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結局、その晩、アウローラは晩餐の場へは行かなかった。
少し疲れたからといえば、侍女は直ぐに軽食と温かいミルクを用意してくれた。
母は、アウローラが晩餐に出ないのを許可したのだろう。この家の使用人は皆、母の命を受けて素早く動く。
ミネットが部屋に来るのではと思ったが、それは無かった。多分、それも母が配慮したのだろうと思った。
独りきりで夕食を摂り、そこで漸く気付いた。今日は母の執務を手伝っていない。
アウローラは、学園から戻ったなら、素早く着替えて母の執務室へ向かうのが常であった。その為に、学園での課題は邸に戻る前に学園の図書室で済ませて、戻ってからは執務を習うのに注力していた。
それが今日は、婚姻話しを聞かされてそのまま自室に籠もってしまった。
そこまで考えて、ああ、そうだった。自分は後継から降ろされたのだと気が付いた。
これからは、邸に戻っても執務を習う事は無い。いつから?多分、明日から不要となるだろう。
大きな喪失感に瞬きする事すら億劫になる。こんな事になるなんて、考えたことすら無かった。
母の執務を習い始めたのは、いつく位のことであったか。記憶を辿れば、それは随分幼い頃まで遡る。ガヴァネスから文字を習いマナーを習うように、母から執務を習うのはアウローラの生活の一部で、伯爵家次期当主とは、アウローラにとって重要なアイデンティティの一つであった。
学園でも領地経営科を選択して、次期当主と定められた貴族子女らと肩を並べて学んで来た。秋を過ぎて、間もなく冬を迎える今になって、行き成りその座を引き摺り降ろされた感覚は、言葉に表し切れない痛みを齎した。
泣けたならこの痛みも薄らぐのか。だが、幼い頃から厳格な母に教育されたアウローラは、あまり泣けない質である。
何がこれほど痛むのか。
後継を降ろされたことか、ミネットが後継に選ばれたことか、トーマスがミネットの婚約者へと入れ替えられたことか。
考えるまでもなく、全てが痛みを齎した。
母の言葉に嘘はない。これまでの学びが無駄になる事は無いだろう。だがしかし、伯爵家と侯爵家では訳が違う。アウローラは、生涯伯爵家の人間として生きる筈であったのだから。
そうして、今はミネットに心を傾けるトーマスと来春には婚姻して、二人で家と領地を守るのだと、直に子を産み次世代の教育にも励むのだと、そう心に決めていた。それを今になって、何故母はこんな選択をしたのだろう。
アウローラが泣けないのを知る母は、こんな状況でもアウローラが泣かずに乗り越えると信じるのか。
アウローラの記憶の母は、アウローラと同じ濃い栗毛色の髪をきっちり結って、アウローラと同じ濃い青い瞳で書類に向かい、誰よりも勤勉で厳格で、自分にも他者にも厳しく甘えを許さない。けれども、懐深い愛情を持って、家族とも傘下の貴族等とも、領地の平民とも分け隔てなく接する、アウローラが尊敬する母である。
その母が、ミネットとトーマスの関係を見て見ぬふりをしていたのはアウローラにとっては不可解な事で、仮にアウローラが母へ訴えたなら、母は二人を引き離してくれるのだろうかと思案した事は度々であった。
結局、アウローラは母を頼らず、結果から言えば二人を放置していた。
ミネットには婚約者がいなかったから、そのうち婚約者が出来たなら、嫌でも二人は離れなければならない。それをどこかで頼りにして、母の背を追うように執務を習うのであった。
そんな他力本願であったから、良いように使われてしまったのか。母はアウローラがトーマスを慕っているのを知りながら、ミネットの恋愛を優先させたのだろうか。
スタンリー伯爵家に限らず何処の家にも言えるのは、長子よりも下の子女等は皆可愛げがあり社交的で明るい気質であると言う事だろう。ミネットが正しくそうで、母そっくりのアウローラと違い、父に似たミネットは、瞳は淡い翠色で、栗毛の髪が緩い巻き毛であるのも可憐に見えた。
