ヘンリエッタの再婚約

桃井すもも

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【78】最終話

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「久しぶりだね。パーカー夫人。」

背後から声を掛けられて、ヘンリエッタは振り返る。

マルクスは婚姻によりマクルズ子爵の貴族籍を抜けた為に、婚姻後は妻のヘンリエッタと共に家名のパーカーを名乗る事となった。
だがそれも、長い婚姻生活ですっかり馴染んだ名字である。

「お久しぶりでございます。ダウンゼン伯爵様。」

ヘンリエッタがカーテシーで礼をすれば、

「堅いのは止してくれないか。」
ハロルドは、そう言ってヘンリエッタへ笑みを向けた。

ハロルドは、今は生家の爵位を継いでダウンゼン伯爵を名乗っている。
こうして対面で会うのは本当に久しぶりである。黒髪に白く光るものが見えている。目元の皺も含めて、渋みを増した精悍な姿に見えるも、ヘンリエッタに向ける眼差しは温かい。

ヘンリエッタとの婚約が破談となった後も、彼は変わらずエドワード殿下の側近として王家に仕えている。

ハロルドは結局その後、妻を迎えることはなかった。
エドワード殿下が独身を貫いている為か、彼もまた妻帯せずに、伯爵家は将来、縁者の子息を養子に迎えるらしいのは、ウィリアムから聞いたことである。

ウィリアムが言うには、彼はどうやら王家の暗部に関わる任を負っているらしい。
秘する事柄に接する彼が、妻を得ないことを決めたのには、ヘンリエッタとの破談が影響しているのだと密かに言われているのだとか。

その噂を鵜呑みにする訳では無いが、誠実な彼ならあり得る理由だと思えた。
秘密を抱えて妻にも家族にも偽りを通す生き方を、彼は選ばなかったのかも知れない。
下世話な話しでは、エドワード殿下とのボーイズのラブを貫いたのではとも囁かれて、その話しを耳にしたヘンリエッタがペンを執りそうになるのをマルクスが止めた。


「何年ぶりかな、その、息災であったかい?」
「ええ、お陰様で。伯爵様は、」
「名で呼んでくれないか。ここには誰もいない。」
「では、ハロルド様。」
「懐かしいな。君に名を呼ばれるのは。」
「...そうですね。」

ヘンリエッタは今、王城にいた。
ヘンリエッタは現在では、押しも押されぬ有名作家となっていた。
筆の速い彼女は執筆した作品も飛び抜けて多く、図書館や書店のMの表記された棚には、ヘンリエッタの作品が棚の殆どを占めている。

そうして彼女は、それらの中からジャンルを纏めて『ミッチェル文庫』と言うレーベルを立ち上げた。本日はその文庫一式を王城の図書室に寄贈するのに登城した帰りであった。

馬車止まりが直ぐそこであるからと、道案内役の護衛とは先程別れたばかりである。側に控えていたブリジットも、ハロルドの姿を見て距離をとっている。二人の対面を少し離れた所から見守っていた。

「目覚ましい活躍をしているね。」
「それは貴方様でございましょう。」
「私は殿下にお仕えしているだけだよ。」
「エドワード殿下は、立派な王弟になられましたわ。」
「確かに。殿下は誰よりもご自分に厳しく励まれておられる。」
「貴方様のご助力があったからでは?」
「そうかな。そうであればお仕えした甲斐があるな。」

「君は、..君は変わらないな。いや、王国が誇る文豪であるが、そうではなくて、...今も変わらず美しいな。」
「お世辞が上手になられましたのね。折角のお言葉ですもの、素直に頂戴致します。」

そう言って笑みを向ければ、ハロルドもまた目を細めた。

時の流れが無かった様に、穏やかな空気に包まれる。それぞれの過ごした時間は確かにあって、ヘンリエッタのプラチナブロンドの髪の毛も淡く色が抜けて、もうミルクティー色には見えなくなった。
細かな皺は目元にも微笑む口元にも多くある。決して変わらず美しい訳では無いのだが、ハロルドの言葉を本心だと受け止めてヘンリエッタは微笑んだ。

「君のお陰かな。」
「え?」
「君のお陰で今がある。道を見誤らずに今まで来られた。まあ、諦めが付いたんだな。」

ヘンリエッタがそれには言葉を返さずにいれば、

「君も、幸せなんだろう?」
とまるで見てきたように尋ねる。

「ええ。貴方様が殿下をお支えになられて、この国の為にご尽力なさっているお陰で。平和な国でとても幸福に過ごさせて頂いております。」

「そうか。そうか、それは良かった。」

ハロルドは、そうか、そうかと繰り返した。


平民であるヘンリエッタが登城するのは、実はそれほど珍しくはない。芸術文化に貢献したと言う名目で、ヘンリエッタの小説の隠れファンであるらしい王妃のお茶会に呼ばれる事が幾度かあった。

そうして、ひとり息子のマルスが近衛騎士として王城に出仕している。先程まで側にいたのもマルスであったが、ブリジットと二人で帰れるから仕事に戻って大丈夫だと別れたばかりであった。

マルクスとヘンリエッタの息子は騎士となった。父親譲りの優美な見目に、マクルズ子爵家の血であろう、剣の才があったらしい。生真面目なのは母譲りか。



「早かったね。てっきり王妃に捕まってるんじゃないかと思っていたよ。」
「ええ、司書の方が抜け道を教えて下さって。本当にお城って迷路なのね。」
「マルスは元気だった?」
「とても。何故かしら、あの子と一緒にいると女官に度々挨拶されちゃうのよ。」
「駄目だからね、女官と騎士の物語だなんて。」
「もう遅いわ、旦那様。帰りの馬車で構想が思い浮かんでしまったもの。」
「今から書こうだなんてさせないよ。今日はこれから私とお茶をするんだ、分かったね。」

もう直ぐ五十に手が届く。
ついつい無理してしまうも、思った以上に体力が続かなくなった。
老いを感じる様になって、マルクスがいつでもヘンリエッタの体調を気にしていることに気が付いた。自分の為に、夫の為に、我が身を労る様になった。


良い人生だったと思う。
哀しい令嬢時代も長い人生の中ではほんの僅かなものである。それでも、その僅かな時に煌めき輝く体験を得た。苦しい事も哀しい事も、勿論嬉しい喜びも、過ぎてしまえば掛け替えのない一瞬の燦きで、それは流れ星が夜空に流れて消えて行くのに似ている。

初めての婚約も再びの婚約も、結局結ばれる事は無かったが、初めての婚姻は長く続いたのではないか。
マルクスはいつでもブレずにマルクスであったから、ヘンリエッタはそんな彼の選ぶ人生のチョイスを、側にいて楽しく思いながら見つめて来た。時折ちょいちょい物語に仕立てたりして、夫をネタにするかねと呆れられたのは懐かしい思い出だ。
彼とのそんな思い出も、今日王城に納めて来た文庫の中に生きている。


夜会の夜に、彼がヘンリエッタを抱えて逃げた思い出は冒険譚と言えるのか。二人で踊ったダンスは恋の始まりの物語なのか。
彼と生きる人生。彼と紡ぐ物語。

相変わらず艶のある金の髪を、この夫だけが年を取らないのを狡いと思い眺めれば、振り返った青い瞳が「なんだね?」と目線で問うて来る。

毎日毎日見つめた瞳。
その変わらず温かな眼差しを受け止めて、
この世の最後に見るのなら、やはりこの青い瞳がいいと思った。


                完



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