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マルガレーテ・M・ミッチェルとは、彗星の如く現れた新進気鋭の女流作家である。
彼女のプロフィールは明かされていなかったから、彼女の身分が貴族であるのか平民なのか、歳は幾つで何処に住んでいるのか、誰も彼も皆目見当が付かなかった。
ただ、彼女の描く小説の舞台には王侯貴族が登場したし、描かれる貴族社会はまるで見てき来たように詳細であったから、彼女が王城に出仕する女官か高位貴族に仕える侍女なのではないかと噂された。
貴族子女が小説なんて書く訳が無いから、大凡はそんなふうに憶測されているのであった。
『ふしぎなメルメ』がヒットした。
赤いキャンディと青いキャンディがあって、本当の心と身体は女の子なのだが、青いキャンディで男の子になったら赤いキャンディで女の子に戻る。キャンディで変化しながら世を欺き、時にはご令嬢の友となり、時には王子の側近となり...、と言う例のあの空想を物語にした。
悲恋の後のファンタジー。
一人の少女が活躍するお話しは、『Hの悲劇』で心を痛めたファン達にお口直しの様な爽快感を齎して、御婦人方ばかりでなく少年少女にも大いにウケた。
既にミュージカル化が決まっていたから、近々舞台でも観劇出来るだろう。
そうして今は、ヘンリエッタは新作の執筆に追われていた。
マルクスの商会経営を手伝ったり、二人で社交を熟したり、ヘンリエッタはもう嘗ての引き籠り令嬢ではなかったから、多忙な間を縫う様に執筆している。
「何にしたの?」
「タイトル?」
「うん。凄い速度で書いてるから。無理は駄目だよ。ちゃんと休むんだ。」
「大丈夫よ、旦那様。ちゃんと休んでいるわ。」
ヘンリエッタが今執筆しているのは、某国に生を受けた一人の王子の話しである。
彼は王国の末王子であるのだが、側妃から生まれたが為に王子でありながら不安定な立場にある。そうして彼は兄思いの苦労人で、兄の為に心を砕いて奔走する。王国の為に兄達の治める王国の治世の為に、我が身を犠牲にする薄幸の王子様。そうして、そんな勤勉で孤独な王子にある日訪れる淡い恋...。
『薄幸の王子』は発表と共にメガヒットするのだが、ヘンリエッタはそんな事は全然考えてはいないから、只管兄思いのロバート殿下を思い浮かべて、彼の苦労をせめて物語で昇華して弔ってやろうと、彼の幸福を願いながらペンを走らせた。
人の苦労は密の味。だがしかし、薄幸の王子には幸せになって欲しい。
そういえば、我が国にもそんな王子いたっけな。民はここで第三王子ロバートを思い出した。そこで何故だか王国民の士気が一気に上がり、臣籍降下して伯爵位を賜ったロバートの領地には人が集まり幾つも産業が興された。そうして薄幸の王子が賜った領地は、王国最大の商業都市として栄える事となる。
王家の色であるロイヤルブルーの瞳の領主は、勤勉で思慮深く賢明であった。そんな彼の下に身分を隠した大国の姫君が訪れて、二人の間には淡い恋が芽生えるのだが、これもまた別のお話し。
「う~ん。」
ヘンリエッタは悩んでいる。
新人作家あるあるのネタ切れである。
あれほど泉に湧く湧水の様に、自ずと降って湧いたアイデアが、砂漠のど真ん中にいる様に枯渇した。
何処かにネタは落ちてないかな。
邸の中をうろうろしながら考える。
マルクスは、ヘンリエッタと婚姻するにあたってM&M商会に程近い場所に小さな邸を買った。小さいと言っても、それは貴族の邸に比べればと言うことで、平民となった二人にとっては十分大きな邸である。