気質も朗らかで、けれどもスペアとしての教育も施されて来たから、学園での成績は良い。そんな彼女であるから、学園に入学して直ぐに生徒会執行部にも選ばれて、今も活発に学園生活を過ごしている。
生徒会執行部には、一年の頃よりトーマスが所属していたから、ミネットとの関係もより深まったのかもしれない。
アウローラは執務を習わねばならないから、学園では課題を片付け早々に邸に戻るばかりで、生徒会活動なんて初めから選択肢には無かった。
もし、ミネットが最初から後継者であったなら、トーマスは生徒会役員にもならず、共に伯爵邸に来て執務を習っていたのではないだろうか。そんな嫌な深読みをする自分に呆れるも、結局今日までその考えが変わることは無かった。
寝台に横になって眠れぬままに、思考が辿り着く事を堂々巡りで考えながら、いい加減ミネットとトーマス以外の事を考えようと、そこで漸く自身の新たな婚約者に思い至った。
書面上での取り決めはこれからであるから、彼とは近日中に会うだろう。
アストリウス・フィンチ・フェイラー。
フェイラー侯爵家の若き当主である。
元々は嫡男である兄がおり、次男の彼は帝国に遊学していた。フェイラー侯爵家は国内に百貨店を手広く展開している実業家で、彼は帝国大学で経営学を学んだ後に、帝国大手の商会に勤務していた。
何れは帝国に生家の百貨店の支店を興し、そこの責任者となる筈であったのが、急遽帰国をしたのは、地方の支店を訪問していた父侯爵と兄が現地で流行病に倒れたからで、幸い二人とも命に別状は無かったものの、今は領地で静養している。
そんな、あまり幸運とは言えない経緯で、彼は帰国を命じられ、そうして当主を引き継いだ。何故なら兄は足に障害が残り、そうして多分高熱からの男性機能不全と診断されたからである。
アストリウスは、混乱する侯爵家の事業と傘下貴族の差配に加えて、確実に後継者を作ることを課せられて、そうして即戦略になる、後継教育を施された令嬢を望んだのだろう。
婚姻をしておらず、学園卒業を間近に控え、その上婚約者との関係に問題を抱えているアウローラは、彼の眼鏡に叶ったのだろう。
少し疲れたからといえば、侍女は直ぐに軽食と温かいミルクを用意してくれた。
母は、アウローラが晩餐に出ないのを許可したのだろう。この家の使用人は皆、母の命を受けて素早く動く。
ミネットが部屋に来るのではと思ったが、それは無かった。多分、それも母が配慮したのだろうと思った。
独りきりで夕食を摂り、そこで漸く気付いた。今日は母の執務を手伝っていない。
アウローラは、学園から戻ったなら、素早く着替えて母の執務室へ向かうのが常であった。その為に、学園での課題は邸に戻る前に学園の図書室で済ませて、戻ってからは執務を習うのに注力していた。
それが今日は、婚姻話しを聞かされてそのまま自室に籠もってしまった。
そこまで考えて、ああ、そうだった。自分は後継から降ろされたのだと気が付いた。
これからは、邸に戻っても執務を習う事は無い。いつから?多分、明日から不要となるだろう。
大きな喪失感に瞬きする事すら億劫になる。こんな事になるなんて、考えたことすら無かった。
母の執務を習い始めたのは、いつく位のことであったか。記憶を辿れば、それは随分幼い頃まで遡る。ガヴァネスから文字を習いマナーを習うように、母から執務を習うのはアウローラの生活の一部で、伯爵家次期当主とは、アウローラにとって重要なアイデンティティの一つであった。
学園でも領地経営科を選択して、次期当主と定められた貴族子女らと肩を並べて学んで来た。秋を過ぎて、間もなく冬を迎える今になって、行き成りその座を引き摺り降ろされた感覚は、言葉に表し切れない痛みを齎した。
泣けたならこの痛みも薄らぐのか。だが、幼い頃から厳格な母に教育されたアウローラは、あまり泣けない質である。
何がこれほど痛むのか。
後継を降ろされたことか、ミネットが後継に選ばれたことか、トーマスがミネットの婚約者へと入れ替えられたことか。
考えるまでもなく、全てが痛みを齎した。
