目で解った。
「見事なものだ。君と揃いで頂戴するとは、光栄の極みであるな。」
「アストリウス様がお喜びであったと、両親に伝えさせて頂きます。」
「私からも礼状を書こう。その前に、君からも宜しくお伝え願うよ。」
漸く母の遣いを果たせてアウローラは安堵した。あのまま席を立ってアストリウスが止めてくれなければ、今頃は果たして母に何と伝えていたのだろう。
アストリウスが関わるだけで、こうも短略的になってしまうだなんて。恋は初めてではないのに、アウローラは自分で自覚出来るほどアストリウスに囚われている。
「アウローラ。雛鳥は育ったのだな?」
「...貴方様がお認め下されば。」
「私は君を伴侶に選んだ。自力で得た縁ではないが、それで迷ったことも後悔したことも一度も無い。君がこの関係を更に育てたいと思ってくれるなら、その先に何も望む事などない。」
「アストリウス様..」
アストリウスはアウローラの刺繍したハンカチを恐る恐ると云う風に広げた。そうして、ぽつりと「我が家の紋だ」と呟いた。それから「君が?」と尋ねてアウローラが頷くのを真顔のまま見つめた。
何を考えているのか解らないその表情に、アウローラはこの贈り物が失敗であったのだろうかと不安になった。
アストリウスは、目の前に広がる繊細なレースを眺め、それからテーブルに顔を近付け刺繍に見入った。まるで試験の提出物を検められる様な居心地の悪さに、居た堪れない気持ちになる。
それからどれくらい時間が経ったのか、アストリウスは漸く面を上げて、ひよこが育ったのかを問うてきた。
それは二人の関係が、婚約で結ばれた契約の当事者から夫婦という形へ成就していけるのかを問うたのだとアウローラは思った。
「アウローラ様、見事なお手でございます。こちらは新たに侯爵夫人とおなり遊ばす記念の品として、是非とも貴賓室にお飾りになられる事をお勧め致します。」
「いや、フランク。私の執務室に飾るよ。」
「それは最善でございますな。」
二人の会話にアウローラは、ああ、やはり彼処で短気を引き止めてもらえて良かったと思った。アストリウスに背後から抱え込まれた温もりをもう一度思い出して、それを幸せだと思った。
アウローラは待っていた。
アストリウスと婚約を結んで以来、二人の関係は穏やかに進んでいたと思っていた。だから、聖夜の晩餐に招待されるのではないかと期待した。現に、ミネットは婿入りする予定のトーマスを随分前からの聖夜の晩餐に招待していた。
それが、月の半ばになっても何も言われない。そのうち、夫人の教育は年明けまで休みだと伝えられたから、その晩は流石に気持ちが沈んだ。
王家の舞踏会でダンスを踊り帰りの馬車では甘やかな時を過ごして、もしかしたらと期待しなかった訳ではない。
なのに、何故だろう。結局、今日の今日まで聖夜のお誘いは無かった。
アストリウスを思い浮かべて刺繍したハンカチも、渡すべきか悩んでしまった程である。そこにシャルロッテが関わっていたなんて思ってもいなかった。
目の前で、まだ何か思うのか、じっとハンカチの紋章に見入るアストリウスに、喩え特別な時間を過ごせずとも、こんなアストリウスの姿を見られて良かったと、今宵を共に過ごせぬ寂しさは胸の中に仕舞い込んだ。
「お母様、只今戻りました。」
フェイラー侯爵家を後にして伯爵邸に戻ってから、アウローラはアストリウスの言葉を母に伝えた。伯爵家はこの婚姻で持参金の用意もせねばならないのに、母には負担ばかりを掛けている。それでも母の気持ちが嬉しかった。
今宵は聖夜であるから邸の中も華やかで、祝いに浮かれる空気が漂っている。
アウローラはそこで、ふと気が付いた。
こんな年の瀬の、本来なら何処の家も仕事を納め家族と迎える聖夜を前に、何故母は今も未だ執務室に独りいて書類に向かっているのだろう。
「お母様、お父様は御挨拶回りをなさっておられるのですね。」