数は多くはないが使用人も雇い入れ、ブリジットは高給なノーザランド伯爵家を辞してヘンリエッタに付いて来てくれた。夫のフランクも同様に、今はマルクスの従者として勤めている。
「私をネタになさらないで下さいね。」
「何で分かったの?」
「物欲しそうなお顔をなさっておられますから。人を見ればネタと思うお顔です。」
ブリジットにフラレてしまった。
あわよくば、フランクとの馴れ初めなんかを聞いちゃったりして、それをネタにしようかな、なんて考えていた。
フランクが何故、花形の近衛騎士を辞してまでブリジットとの婚姻を望んだのか。
おお、これはドロドロの愛憎劇の匂いがするぞ。
「可怪しな事を考えないで下さいね。私とフランクは極々普通の夫婦ですよ。」
なんで心の内が分かるのか。
ヘンリエッタの内心などブリジットには筒抜けで、ちぇ、とばかりに窓の外を見る。
むむ、あれには見ゆるは旦那様。
相変わらず綺麗なお顔をしてるわね。遠目で見ても分かっちゃう、あの金色の髪。距離があるのに眩しいわね。それにあの青い瞳と言ったら、まるでサファイアだわ。
殿方にしておくのが惜しくなるほど麗しい。まるで女の子よね。女の子、おんなの...
その直後からヘンリエッタは自室に籠もった。枯渇した筈のアイデアが降ってくる。湧いてくる。
これは消えてしまう前に文字に残さねば。
時間の経過も寝食すらも、執筆中のヘンリエッタを止められない。
只管ペンを走らせて、夜が更けて夜が明ける。東の空が白む頃、ヘンリエッタは静かにペンを置いた。
小説の神様が降りてきた。正にそんな感覚であった。沸き起こる文字を追いかける様にしたためた。これは来るぞ。乙女の心にぐぐっと刺さるぞ。
ヘンリエッタは立ち上がり、窓辺に歩み寄る。新しい朝が来た。希望の朝だ。朝日に向かってヘンリエッタは感じた。
確かなヒットの予感を覚えて、登る太陽に向かって微笑んだ。
彼女のプロフィールは明かされていなかったから、彼女の身分が貴族であるのか平民なのか、歳は幾つで何処に住んでいるのか、誰も彼も皆目見当が付かなかった。
ただ、彼女の描く小説の舞台には王侯貴族が登場したし、描かれる貴族社会はまるで見てき来たように詳細であったから、彼女が王城に出仕する女官か高位貴族に仕える侍女なのではないかと噂された。
貴族子女が小説なんて書く訳が無いから、大凡はそんなふうに憶測されているのであった。
『ふしぎなメルメ』がヒットした。
赤いキャンディと青いキャンディがあって、本当の心と身体は女の子なのだが、青いキャンディで男の子になったら赤いキャンディで女の子に戻る。キャンディで変化しながら世を欺き、時にはご令嬢の友となり、時には王子の側近となり...、と言う例のあの空想を物語にした。
悲恋の後のファンタジー。
一人の少女が活躍するお話しは、『Hの悲劇』で心を痛めたファン達にお口直しの様な爽快感を齎して、御婦人方ばかりでなく少年少女にも大いにウケた。
既にミュージカル化が決まっていたから、近々舞台でも観劇出来るだろう。
そうして今は、ヘンリエッタは新作の執筆に追われていた。
マルクスの商会経営を手伝ったり、二人で社交を熟したり、ヘンリエッタはもう嘗ての引き籠り令嬢ではなかったから、多忙な間を縫う様に執筆している。
「何にしたの?」
「タイトル?」
「うん。凄い速度で書いてるから。無理は駄目だよ。ちゃんと休むんだ。」
「大丈夫よ、旦那様。ちゃんと休んでいるわ。」
ヘンリエッタが今執筆しているのは、某国に生を受けた一人の王子の話しである。
