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ヘンリエッタの告白は続く。
「私なら貴方のお立場を理解出来ると、そうやって私を信用して下さる貴方は、遠い将来では、何も言わずとも解っているだろうと心の内で思うだけで、現実の私を、貴方の目の前の私を、その青い瞳に映しては下さらなくなるのでしょう。実際は、貴方に限ってそんな事は無いと思うわ。けれど、そうならないとも限らない。」
喉が渇く。エドワードの淹れてくれたお茶はもう既に無くなっていた。
「私は貴方が思う以上に普通の女なの。下らないお喋りが好きで週刊誌の物語に容易く傾倒して、ちっぽけな事でも構わない、あんな事があったこんな事があった、春が来たら暖かい、夏が来たら暑い、そんな当たり前の事を毎日誰かと語り合って、楽しい事も苦しい事も半分ずつに分け合うのが好きなのよ。
護ってもらうばかりでなくて、護りたいと思うの。そんな私を貴方はいつか持て余すわ。」
「ヘンリエッタ、君は何を言おうとしている。」
「貴方はそのうち、王城で気心の知れたお仲間と過ごす時間が心地良くなる。邪険とまでは言わずとも、何でも言葉で態度で示さねばならない私との暮らしに、いつか不自由な疲れを感じることになるでしょう。秘密裏に行動する事が常である貴方は、私に疑心を与えぬ様に不安にさせぬ様にと何があったかいちいち説明せねばならない暮らしに、いつしか辟易となることでしょう。
貴方の瞳に僅かでもそんな風に私を見る色が表れたら、私、きっと絶望するわ。貴方を婚姻で縛ったことを後悔するわ。私はそんな未来、望んでなんていないのよ。」
「ヘンリエッタ、違う。そうじゃない、そんな事は有り得ない。」
「ハロルド様。貴方は今ですらそんなに頬が削げるほど、私への釈明に胸を痛めておられる。私が傷付かない様に、要らぬ誤解を与えない様に。貴方のお仕事柄、秘して企てる物事は日常の様に起こるのに、その度に貴方は私の心中を慮って御心を悩ますでしょう。
貴方には貴方の世界がある。
その世界では、誰にも弁明も釈明も必要とせずに、言葉を交わさずとも阿吽の呼吸で物事が通って、態々言葉を選んで話すことも、忙しい合間を縫って時間を作らずとも済んでしまう。
そんな貴方に、果たして私は必要なのでしょうか。」
ああ、到頭言葉に出して言ってしまった。解ってしまった。私では、ハロルド様を幸せに出来ないと、気が付いてしまった。
今の今まで、貴族の娘に生まれて誰かに幸せにしてもらう事を疑わなかった。だから、最初の婚約を解消した時に、あれほど傷付いたのだ。幸せにしてくれる筈だったのに、貴方の愛は偽りだったのかと。
真っ白に顔の色を無くしたハロルドは、瞳の青さばかりが際立って見えた。
「ハロルド様。貴方は私の青春だったわ。離れてしまった時間も含めて、誰よりも貴方をお慕いしたわ。私の初恋で、私が初めて恋をして、貴方がいない世界なんて色がない世界だと思ったわ。
私は幼い私なりに、貴方を全力で愛していたの。」
「ヘンリエッタ、聞いても良いか。
何故、過去形で話している?」
ヘンリエッタが答えずにいるのをどう受け取ったのか、ハロルドは尚も問う。
「君は、君は変わってしまったのか。私を必要としない程に変わってしまったのか。」
「私は何も変わって...いえ、そうね。少なくとも修道院を終の棲家と思わないくらいには、図々しくなったかも。」
「それは、あの本を書いたからなのか?」
「ご存知なの?」
そういえば、『Hの悲劇』の出版された翌日に、ハロルドから薔薇の花束が贈られてきた。薔薇は深紅で、まるで臙脂を帯びた赤い布張り表紙を思わせた。
「君の事なら離れていても知っている。あの男も。」
「男?」
「学園の夜会であんなダンスを見せつけて、おまけに君を抱えて、クソっ、思い出すのも腹立たしい。今日も君をエスコートしていた子爵家の令息だ。」
汚い言葉を吐き捨てるハロルドを、ヘンリエッタは初めて知った。初めてばかりを見せてくるハロルドと向かい合っている。