「ええ、そうよ。お父様が全て請け負って下さるからとても助かっているのよ。きっと今頃はさぞお疲れではないかしら。お父様は人当たりが良くて、何処のお邸でもお持て成しを受けるから、それでなかなか帰してもらえないのよ。」
確かに父は話し上手の聞き上手で、社交界でも評判が高い。壮年を迎えても若々しく、微笑んだ時の目尻の皺まで優しげで見目が良い。社交は父の得意とするところである。その父も、既に午後も遅い時間であるから、そろそろ戻って来るだろう。
「お母様、今日はずっとお独りで?」
「ええ、そうよ。」
「ミネットは、」
「アウローラ。良いのよ。」
「ですが、お母様のご負担が余りに大きいのでは、」
「良いのよ、アウローラ。ミネットは貴女と姉妹であるけれど、だからと言って同じ価値観ではないのよ。」
「それはそうですが...。ではお母様、私がご一緒させて頂きます。」
アウローラは、母の執務机の横に並ぶもう一つの机に座る。
もう何年も母の隣でこうして執務を習った。出来る仕事を素早く見付けて、晩餐の時間までを逆算して着手する。
年明けには侯爵家へ通う日が始まるから、こんな風に並んで机に迎えるのもあと僅かな期間である。
ちらりと母の横顔を見る。
アウローラと同じ栗毛色の髪。青い瞳には長い睫毛が影を落としている。
母は美しい人である。
いつも落ち着いた色のデイドレスを着て、アウローラと同じ直毛の髪をきっちり纏めているから、実年齢よりも少しばかり年嵩に見えるが、本来の母は、ほっそりとした身体はいつも背筋が伸びていて、抜けるような白い肌の女性である。
その様子が余りに儚げで、アウローラは母が突然雪解けの様に消えてしまうのではないかと不安に思うことがある。
この邸にいて、どうか母が幸せであります様にと、聖夜の夜を前に一人胸の内で願った。
だから、母が贈った品の価値もひと目で解った。
「見事なものだ。君と揃いで頂戴するとは、光栄の極みであるな。」
「アストリウス様がお喜びであったと、両親に伝えさせて頂きます。」
「私からも礼状を書こう。その前に、君からも宜しくお伝え願うよ。」
漸く母の遣いを果たせてアウローラは安堵した。あのまま席を立ってアストリウスが止めてくれなければ、今頃は果たして母に何と伝えていたのだろう。
アストリウスが関わるだけで、こうも短略的になってしまうだなんて。恋は初めてではないのに、アウローラは自分で自覚出来るほどアストリウスに囚われている。
「アウローラ。雛鳥は育ったのだな?」
「...貴方様がお認め下されば。」
「私は君を伴侶に選んだ。自力で得た縁ではないが、それで迷ったことも後悔したことも一度も無い。君がこの関係を更に育てたいと思ってくれるなら、その先に何も望む事などない。」
「アストリウス様..」
アストリウスはアウローラの刺繍したハンカチを恐る恐ると云う風に広げた。そうして、ぽつりと「我が家の紋だ」と呟いた。それから「君が?」と尋ねてアウローラが頷くのを真顔のまま見つめた。
何を考えているのか解らないその表情に、アウローラはこの贈り物が失敗であったのだろうかと不安になった。
アストリウスは、目の前に広がる繊細なレースを眺め、それからテーブルに顔を近付け刺繍に見入った。まるで試験の提出物を検められる様な居心地の悪さに、居た堪れない気持ちになる。
それからどれくらい時間が経ったのか、アストリウスは漸く面を上げて、ひよこが育ったのかを問うてきた。
それは二人の関係が、婚約で結ばれた契約の当事者から夫婦という形へ成就していけるのかを問うたのだとアウローラは思った。
「アウローラ様、見事なお手でございます。こちらは新たに侯爵夫人とおなり遊ばす記念の品として、是非とも貴賓室にお飾りになられる事をお勧め致します。」
「いや、フランク。私の執務室に飾るよ。」
「それは最善でございますな。」