母の言葉に嘘はない。これまでの学びが無駄になる事は無いだろう。だがしかし、伯爵家と侯爵家では訳が違う。アウローラは、生涯伯爵家の人間として生きる筈であったのだから。
そうして、今はミネットに心を傾けるトーマスと来春には婚姻して、二人で家と領地を守るのだと、直に子を産み次世代の教育にも励むのだと、そう心に決めていた。それを今になって、何故母はこんな選択をしたのだろう。
アウローラが泣けないのを知る母は、こんな状況でもアウローラが泣かずに乗り越えると信じるのか。
アウローラの記憶の母は、アウローラと同じ濃い栗毛色の髪をきっちり結って、アウローラと同じ濃い青い瞳で書類に向かい、誰よりも勤勉で厳格で、自分にも他者にも厳しく甘えを許さない。けれども、懐深い愛情を持って、家族とも傘下の貴族等とも、領地の平民とも分け隔てなく接する、アウローラが尊敬する母である。
その母が、ミネットとトーマスの関係を見て見ぬふりをしていたのはアウローラにとっては不可解な事で、仮にアウローラが母へ訴えたなら、母は二人を引き離してくれるのだろうかと思案した事は度々であった。
結局、アウローラは母を頼らず、結果から言えば二人を放置していた。
ミネットには婚約者がいなかったから、そのうち婚約者が出来たなら、嫌でも二人は離れなければならない。それをどこかで頼りにして、母の背を追うように執務を習うのであった。
そんな他力本願であったから、良いように使われてしまったのか。母はアウローラがトーマスを慕っているのを知りながら、ミネットの恋愛を優先させたのだろうか。
スタンリー伯爵家に限らず何処の家にも言えるのは、長子よりも下の子女等は皆可愛げがあり社交的で明るい気質であると言う事だろう。ミネットが正しくそうで、母そっくりのアウローラと違い、父に似たミネットは、瞳は淡い翠色で、栗毛の髪が緩い巻き毛であるのも可憐に見えた。
気質も朗らかで、けれどもスペアとしての教育も施されて来たから、学園での成績は良い。そんな彼女であるから、学園に入学して直ぐに生徒会執行部にも選ばれて、今も活発に学園生活を過ごしている。
生徒会執行部には、一年の頃よりトーマスが所属していたから、ミネットとの関係もより深まったのかもしれない。
アウローラは執務を習わねばならないから、学園では課題を片付け早々に邸に戻るばかりで、生徒会活動なんて初めから選択肢には無かった。
もし、ミネットが最初から後継者であったなら、トーマスは生徒会役員にもならず、共に伯爵邸に来て執務を習っていたのではないだろうか。そんな嫌な深読みをする自分に呆れるも、結局今日までその考えが変わることは無かった。
寝台に横になって眠れぬままに、思考が辿り着く事を堂々巡りで考えながら、いい加減ミネットとトーマス以外の事を考えようと、そこで漸く自身の新たな婚約者に思い至った。
書面上での取り決めはこれからであるから、彼とは近日中に会うだろう。
アストリウス・フィンチ・フェイラー。
フェイラー侯爵家の若き当主である。
元々は嫡男である兄がおり、次男の彼は帝国に遊学していた。フェイラー侯爵家は国内に百貨店を手広く展開している実業家で、彼は帝国大学で経営学を学んだ後に、帝国大手の商会に勤務していた。
何れは帝国に生家の百貨店の支店を興し、そこの責任者となる筈であったのが、急遽帰国をしたのは、地方の支店を訪問していた父侯爵と兄が現地で流行病に倒れたからで、幸い二人とも命に別状は無かったものの、今は領地で静養している。
そんな、あまり幸運とは言えない経緯で、彼は帰国を命じられ、そうして当主を引き継いだ。何故なら兄は足に障害が残り、そうして多分高熱からの男性機能不全と診断されたからである。
アストリウスは、混乱する侯爵家の事業と傘下貴族の差配に加えて、確実に後継者を作ることを課せられて、そうして即戦略になる、後継教育を施された令嬢を望んだのだろう。
婚姻をしておらず、学園卒業を間近に控え、その上婚約者との関係に問題を抱えているアウローラは、彼の眼鏡に叶ったのだろう。
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