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息を飲む青さに言葉を失う。

「気に入ってくれたかな?」
まるで自分の仕業の様にデイビッドが耳元で囁いた。

残念ながら、これは彼が造ったものではない。神か妖精の成せる技であろう。

青く澄んだ湖であった。
それ程大きくはない。聞けば偶発的に出来た池の様なものであるらしい。湧水の流れが変わったのか何なのか、原因は解らないのだと言う。
ぐるりと周囲を回るのに、令嬢の脚でも小一時間程しか掛からなかった。

澄んだ青が日の光を受けて、コバルトにもシアンにも見えた。透明に見えるのに、鉱物が含まれているらしい。その為か、そこに元から生えていた木々は水没した後に枯れ、今はまるで湖を飾るオブジェの様だ。

木々を渡る風の香り、小鳥の囀り。紅葉を迎えた森がこれ程美しいとは知らなかった。
落葉がはらはらと風に吹かれて舞う風景は、本当に妖精がいて一枚一枚の葉の上で遊んでいるのではないかと思わせた。

落葉の渇いた葉と針葉樹の湿った香り。
複雑に合わさった香りを胸いっぱいに吸う。
一旦目を閉じて真っ暗な世界の中から、再び目蓋を開いて鮮やかな世界を目に映す。

赤に黄色、そこに残る深緑。この自然が織りなす色の妙を、いつか刺繍に刺してみたいと思った背後から、逞しい腕が伸びてきて後ろから抱き締められた。

「気に入ってくれた?」
再び耳元で囁かれて、漸く自分が答えを言っていなかったことに気が付いた。
けれどもデイビッドは、答えが無いのが答えだと正しく受け止めてくれたらしい。

「この風景をいつか君に見せたかった。」

「有難うございます。とても美しいわ。もうっ、詩の才能があったらもっと上手にお伝え出来るのに。」
悔しく思いそう言うと、

「君のその顔が見られただけで十分だ。」と、触れるだけの口付けを頬にする。
けれども、アナベルを後から囲う腕には力が込められ、キュっと抱き締められて身体が熱くなるのを感じた。

秋風が冷たい。王都とは異なる木々の香りを含んだ風。それが熱を帯びた頬を身体を冷ましてくれる。
低い太陽の日差しは影が濃く、森と湖に自然のコントラストを浮かび上がらせて、愛する男に囲われて眼前に広がる青と赤と黃と緑、天然のパレットを見ながら、この瞬間に刻が止まってしまえば良いのにと心から思った。
この美しい世界に唯二人、何者にも邪魔されず生きてみたいと思った。


自分の感情を律するのに長けていると思っていた。
両親の愛情が偏っているのは仕方のない事なのだと、我儘らしい事を言った記憶は無かった。
誰かと争うことも無かったから、デズモンドの裏切りを耐えた。

愛も怒りも悲しみも、激情と名の付くものは小説か演劇の中にあって、自分とは無縁のものだと思っていた。

親の決めた貴族の下に嫁いで、社交を熟しながら子を産み育んで、そう云う人生を送るものだと信じていた。そんな人生が送れたら幸せなのだと信じていた。

これ程までに色とりどりに心も身体も染められて、自分を見失う激情を知り、誰にも渡したくない執着を知り、そしてこの世に唯一人愛したいと願う存在を知ってしまった。

幸せとは、こう云うことを言うのだわ。

何が無くても、誰も理解してくれなくても良いと思える。日和見な令嬢が女の姿を纏ってゆくのを、傍から見る愛する男は浅ましいと思うだろうか。
それでももう止めることは出来ない。

抱き締める腕はアナベルの胸下を締め付けている。その腕にそっと手を掛ける。きっと熱の籠もった掌だろう。この身の熱で、男の腕を焼いてしまうかも知れない。
そうしたらデイビッドに、この焦がされ熱に喘ぐ気持ちが伝わるだろうか。

眼前の風景に見入って無言を貫くアナベルの頬が赤く染まっている。
秋の冷たい風に晒されてさぞ冷たい事だろう。けれどもその心の内は、熱く燃える激しい感情に染め上げられて、一層の事このまま儚くなっても構わない、そんな事さえ願っていた。



「本当に美しいわね。」
テーブルの上に広げられたハンカチに夫人が感嘆を漏らす。

「ここの所は特に細かいのよ。私ではこうは行かないわ。」

アナベルは領地を訪問する際に、手土産代わりに刺繍を施したハンカチを携えて訪った。
夫人はそれをテーブルに広げ、食い入る様に見つめている。本人曰く、老眼が進んでこうしないと良く見えないのだと言う。

「アナベルさん、貴女素晴らしい腕をお持ちね。貴女が嫁いで来てくれたら我が家では刺繍職人が泣かされるわ。」

伯爵夫人の言葉に、アナベルはすっかり恐縮してしまう。

「それ程ではありませんわ。」
「そんな事は無くってよ。それ程よ、それ程。」

大判のハンカチにグレイ伯爵家の紋章を刺繍した。
宝冠に苺の葉飾り。赤い盾の中には白いグリフィン。盾の下にはモットーである『誠実であれ』の文言。
それが嫁ぐ家の紋章であった。

できうる限り正確に。緻密な刺繍は骨が折れたが、これが婚家の証なのだと思うと誇らしく感じた。自分の生まれた家の紋章も当然ながら刺繍をしており、家族皆が褒めてくれたが、これ程までに嬉しく感じたことは無かった。







    
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