二人の会話にアウローラは、ああ、やはり彼処で短気を引き止めてもらえて良かったと思った。アストリウスに背後から抱え込まれた温もりをもう一度思い出して、それを幸せだと思った。
アウローラは待っていた。
アストリウスと婚約を結んで以来、二人の関係は穏やかに進んでいたと思っていた。だから、聖夜の晩餐に招待されるのではないかと期待した。現に、ミネットは婿入りする予定のトーマスを随分前からの聖夜の晩餐に招待していた。
それが、月の半ばになっても何も言われない。そのうち、夫人の教育は年明けまで休みだと伝えられたから、その晩は流石に気持ちが沈んだ。
王家の舞踏会でダンスを踊り帰りの馬車では甘やかな時を過ごして、もしかしたらと期待しなかった訳ではない。
なのに、何故だろう。結局、今日の今日まで聖夜のお誘いは無かった。
アストリウスを思い浮かべて刺繍したハンカチも、渡すべきか悩んでしまった程である。そこにシャルロッテが関わっていたなんて思ってもいなかった。
目の前で、まだ何か思うのか、じっとハンカチの紋章に見入るアストリウスに、喩え特別な時間を過ごせずとも、こんなアストリウスの姿を見られて良かったと、今宵を共に過ごせぬ寂しさは胸の中に仕舞い込んだ。
「お母様、只今戻りました。」
フェイラー侯爵家を後にして伯爵邸に戻ってから、アウローラはアストリウスの言葉を母に伝えた。伯爵家はこの婚姻で持参金の用意もせねばならないのに、母には負担ばかりを掛けている。それでも母の気持ちが嬉しかった。
今宵は聖夜であるから邸の中も華やかで、祝いに浮かれる空気が漂っている。
アウローラはそこで、ふと気が付いた。
こんな年の瀬の、本来なら何処の家も仕事を納め家族と迎える聖夜を前に、何故母は今も未だ執務室に独りいて書類に向かっているのだろう。
「お母様、お父様は御挨拶回りをなさっておられるのですね。」
「ええ、そうよ。お父様が全て請け負って下さるからとても助かっているのよ。きっと今頃はさぞお疲れではないかしら。お父様は人当たりが良くて、何処のお邸でもお持て成しを受けるから、それでなかなか帰してもらえないのよ。」
確かに父は話し上手の聞き上手で、社交界でも評判が高い。壮年を迎えても若々しく、微笑んだ時の目尻の皺まで優しげで見目が良い。社交は父の得意とするところである。その父も、既に午後も遅い時間であるから、そろそろ戻って来るだろう。
「お母様、今日はずっとお独りで?」
「ええ、そうよ。」
「ミネットは、」
「アウローラ。良いのよ。」
「ですが、お母様のご負担が余りに大きいのでは、」
「良いのよ、アウローラ。ミネットは貴女と姉妹であるけれど、だからと言って同じ価値観ではないのよ。」
「それはそうですが...。ではお母様、私がご一緒させて頂きます。」
アウローラは、母の執務机の横に並ぶもう一つの机に座る。
もう何年も母の隣でこうして執務を習った。出来る仕事を素早く見付けて、晩餐の時間までを逆算して着手する。
年明けには侯爵家へ通う日が始まるから、こんな風に並んで机に迎えるのもあと僅かな期間である。
ちらりと母の横顔を見る。
アウローラと同じ栗毛色の髪。青い瞳には長い睫毛が影を落としている。
母は美しい人である。
いつも落ち着いた色のデイドレスを着て、アウローラと同じ直毛の髪をきっちり纏めているから、実年齢よりも少しばかり年嵩に見えるが、本来の母は、ほっそりとした身体はいつも背筋が伸びていて、抜けるような白い肌の女性である。
その様子が余りに儚げで、アウローラは母が突然雪解けの様に消えてしまうのではないかと不安に思うことがある。
この邸にいて、どうか母が幸せであります様にと、聖夜の夜を前に一人胸の内で願った。
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