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「何も特別なお話しではないのよ。ただ、貴女も人の妻になるから、妻業の先輩からこんな夫婦もいるのだとお話ししておこうかしらと思ったの。」
そう言う母の横顔は、娘の目から見ても美しい。四十にまだ手は届いていないが、二人子を産み娘は嫁ぐ年齢で、母もノーザランド伯爵家に嫁いで二十年にはなる。
その二十年が決して幸福なばかりの月日では無い筈なのに、ヘンリエッタの思う母とはいつもおっとりと鷹揚に構えて、貴族婦人の気品と優雅さを失わない。
何度も思う事ではあるが、父はこの母の何処に不足を覚えて他所に愛を傾けているのだろう。
ヘンリエッタの視線に気が付いたのか、母は冬枯れの庭園を眺めていたのを、ふとヘンリエッタへ視線を移した。
そうして、ヘンリエッタが何を思うのか全て解っている風に穏やかな笑みを浮かべた。そうして話し始めた。
過ぎた遠い日の、若き婚約者の話し。
通り過ぎた思い出を辿って話すのは、まるで物語の粗筋を語っているようにも見えた。
「貴女は知っているでしょう。私と貴女のお父様が幼い頃からの婚約者であったのだと。」
ヘンリエッタの母ウィルマは元は伯爵家の次女で、父ヘンリーとは幼い頃から婚約が結ばれていた。
母の生家である伯爵家は、ノーザランド伯爵家の領地とは隣同士で、軍馬を育成する事業でも協力関係にあった。
爵位は同じ、家格は同等、同じ王政派に属して共に領地経営にも問題無く、そうして二人は年も同じで幼い頃から親しく交流しており、流れる水の様にごく自然に婚約は結ばれた。
それは夜空に輝く満月の様に欠けるところのない婚約関係であった。
互いに想い合う気持ちもあったし、将来は二人でノーザランド伯爵家を盛り立てるのだと至極当然に受け止めていた。
ウィルマは多分、婚約関係になかったとしても、例えば領地も遠く離れて両家の交流もなく、幼馴染でなかったとしても、ヘンリーに一目会ったならきっと彼を好きになっただろうと思っていた。
プラチナブロンドの髪は光の加減でミルクティー色にも見えて、翠がかった榛の瞳は深い森だとか豊かな大地を思わせた。
寡黙と言う程ではないけれど、華やかな貴族の中でも彼は落ち着きのある少年で、涼し気な表情であるのに冷たく見えない穏やかさがあった。
決して話し上手と云うのではなかったが、ウィルマを見つめる瞳には、いつでも親愛が滲んでいたし、そんなヘンリーに微笑み返せば途端に目尻をほんのり染めて俯いてしまう横顔も好きだった。
彼は、物事を冷静に判断する能力に長けていたからか、子供らしからぬ落ち着きが認められたのか、国王陛下、当時の王太子殿下とは少年の頃からの友人として親しい間柄にあった。
そんなヘンリーは、ウィルマにとって生涯を捧げたいと思う唯一の男性だった。
彼がどうしてあんな風になったのか、ウィルマには解らない。ただ、自分がヘンリーを慕う程にはヘンリーはウィルマに思慕の情を抱けなかったのだろうと思った。
それとも、ウィルマに女性としての魅力が足りなかったのか。鏡に映る淡い金の髪と淡い翠の瞳の自分を見るにつけ、こんなはっきりしない色合いだから、きっと愛してもらえなかったのだろうと、ウィルマは何度も考えた。
ヘンリーは、ウィルマと共に入学した貴族学園で、一人の女子生徒と親しくなった。彼女は男爵家の令嬢で、ココア色の髪に黒く大きな瞳が愛らしく男子生徒達にはとても人気があった。
幼い頃から一緒にいて、一日一日積み重ねて来た穏やかな愛は、一目で胸を打たれるような運命の愛の前には一溜まりもなく、間もなくヘンリーと男爵令嬢が寄り添う姿が頻繁に見られるようになる。