「貴方とはご学友でいらっしゃるのかと。」
「確かに学生時代に面識はあった。それほど親しい訳じゃ無い。」
「ならご存知でしょう?マリーはそこいらの殿方とは違うのだと。」
「それは君が彼を特別な男だと言っているのか。」
「特別な男ではなくて、特別な人よ。たった一人きりの親友よ。そうして私に広い世界を開いてくれた大切なパートナーよ。それではご存知なのでしょう?私がM&M商会に出資したのも。」
「何?」
しまった、どうやらハロルドはそこまでは知らなかったらしい。
「えーと、私、貴方との婚約が解消されてから、ただの一つも縁談が無かったの。王族に侍る貴方との婚約が破談となって、私、とんでもない傷物令嬢になってしまったの。この先は学園も辞めて修道院で暮らそうかと、そこで小説でも書いてみようかなと思ったのが切っ掛けで、まあそれから色々あってマリーの立ち上げた商会の専属覆面小説家になったのです。ついでにドレス一着分を出資して共同経営者にも。名ばかりのへなちょこですけど。」
洗い浚い打ち明ければ、ハロルドは信じられないという風にヘンリエッタを凝視した。
「えーと、」
可怪しな空気になって来たぞ。それに、ハロルドの纏う雰囲気が変わってしまった。
ヘンリエッタは戸惑った。次に何を言って、どうすれば良いのか解らなくなった。
「彼を選ぶのか。」
「え?」
「私を捨てて、あの男を選ぶのか。」
「ハ、ハロルド様?」
「彼奴は駄目だ。君を幸せになんか出来やしない。彼奴は、アイツは、君を抱けない。女の歓びを教えてやれない、それでも君は「辞めて頂戴、マリーをそんな風に言わないで!そんな目で見ないで頂戴!」
ヘンリエッタは思わずソファから立ち上がった。それに釣られる様にハロルドも立ち上がる。
逃げちゃ駄目、だけれどこれ以上は話したくない。マルクスを冒涜する言葉を聞きたくない。
ローテーブルを挟んだまま、婚約を交わしている二人は一人の男の娘を巡って対峙する形となった。
「私なら貴方のお立場を理解出来ると、そうやって私を信用して下さる貴方は、遠い将来では、何も言わずとも解っているだろうと心の内で思うだけで、現実の私を、貴方の目の前の私を、その青い瞳に映しては下さらなくなるのでしょう。実際は、貴方に限ってそんな事は無いと思うわ。けれど、そうならないとも限らない。」
喉が渇く。エドワードの淹れてくれたお茶はもう既に無くなっていた。
「私は貴方が思う以上に普通の女なの。下らないお喋りが好きで週刊誌の物語に容易く傾倒して、ちっぽけな事でも構わない、あんな事があったこんな事があった、春が来たら暖かい、夏が来たら暑い、そんな当たり前の事を毎日誰かと語り合って、楽しい事も苦しい事も半分ずつに分け合うのが好きなのよ。
護ってもらうばかりでなくて、護りたいと思うの。そんな私を貴方はいつか持て余すわ。」
「ヘンリエッタ、君は何を言おうとしている。」
「貴方はそのうち、王城で気心の知れたお仲間と過ごす時間が心地良くなる。邪険とまでは言わずとも、何でも言葉で態度で示さねばならない私との暮らしに、いつか不自由な疲れを感じることになるでしょう。秘密裏に行動する事が常である貴方は、私に疑心を与えぬ様に不安にさせぬ様にと何があったかいちいち説明せねばならない暮らしに、いつしか辟易となることでしょう。
貴方の瞳に僅かでもそんな風に私を見る色が表れたら、私、きっと絶望するわ。貴方を婚姻で縛ったことを後悔するわ。私はそんな未来、望んでなんていないのよ。」
「ヘンリエッタ、違う。そうじゃない、そんな事は有り得ない。」
「ハロルド様。貴方は今ですらそんなに頬が削げるほど、私への釈明に胸を痛めておられる。私が傷付かない様に、要らぬ誤解を与えない様に。貴方のお仕事柄、秘して企てる物事は日常の様に起こるのに、その度に貴方は私の心中を慮って御心を悩ますでしょう。
貴方には貴方の世界がある。
