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マクルズ子爵家の三男である令息は、見目麗しく物腰も柔らかで、その上頭の回転が早く口が堅い。商人の家系らしく約束事を違えず仕事が早く、生家から独立して立ち上げた商会も、規模は小さいが上質の品を揃えた一流店で人気がある。
嫡男が爵位を継承後は、彼の身分は貴族を離れるが、これだけ優秀でしかも見目よい青年であれば引く手数多であるのだが、彼には一つ人とは認識の違う事があり、どうやら心は女性なのだという。その為なのか、これまで縁を結んだご令嬢は無かったのだが、この度目出度く婚約を結んだ。
それが、予てより噂の多い伯爵令嬢で、彼女は先日二度も婚約を結んだお相手との縁談を破談としたばかりである。
どうやら第二王子殿下と隣国王女の婚約に政治的な影響を受けたのではないかと言われているが、その詳細は定かでない。
どんなご縁で結ばれたのか、新年祝賀の夜会に現れた二人は、互いの色を身に纏い輝かんばかりの姿で、幸福が目で見える様であった。
手に手を取って踊るダンスの合間にも、令息が何やら耳元で囁きかけて、ご令嬢がそれに頬を染めるのも、何とも初々しく可憐であった。
過去の過ぎた出来事も、この夜の幸福な恋人達の姿に、雪解けの清水に洗い流される様に消え去ってしまうことだろう。
「ヘンリエッタ嬢。婚約お目出度う。」
「ロバート殿下...。有難うございます。」
「兄の為に、迷惑を掛けてしまったね。その、申し訳無かった。」
「何故、貴方様がお謝りになられるので?それに、エドワード殿下こそお辛い思いをなされた筈ですわ。」
「うん。まあ、そうなのかな。その、ハロルドが君を大切に思っている事を知っていたのだが、いや、そんな事はもう良いか。マルクスとの縁こそ君を幸福にするのだと、お祝いさせてもらうよ。」
冬の休みが終わって学園に行けば、幾人かの令嬢達から「お目出度うございます」と声を掛けられた。
ヘンリエッタは友人が激少なであったから、挨拶程度の会話しか交わさないのが平常操業で、にこやかに話し掛けられて思わず身構えてしまった。
ご令嬢方はそんなヘンリエッタには気付かぬ様で、マルクスとの婚約に加えて、巷で大流行の小説のヒロインがヘンリエッタっぽくないかと興味を唆られる様であった。
すっかり社交から疎くなっていたヘンリエッタだから、令嬢方の「もっとお話ししませんこと?」と云う暗黙のお誘いにもこれっぽっちも気付かぬまま、まるっとスルーしてしまうのだった。
そんな時に、ロバート殿下に声を掛けられ婚約の祝いの言葉を頂戴した。
ハロルドがどんどん窶れて行ったのは記憶に新しいのだが、ロバートも何だか頬が削げて見えた。
彼は兄思いの苦労人であるから、どうか幸せになって欲しい。そうだ、ロバートをモデルにして物語を書いてみようかな。「薄幸の王子」なんてタイトルどうだろう。良くないか?これって良くないか?なんて、人の苦労も小説のネタにして昇華しようだなんて考える。
殿下、お待ちになってね。「ふしぎなメルメ」を書き終えたら、貴方様を題材に一作品書いてみようと思います。貴方様のご苦労も物語ではハッピーなエンディングに致しますから安心なさって、なんて思いながらロバートと別れた。
ロバート自身はヘンリエッタの目の奥に不穏な炎が燃えるのを、何だか不安な気持ちにさせられて、今日は早く寝ようかなと思っていたのだが、そんなのはヘンリエッタの預かり知らぬ事であった。
邸に戻ればティールームに母が一人で座っていた。年が明けて、僅かに日が長くなった。夕暮れの桃色の空が明るく感じる。春は一日一日近付いている。
そんな夕暮れの空を、母は窓から眺めているらしかった。
思えば母には心配ばかり掛けていた。
ハロルドが隣国から戻ってからは、特に悲しい思いをさせていた。ヘンリエッタが塞ぎ込めば、母もそれを哀れんでどう声を掛けたら良いのかと思案していたのは気付いていた。
ヘンリエッタは華やかな令嬢とは程遠い青春を過ごしたが、それは家族にも影を落としていただろう。
マルクスとの婚約が整ってから、母には笑顔が増えていた。ヘンリエッタが幸福である様に、母にも幸せでいてほしい。長い結婚生活は、他所に愛を持つ父の為に涙の多いものだったろう。
聡明な母は、ヘンリエッタにもウィリアムにも、そんな素振りは見せないが、今も心の奥底に父への不信を抱えている事だろう。
「お母様。」
「まあ、ヘンリエッタ。帰っていたのね。出迎えもせずにごめんなさいね。」
「いいえ、そんな事は良いのです。お母様がお茶をなさっているのかと思って来てみたの。」
「ええ。最近夕暮れが明るくなったと空を眺めていたのよ。夜明けも早くなったわね。」
「そうね。」
ヘンリエッタが母の隣りに座れば、ブリジットがお茶を淹れてくれる。
「マルクス様のご実家から頂戴した茶葉、とても香りが良いわね。」
「ええ、西の辺境伯領で栽培されている茶葉なのだそうです。」
母娘で香り高い紅茶を楽しむ。
「ねえ、ヘンリエッタ。」
「なんです?お母様。」
「マルクス様の妻になる貴女に、お話ししておこうかしら。」
