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マルクスの母、マクルズ子爵夫人とは、商会経営をする貴族家には珍しく、おっとりと穏やかな人柄の婦人である。ヘンリエッタの処女作『Hの悲劇』の熱烈なファンであり、以前にも手厚い持て成しを受けていた。
「聖夜の夜会を欠席なさるのね。それが宜しいでしょうね。エレノア王女のお噂は、私も聞いたことがあるわ。それに、貴女の前のご婚約者様も。」
「まあ、そうなのですね。ですが、ハロルド様はエドワード殿下の為にエレノア王女のお側におられたそうで、その為にあのお方こそ迷惑を被られていらっしゃいました。」
ヘンリエッタとハロルドの婚約破棄の噂は、耳の早い貴族達には既に周知のこととなっているらしかった。
ヘンリエッタは知らなかったが、どうやらエレノアとは評判が宜しくなかったらしく、そのエレノアに侍っているらしいハロルドとは、再婚約を自ら願っておきながら、婚約者のご令嬢を蔑ろにしている最低な輩と噂されているのだという。
ヘンリエッタは今流行りの悲恋小説になぞらえて「Hの悲劇のご令嬢」なんて呼ばれちゃってるらしく、いえ、そもそもその主人公本人ですとは言えないから、否定せぬままにしている。
「良いじゃない。小説のヒロインは涙を飲んで引き下がったけれど、現実の馬鹿ップルは王女は謹慎、男は一人赤恥をかく。それくらいの事をされたのは貴女なのだから、遠慮なんて要らないわよ。それに、小説の売り上げは益々上がっている事だし、この分では、近いうちに歌劇の原作にオファーが来るかもよ?どうしましょう、『ベルかす』の興行成績を抜いちゃったら。」
「まあ、マルクスの言う通りよ。そうなれば、貴女は一流作家の仲間入りだわ。素敵ね!」
母子は、きゃっきゃと沸いている。
「それは有りえませんわ。だって『ベルかす』は神ですもの。あれを超える物語だなんて、この世に有りよう筈もありません。」
『ベルかす』信者のヘンリエッタは、マルクスの言葉に憮然となる。
「まあ、それはそうと、聖夜の夜会よね。マルクスから、夜会の日に貴女を我が家にご招待したいのだと聞いたのだけれど。」
「ええ、マリーからお誘いを頂いて、それで宜しければ是非とも伺いたいと思っております。」
「勿論よ、楽しんで頂きたいわ。本来なら私もご一緒したいのだけれど、そんな事を言ったらきっとマルクスに睨まれてしまうわね。マルクス、貴方が執事と相談して用意するのよ?その、二人きりの夜会とやらを。」
「ふ、二人きりではないのですが..」
ブリジットとその夫も一緒なのだが、どうやらここでは二人はカウントされないらしい。
「それで、マルクス。髪を切った姿がとても似合っていてよ?貴方、もう良いのよ。」
夫人の言葉はヘンリエッタには意味が解らなかった。ただマルクスは、それには無言のまま答えなかった。
三人のお茶会は和気藹々と楽しかった。
ヘンリエッタにはお茶に誘い合うご令嬢はいなくなっていたから、こうして個人的にお誘いを受けるのは本当に久しぶりの事であった。
マルクスは、ヘンリエッタをノーザランド邸から送り迎えをしてくれて、邸に戻る今も子爵家の馬車で送ってくれていた。そう云うところが礼儀正しい紳士的で、髪を切り落として見目が男性らしくなった為か、余計にそう思えてヘンリエッタは少しばかり照れてしまう。
馬車に向かい合って座りながら、今までの様に接し切れずにいる自分をもどかしく思っていた。
「ヘンリエッタ、二人きりの夜会なのだし「ふ、二人きりじゃあないわ、ブリジット達もいるわ。」
「では、二人きりプラスブリジット夫妻ね。」
「屁理屈!」