その世界では、誰にも弁明も釈明も必要とせずに、言葉を交わさずとも阿吽の呼吸で物事が通って、態々言葉を選んで話すことも、忙しい合間を縫って時間を作らずとも済んでしまう。
そんな貴方に、果たして私は必要なのでしょうか。」
ああ、到頭言葉に出して言ってしまった。解ってしまった。私では、ハロルド様を幸せに出来ないと、気が付いてしまった。
今の今まで、貴族の娘に生まれて誰かに幸せにしてもらう事を疑わなかった。だから、最初の婚約を解消した時に、あれほど傷付いたのだ。幸せにしてくれる筈だったのに、貴方の愛は偽りだったのかと。
真っ白に顔の色を無くしたハロルドは、瞳の青さばかりが際立って見えた。
「ハロルド様。貴方は私の青春だったわ。離れてしまった時間も含めて、誰よりも貴方をお慕いしたわ。私の初恋で、私が初めて恋をして、貴方がいない世界なんて色がない世界だと思ったわ。
私は幼い私なりに、貴方を全力で愛していたの。」
「ヘンリエッタ、聞いても良いか。
何故、過去形で話している?」
ヘンリエッタが答えずにいるのをどう受け取ったのか、ハロルドは尚も問う。
「君は、君は変わってしまったのか。私を必要としない程に変わってしまったのか。」
「私は何も変わって...いえ、そうね。少なくとも修道院を終の棲家と思わないくらいには、図々しくなったかも。」
「それは、あの本を書いたからなのか?」
「ご存知なの?」
そういえば、『Hの悲劇』の出版された翌日に、ハロルドから薔薇の花束が贈られてきた。薔薇は深紅で、まるで臙脂を帯びた赤い布張り表紙を思わせた。
「君の事なら離れていても知っている。あの男も。」
「男?」
「学園の夜会であんなダンスを見せつけて、おまけに君を抱えて、クソっ、思い出すのも腹立たしい。今日も君をエスコートしていた子爵家の令息だ。」
汚い言葉を吐き捨てるハロルドを、ヘンリエッタは初めて知った。初めてばかりを見せてくるハロルドと向かい合っている。
「貴方とはご学友でいらっしゃるのかと。」
「確かに学生時代に面識はあった。それほど親しい訳じゃ無い。」
「ならご存知でしょう?マリーはそこいらの殿方とは違うのだと。」
「それは君が彼を特別な男だと言っているのか。」
「特別な男ではなくて、特別な人よ。たった一人きりの親友よ。そうして私に広い世界を開いてくれた大切なパートナーよ。それではご存知なのでしょう?私がM&M商会に出資したのも。」
「何?」
しまった、どうやらハロルドはそこまでは知らなかったらしい。
「えーと、私、貴方との婚約が解消されてから、ただの一つも縁談が無かったの。王族に侍る貴方との婚約が破談となって、私、とんでもない傷物令嬢になってしまったの。この先は学園も辞めて修道院で暮らそうかと、そこで小説でも書いてみようかなと思ったのが切っ掛けで、まあそれから色々あってマリーの立ち上げた商会の専属覆面小説家になったのです。ついでにドレス一着分を出資して共同経営者にも。名ばかりのへなちょこですけど。」
洗い浚い打ち明ければ、ハロルドは信じられないという風にヘンリエッタを凝視した。
「えーと、」
可怪しな空気になって来たぞ。それに、ハロルドの纏う雰囲気が変わってしまった。
ヘンリエッタは戸惑った。次に何を言って、どうすれば良いのか解らなくなった。
「彼を選ぶのか。」
「え?」
「私を捨てて、あの男を選ぶのか。」
「ハ、ハロルド様?」
「彼奴は駄目だ。君を幸せになんか出来やしない。彼奴は、アイツは、君を抱けない。女の歓びを教えてやれない、それでも君は「辞めて頂戴、マリーをそんな風に言わないで!そんな目で見ないで頂戴!」
ヘンリエッタは思わずソファから立ち上がった。それに釣られる様にハロルドも立ち上がる。
逃げちゃ駄目、だけれどこれ以上は話したくない。マルクスを冒涜する言葉を聞きたくない。
ローテーブルを挟んだまま、婚約を交わしている二人は一人の男の娘を巡って対峙する形となった。
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