「なんでしょう。」
「私とお父様の話しよ。」
思わぬところでヘンリエッタは、父と母の物語を聞くことになった。
嫡男が爵位を継承後は、彼の身分は貴族を離れるが、これだけ優秀でしかも見目よい青年であれば引く手数多であるのだが、彼には一つ人とは認識の違う事があり、どうやら心は女性なのだという。その為なのか、これまで縁を結んだご令嬢は無かったのだが、この度目出度く婚約を結んだ。
それが、予てより噂の多い伯爵令嬢で、彼女は先日二度も婚約を結んだお相手との縁談を破談としたばかりである。
どうやら第二王子殿下と隣国王女の婚約に政治的な影響を受けたのではないかと言われているが、その詳細は定かでない。
どんなご縁で結ばれたのか、新年祝賀の夜会に現れた二人は、互いの色を身に纏い輝かんばかりの姿で、幸福が目で見える様であった。
手に手を取って踊るダンスの合間にも、令息が何やら耳元で囁きかけて、ご令嬢がそれに頬を染めるのも、何とも初々しく可憐であった。
過去の過ぎた出来事も、この夜の幸福な恋人達の姿に、雪解けの清水に洗い流される様に消え去ってしまうことだろう。
「ヘンリエッタ嬢。婚約お目出度う。」
「ロバート殿下...。有難うございます。」
「兄の為に、迷惑を掛けてしまったね。その、申し訳無かった。」
「何故、貴方様がお謝りになられるので?それに、エドワード殿下こそお辛い思いをなされた筈ですわ。」
「うん。まあ、そうなのかな。その、ハロルドが君を大切に思っている事を知っていたのだが、いや、そんな事はもう良いか。マルクスとの縁こそ君を幸福にするのだと、お祝いさせてもらうよ。」
冬の休みが終わって学園に行けば、幾人かの令嬢達から「お目出度うございます」と声を掛けられた。
ヘンリエッタは友人が激少なであったから、挨拶程度の会話しか交わさないのが平常操業で、にこやかに話し掛けられて思わず身構えてしまった。
ご令嬢方はそんなヘンリエッタには気付かぬ様で、マルクスとの婚約に加えて、巷で大流行の小説のヒロインがヘンリエッタっぽくないかと興味を唆られる様であった。
すっかり社交から疎くなっていたヘンリエッタだから、令嬢方の「もっとお話ししませんこと?」と云う暗黙のお誘いにもこれっぽっちも気付かぬまま、まるっとスルーしてしまうのだった。
そんな時に、ロバート殿下に声を掛けられ婚約の祝いの言葉を頂戴した。
ハロルドがどんどん窶れて行ったのは記憶に新しいのだが、ロバートも何だか頬が削げて見えた。
彼は兄思いの苦労人であるから、どうか幸せになって欲しい。そうだ、ロバートをモデルにして物語を書いてみようかな。「薄幸の王子」なんてタイトルどうだろう。良くないか?これって良くないか?なんて、人の苦労も小説のネタにして昇華しようだなんて考える。
殿下、お待ちになってね。「ふしぎなメルメ」を書き終えたら、貴方様を題材に一作品書いてみようと思います。貴方様のご苦労も物語ではハッピーなエンディングに致しますから安心なさって、なんて思いながらロバートと別れた。
ロバート自身はヘンリエッタの目の奥に不穏な炎が燃えるのを、何だか不安な気持ちにさせられて、今日は早く寝ようかなと思っていたのだが、そんなのはヘンリエッタの預かり知らぬ事であった。
邸に戻ればティールームに母が一人で座っていた。年が明けて、僅かに日が長くなった。夕暮れの桃色の空が明るく感じる。春は一日一日近付いている。
そんな夕暮れの空を、母は窓から眺めているらしかった。
思えば母には心配ばかり掛けていた。
ハロルドが隣国から戻ってからは、特に悲しい思いをさせていた。ヘンリエッタが塞ぎ込めば、母もそれを哀れんでどう声を掛けたら良いのかと思案していたのは気付いていた。
ヘンリエッタは華やかな令嬢とは程遠い青春を過ごしたが、それは家族にも影を落としていただろう。
マルクスとの婚約が整ってから、母には笑顔が増えていた。ヘンリエッタが幸福である様に、母にも幸せでいてほしい。長い結婚生活は、他所に愛を持つ父の為に涙の多いものだったろう。
聡明な母は、ヘンリエッタにもウィリアムにも、そんな素振りは見せないが、今も心の奥底に父への不信を抱えている事だろう。
「お母様。」
「まあ、ヘンリエッタ。帰っていたのね。出迎えもせずにごめんなさいね。」
「いいえ、そんな事は良いのです。お母様がお茶をなさっているのかと思って来てみたの。」
「ええ。最近夕暮れが明るくなったと空を眺めていたのよ。夜明けも早くなったわね。」
「そうね。」
ヘンリエッタが母の隣りに座れば、ブリジットがお茶を淹れてくれる。
「マルクス様のご実家から頂戴した茶葉、とても香りが良いわね。」
「ええ、西の辺境伯領で栽培されている茶葉なのだそうです。」
母娘で香り高い紅茶を楽しむ。
「ねえ、ヘンリエッタ。」
「なんです?お母様。」
「マルクス様の妻になる貴女に、お話ししておこうかしら。」
「なんでしょう。」
「私とお父様の話しよ。」
思わぬところでヘンリエッタは、父と母の物語を聞くことになった。
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