彼は王国の末王子であるのだが、側妃から生まれたが為に王子でありながら不安定な立場にある。そうして彼は兄思いの苦労人で、兄の為に心を砕いて奔走する。王国の為に兄達の治める王国の治世の為に、我が身を犠牲にする薄幸の王子様。そうして、そんな勤勉で孤独な王子にある日訪れる淡い恋...。
『薄幸の王子』は発表と共にメガヒットするのだが、ヘンリエッタはそんな事は全然考えてはいないから、只管兄思いのロバート殿下を思い浮かべて、彼の苦労をせめて物語で昇華して弔ってやろうと、彼の幸福を願いながらペンを走らせた。
人の苦労は密の味。だがしかし、薄幸の王子には幸せになって欲しい。
そういえば、我が国にもそんな王子いたっけな。民はここで第三王子ロバートを思い出した。そこで何故だか王国民の士気が一気に上がり、臣籍降下して伯爵位を賜ったロバートの領地には人が集まり幾つも産業が興された。そうして薄幸の王子が賜った領地は、王国最大の商業都市として栄える事となる。
王家の色であるロイヤルブルーの瞳の領主は、勤勉で思慮深く賢明であった。そんな彼の下に身分を隠した大国の姫君が訪れて、二人の間には淡い恋が芽生えるのだが、これもまた別のお話し。
「う~ん。」
ヘンリエッタは悩んでいる。
新人作家あるあるのネタ切れである。
あれほど泉に湧く湧水の様に、自ずと降って湧いたアイデアが、砂漠のど真ん中にいる様に枯渇した。
何処かにネタは落ちてないかな。
邸の中をうろうろしながら考える。
マルクスは、ヘンリエッタと婚姻するにあたってM&M商会に程近い場所に小さな邸を買った。小さいと言っても、それは貴族の邸に比べればと言うことで、平民となった二人にとっては十分大きな邸である。
数は多くはないが使用人も雇い入れ、ブリジットは高給なノーザランド伯爵家を辞してヘンリエッタに付いて来てくれた。夫のフランクも同様に、今はマルクスの従者として勤めている。
「私をネタになさらないで下さいね。」
「何で分かったの?」
「物欲しそうなお顔をなさっておられますから。人を見ればネタと思うお顔です。」
ブリジットにフラレてしまった。
あわよくば、フランクとの馴れ初めなんかを聞いちゃったりして、それをネタにしようかな、なんて考えていた。
フランクが何故、花形の近衛騎士を辞してまでブリジットとの婚姻を望んだのか。
おお、これはドロドロの愛憎劇の匂いがするぞ。
「可怪しな事を考えないで下さいね。私とフランクは極々普通の夫婦ですよ。」
なんで心の内が分かるのか。
ヘンリエッタの内心などブリジットには筒抜けで、ちぇ、とばかりに窓の外を見る。
むむ、あれには見ゆるは旦那様。
相変わらず綺麗なお顔をしてるわね。遠目で見ても分かっちゃう、あの金色の髪。距離があるのに眩しいわね。それにあの青い瞳と言ったら、まるでサファイアだわ。
殿方にしておくのが惜しくなるほど麗しい。まるで女の子よね。女の子、おんなの...
その直後からヘンリエッタは自室に籠もった。枯渇した筈のアイデアが降ってくる。湧いてくる。
これは消えてしまう前に文字に残さねば。
時間の経過も寝食すらも、執筆中のヘンリエッタを止められない。
只管ペンを走らせて、夜が更けて夜が明ける。東の空が白む頃、ヘンリエッタは静かにペンを置いた。
小説の神様が降りてきた。正にそんな感覚であった。沸き起こる文字を追いかける様にしたためた。これは来るぞ。乙女の心にぐぐっと刺さるぞ。
ヘンリエッタは立ち上がり、窓辺に歩み寄る。新しい朝が来た。希望の朝だ。朝日に向かってヘンリエッタは感じた。
確かなヒットの予感を覚えて、登る太陽に向かって微笑んだ。
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