「まあ、良いじゃない。それで、折角の夜会なのだし貴女にドレスを贈らせてほしいの。」
「そんな、申し訳ないわ。この前のファーコートも、折角貴女から贈ってもらったのに王城へ落としてきたままだわ。」
「あれはアレ、これはコレよ。」
真っ白ふわふわファーコートは、ハロルドと揉み合ううちに部屋に落としたまま置いて来てしまった。あのコートは今どうなっているのだろう。とても可愛いらしかったから、ヘンリエッタは残念に思っていた。
それから数日後、マルクスは本当にドレスを贈ってくれた。どうやってこんな短期間で仕立てたのだろうとヘンリエッタは驚いた。
そうして、驚きはそればかりでなかった。
ヘンリエッタの部屋には、気が付くと侍女頭も母付きの侍女達も、メイド達まで集まって来た。マルクスから贈られたドレスを、ひと目見ようと思ったらしい。それもそのはず、
「か、か、可愛い...」
ドレスが可愛い。マルクスって天才だわ!ヘンリエッタは鏡の前で驚愕した。
王城に落として来たファーコート。
マルクスは、そのファーコートと同じ生布をワンピースに仕立ててくれた。二人きりなんだからドレスコードなんて気にしなくて良い。ヘンリエッタの細い脚がすらりと見えている。
襟は浅いスクエアに、袖は肩が露わなノースリーブ、肩から膝までストン落ちる膝丈ワンピースは、全身ふわふわふんわり、兎に角ふわふわ。
「妖精の様ですわ、お嬢様。」
母の侍女がほぅと感嘆しながら言うのに、ブリジットが「当然です」と答えた。
ふわふわ真っ白ワンピース。こんな可愛らしい装いをチョイスしてくれるマルクスは、きっと誰よりもヘンリエッタの事を解っているのだろう。
波乱含みの婚約で、華やかな舞台から遠ざかって過ごしたヘンリエッタは、自身の身を飾ることも控えがちで、ご令嬢方との付き合いも少なかった。
そんな引き籠もりヘンリエッタの誰にも知られなかった可愛らしさを、マルクスはいとも容易く引き出してしまった。
「聖夜の夜会を欠席なさるのね。それが宜しいでしょうね。エレノア王女のお噂は、私も聞いたことがあるわ。それに、貴女の前のご婚約者様も。」
「まあ、そうなのですね。ですが、ハロルド様はエドワード殿下の為にエレノア王女のお側におられたそうで、その為にあのお方こそ迷惑を被られていらっしゃいました。」
ヘンリエッタとハロルドの婚約破棄の噂は、耳の早い貴族達には既に周知のこととなっているらしかった。
ヘンリエッタは知らなかったが、どうやらエレノアとは評判が宜しくなかったらしく、そのエレノアに侍っているらしいハロルドとは、再婚約を自ら願っておきながら、婚約者のご令嬢を蔑ろにしている最低な輩と噂されているのだという。
ヘンリエッタは今流行りの悲恋小説になぞらえて「Hの悲劇のご令嬢」なんて呼ばれちゃってるらしく、いえ、そもそもその主人公本人ですとは言えないから、否定せぬままにしている。
「良いじゃない。小説のヒロインは涙を飲んで引き下がったけれど、現実の馬鹿ップルは王女は謹慎、男は一人赤恥をかく。それくらいの事をされたのは貴女なのだから、遠慮なんて要らないわよ。それに、小説の売り上げは益々上がっている事だし、この分では、近いうちに歌劇の原作にオファーが来るかもよ?どうしましょう、『ベルかす』の興行成績を抜いちゃったら。」
「まあ、マルクスの言う通りよ。そうなれば、貴女は一流作家の仲間入りだわ。素敵ね!」
母子は、きゃっきゃと沸いている。
「それは有りえませんわ。だって『ベルかす』は神ですもの。あれを超える物語だなんて、この世に有りよう筈もありません。」
『ベルかす』信者のヘンリエッタは、マルクスの言葉に憮然となる。