ウィルマは思う。
あの時、泣いて縋れば良かったのか。
婚約者は自分なのだと、男爵令嬢から離れて欲しいと。
けれどもウィルマには、そんな事は出来なかった。ヘンリーが愛を覚えているのを、どうして邪魔が出来るだろう。彼は浅はかな男ではない。ウィルマの事も、将来の事も、決して忘れてしまった訳では無い。その証拠に、誕生日には贈り物が届けられるし、公の社交にはウィルマをエスコートする事を怠らない。
ただ学園にいては、ヘンリーは男爵令嬢から離れることなく、もう何百回と見た二人が寄り添う後ろ姿に、ウィルマは心を擦り減らしながらも恋心を失う事は出来なかった。
だがしかし、ヘンリーと男爵令嬢の事は学園では有名で、いつしか両家の親達の耳にも入る。当然ながらウィルマの両親はヘンリーとの婚約を解消する事を勧めた。
学生の内であるなら疵も幾分浅かろう。在学中に新たな縁談を探してやろう。両親の言葉に、ウィルマはそれに承知した。
ウィルマがヘンリーへの愛を失わずとも、ヘンリーにはウィルマへ向ける愛は無いだろう。もう十分思い悩んだ。失った愛に縋るよりも、新しい人生を考えてみても良いかも知れない。
ノーザランド伯爵家に婚約の解消を申し込んだ。婚約解消の書類を携え両親と共にノーザランド伯爵邸を訪ったウィルマの目の前で、ヘンリーはテーブルに置かれた書類を鷲掴みにして、ビリビリと目の前で引き裂いた。真っ赤に顔を染め上げて、眦をキリキリと引き攣らせて、まるで破談を申し込んだウィルマに怒りをぶつける様に、ビリビリビリビリ、書類が粉々になるまで引き千切った。
結局、婚約は解消されなかった。かと言って男爵令嬢との不実な関係をヘンリーが釈明する事も無い。ただヘンリーは、誰が説得してもウィルマとは別れない、その一言を、まるでそれしか言葉を知らぬ様に繰り返すだけだった。
そう言う母の横顔は、娘の目から見ても美しい。四十にまだ手は届いていないが、二人子を産み娘は嫁ぐ年齢で、母もノーザランド伯爵家に嫁いで二十年にはなる。
その二十年が決して幸福なばかりの月日では無い筈なのに、ヘンリエッタの思う母とはいつもおっとりと鷹揚に構えて、貴族婦人の気品と優雅さを失わない。
何度も思う事ではあるが、父はこの母の何処に不足を覚えて他所に愛を傾けているのだろう。
ヘンリエッタの視線に気が付いたのか、母は冬枯れの庭園を眺めていたのを、ふとヘンリエッタへ視線を移した。
そうして、ヘンリエッタが何を思うのか全て解っている風に穏やかな笑みを浮かべた。そうして話し始めた。
過ぎた遠い日の、若き婚約者の話し。
通り過ぎた思い出を辿って話すのは、まるで物語の粗筋を語っているようにも見えた。
「貴女は知っているでしょう。私と貴女のお父様が幼い頃からの婚約者であったのだと。」
ヘンリエッタの母ウィルマは元は伯爵家の次女で、父ヘンリーとは幼い頃から婚約が結ばれていた。
母の生家である伯爵家は、ノーザランド伯爵家の領地とは隣同士で、軍馬を育成する事業でも協力関係にあった。
爵位は同じ、家格は同等、同じ王政派に属して共に領地経営にも問題無く、そうして二人は年も同じで幼い頃から親しく交流しており、流れる水の様にごく自然に婚約は結ばれた。
それは夜空に輝く満月の様に欠けるところのない婚約関係であった。
互いに想い合う気持ちもあったし、将来は二人でノーザランド伯爵家を盛り立てるのだと至極当然に受け止めていた。
ウィルマは多分、婚約関係になかったとしても、例えば領地も遠く離れて両家の交流もなく、幼馴染でなかったとしても、ヘンリーに一目会ったならきっと彼を好きになっただろうと思っていた。