「まあ、それはそうと、聖夜の夜会よね。マルクスから、夜会の日に貴女を我が家にご招待したいのだと聞いたのだけれど。」
「ええ、マリーからお誘いを頂いて、それで宜しければ是非とも伺いたいと思っております。」
「勿論よ、楽しんで頂きたいわ。本来なら私もご一緒したいのだけれど、そんな事を言ったらきっとマルクスに睨まれてしまうわね。マルクス、貴方が執事と相談して用意するのよ?その、二人きりの夜会とやらを。」
「ふ、二人きりではないのですが..」
ブリジットとその夫も一緒なのだが、どうやらここでは二人はカウントされないらしい。
「それで、マルクス。髪を切った姿がとても似合っていてよ?貴方、もう良いのよ。」
夫人の言葉はヘンリエッタには意味が解らなかった。ただマルクスは、それには無言のまま答えなかった。
三人のお茶会は和気藹々と楽しかった。
ヘンリエッタにはお茶に誘い合うご令嬢はいなくなっていたから、こうして個人的にお誘いを受けるのは本当に久しぶりの事であった。
マルクスは、ヘンリエッタをノーザランド邸から送り迎えをしてくれて、邸に戻る今も子爵家の馬車で送ってくれていた。そう云うところが礼儀正しい紳士的で、髪を切り落として見目が男性らしくなった為か、余計にそう思えてヘンリエッタは少しばかり照れてしまう。
馬車に向かい合って座りながら、今までの様に接し切れずにいる自分をもどかしく思っていた。
「ヘンリエッタ、二人きりの夜会なのだし「ふ、二人きりじゃあないわ、ブリジット達もいるわ。」
「では、二人きりプラスブリジット夫妻ね。」
「屁理屈!」
「まあ、良いじゃない。それで、折角の夜会なのだし貴女にドレスを贈らせてほしいの。」
「そんな、申し訳ないわ。この前のファーコートも、折角貴女から贈ってもらったのに王城へ落としてきたままだわ。」
「あれはアレ、これはコレよ。」
真っ白ふわふわファーコートは、ハロルドと揉み合ううちに部屋に落としたまま置いて来てしまった。あのコートは今どうなっているのだろう。とても可愛いらしかったから、ヘンリエッタは残念に思っていた。
それから数日後、マルクスは本当にドレスを贈ってくれた。どうやってこんな短期間で仕立てたのだろうとヘンリエッタは驚いた。
そうして、驚きはそればかりでなかった。
ヘンリエッタの部屋には、気が付くと侍女頭も母付きの侍女達も、メイド達まで集まって来た。マルクスから贈られたドレスを、ひと目見ようと思ったらしい。それもそのはず、
「か、か、可愛い...」
ドレスが可愛い。マルクスって天才だわ!ヘンリエッタは鏡の前で驚愕した。
王城に落として来たファーコート。
マルクスは、そのファーコートと同じ生布をワンピースに仕立ててくれた。二人きりなんだからドレスコードなんて気にしなくて良い。ヘンリエッタの細い脚がすらりと見えている。
襟は浅いスクエアに、袖は肩が露わなノースリーブ、肩から膝までストン落ちる膝丈ワンピースは、全身ふわふわふんわり、兎に角ふわふわ。
「妖精の様ですわ、お嬢様。」
母の侍女がほぅと感嘆しながら言うのに、ブリジットが「当然です」と答えた。
ふわふわ真っ白ワンピース。こんな可愛らしい装いをチョイスしてくれるマルクスは、きっと誰よりもヘンリエッタの事を解っているのだろう。
波乱含みの婚約で、華やかな舞台から遠ざかって過ごしたヘンリエッタは、自身の身を飾ることも控えがちで、ご令嬢方との付き合いも少なかった。
そんな引き籠もりヘンリエッタの誰にも知られなかった可愛らしさを、マルクスはいとも容易く引き出してしまった。
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