プラチナブロンドの髪は光の加減でミルクティー色にも見えて、翠がかった榛の瞳は深い森だとか豊かな大地を思わせた。
寡黙と言う程ではないけれど、華やかな貴族の中でも彼は落ち着きのある少年で、涼し気な表情であるのに冷たく見えない穏やかさがあった。
決して話し上手と云うのではなかったが、ウィルマを見つめる瞳には、いつでも親愛が滲んでいたし、そんなヘンリーに微笑み返せば途端に目尻をほんのり染めて俯いてしまう横顔も好きだった。
彼は、物事を冷静に判断する能力に長けていたからか、子供らしからぬ落ち着きが認められたのか、国王陛下、当時の王太子殿下とは少年の頃からの友人として親しい間柄にあった。
そんなヘンリーは、ウィルマにとって生涯を捧げたいと思う唯一の男性だった。
彼がどうしてあんな風になったのか、ウィルマには解らない。ただ、自分がヘンリーを慕う程にはヘンリーはウィルマに思慕の情を抱けなかったのだろうと思った。
それとも、ウィルマに女性としての魅力が足りなかったのか。鏡に映る淡い金の髪と淡い翠の瞳の自分を見るにつけ、こんなはっきりしない色合いだから、きっと愛してもらえなかったのだろうと、ウィルマは何度も考えた。
ヘンリーは、ウィルマと共に入学した貴族学園で、一人の女子生徒と親しくなった。彼女は男爵家の令嬢で、ココア色の髪に黒く大きな瞳が愛らしく男子生徒達にはとても人気があった。
幼い頃から一緒にいて、一日一日積み重ねて来た穏やかな愛は、一目で胸を打たれるような運命の愛の前には一溜まりもなく、間もなくヘンリーと男爵令嬢が寄り添う姿が頻繁に見られるようになる。
ウィルマは思う。
あの時、泣いて縋れば良かったのか。
婚約者は自分なのだと、男爵令嬢から離れて欲しいと。
けれどもウィルマには、そんな事は出来なかった。ヘンリーが愛を覚えているのを、どうして邪魔が出来るだろう。彼は浅はかな男ではない。ウィルマの事も、将来の事も、決して忘れてしまった訳では無い。その証拠に、誕生日には贈り物が届けられるし、公の社交にはウィルマをエスコートする事を怠らない。
ただ学園にいては、ヘンリーは男爵令嬢から離れることなく、もう何百回と見た二人が寄り添う後ろ姿に、ウィルマは心を擦り減らしながらも恋心を失う事は出来なかった。
だがしかし、ヘンリーと男爵令嬢の事は学園では有名で、いつしか両家の親達の耳にも入る。当然ながらウィルマの両親はヘンリーとの婚約を解消する事を勧めた。
学生の内であるなら疵も幾分浅かろう。在学中に新たな縁談を探してやろう。両親の言葉に、ウィルマはそれに承知した。
ウィルマがヘンリーへの愛を失わずとも、ヘンリーにはウィルマへ向ける愛は無いだろう。もう十分思い悩んだ。失った愛に縋るよりも、新しい人生を考えてみても良いかも知れない。
ノーザランド伯爵家に婚約の解消を申し込んだ。婚約解消の書類を携え両親と共にノーザランド伯爵邸を訪ったウィルマの目の前で、ヘンリーはテーブルに置かれた書類を鷲掴みにして、ビリビリと目の前で引き裂いた。真っ赤に顔を染め上げて、眦をキリキリと引き攣らせて、まるで破談を申し込んだウィルマに怒りをぶつける様に、ビリビリビリビリ、書類が粉々になるまで引き千切った。
結局、婚約は解消されなかった。かと言って男爵令嬢との不実な関係をヘンリーが釈明する事も無い。ただヘンリーは、誰が説得してもウィルマとは別れない、その一言を、まるでそれしか言葉を知らぬ様に繰り返すだけだった。
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