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「ヘンリエッタ」
エドワードの淹れてくれたお茶は、冷めても香りを失わず美味であった。カップに残ったお茶を飲む内に、昂った感情が静かに治まって来る。漸く会えた恋人と、諍いたい訳では無い。
目の前の恋人は、折角の美丈夫であるのにすっかり頬に影が射して、目元には薄っすら隈まで見えている。きっと幾日もまともに眠っていないのだろう。
それなのに、可哀想に王子に仕えている為に、道理を逸脱せねばならない事で婚約者を傷付けてしまったと、意気消沈して自分で自分を責めている。
「何もかも私が悪い。殿下も王女も関係無い。手段は幾らでもあった筈なのに、私は一度ならず二度までも同じ轍を踏んで君を傷付けた。
夜会に、君をエスコートしたいと自ら願っていながら、私はそれを反故にして君を迎えに行かなかった。その連絡すらしなかった。確かにエレノア王女の手の者が、私と君の身辺を嗅ぎ回っていたが、せめて君には迎えに行けないと伝える位は出来たんだ。
ロバート殿下はその役を引き受けるおつもりでいらした。だが、私がお断りした。
聡明な君なら王城で何か起こっているのだと、そうきっと理解してくれる。この期に及んで浅はかにもそう思って君が賢明である事を頼りにした。
正直に言うよ。喩えロバート殿下だとしても、君の周りに男性を関わらせたく無かった。陰で君が孤独でいるのを知りながらだ。私は狭量な男なんだ。
君と婚約を結んでから王女の付き纏いが激しさを増して、カトレア王女に差し替えられると危ぶんだエレノア王女が、私との婚姻を望み始めたのだと理解した。
結果、王女の瑕疵の証拠になろうと、ほぼ一日中彼女に貼り付けられる事となった。そんなところで文を書くは憚られた。」
「苦しかったのね、ハロルド様。」
膝の上に置いた拳を握りしめ俯くハロルドの姿は、司祭に向かって告解をする様であった。告白の部屋で神の赦しを得る為に懺悔して、ヘンリエッタへ心の内を曝け出している。赦してほしいと詫びている。
「仕方が無いわ。貴方はそうお育ちになったのですもの。」
彼は生まれた時から王家に仕える身であった。そう云う風に育てられ、ハロルドの判断基準とは政が中心にあった。そうでなければ王族に侍る事は許されない。
「ヘンリエッタ。そうではないんだ。私はそこまで高尚な人間では無い。」
面を上げたハロルドに、こんな顔も初めて見るとヘンリエッタは思った。額に掛かる乱れ髪を、そっと直してあげたいと手を伸ばしたくなるのを堪える。
「ハロルド様。貴方が私に心の内をお話し下さったのですもの、少しだけ、私の話しにお付き合いして下さる?」
昂ぶる感情が鎮まれば、話したい事の道筋が見えて来る。ヘンリエッタは気付いてしまった。それを今から打ち明けねばならない。
「あの日。貴方が私に耳飾りを手ずから着けて下さって、私に婚約を申し込んで下さったあの日。
放課後に学園まで迎えに来て下さって、貴方ったら、御者が開く前にご自分で扉を開けちゃって、ステップをぴょんと飛び越えて、まるで物語の勇者の様にすたっと音がしそうな勢いで私の前に降り立ったのよ。憶えてる?」
そう問えば、
「そんな事、したかな?」
ハロルドは憶えてはいない様だった。
「貴方はいつでも私の先を歩く大人の男性だったわ。だから、そんなやんちゃな真似をする貴方を初めて見て私の胸は躍ったの。これから、もっと貴方の初めてを見てみたい。初めて見る貴方を、もっともっと知りたい。誰よりも一番側にいて、隣りで貴方の横顔を見ていたい。そう思ったの。」
ハロルドの青い瞳が潤んで燦いて見える。ヘンリエッタの胸の内で涙を零す恋心と同じ姿に思えた。
「私、貴方に恋してたわ。何度も何度も恋をした。諦めても諦めても後から後から貴方が好きだと心が言って追っ掛けてくるの。
貴方を思う恋心は消せない火種の様だった。僅かでも息を吹き掛ければいつでも炎を甦らせた。その火種を消し去ることが無理なのだと解って、もう見て見ぬふりをするのが無理だと解って、私は自分の気持ちを認めたわ。
その途端、貴方は雲か霞の様に消えて居なくなってしまったけれど。」
ヘンリエッタは、ひと言ひと言に想いを乗せて、大切に言葉を選んで語りかける。
「貴方の姿が見えなくなっても、私の耳に貴方の瞳と同じ石を飾ってくれた手の温もりを憶えていたから、あの日、婚約を申し込まれたのは夢では無いと解ったわ。
だから貴方の周囲で何が起こっていても、いつか貴方が私の元へ帰って来ると思えたの。きっとこれからも、私は貴方が余所に心を移さないお方だと信じられる。
けれど、それは私の側の気持ちだわ。」
真っ直ぐ射抜く様なハロルドの瞳を見つめれば、先を話してくれとその眼差しが語って見えた。
「貴方は、私が貴方のそういうお立場を理解する事をきっと信頼して下さるわ。そうして、初めは私の心中を察して案じて下さるでしょう。歩み寄って、足りない距離も埋めようと努めて下さる筈よ。貴方はそう云うお方だもの。けれど長い月日の内に、いつか私の貴方への理解を当たり前の事と思うでしょう。言わずとも解ってくれるだろうと信頼して下さるお気持ちは、何れそれが当たり前になって、そうして段々と大切な事を言葉にも態度にも表さなくなる。表さなくとも心が通じているのだと信じて下さる。」
「待ってくれ、ヘンリエッタ。君は今、何を言ってる?」
ハロルドの問い掛けに、ヘンリエッタは答えぬまま、その先の言葉を続けた。
エドワードの淹れてくれたお茶は、冷めても香りを失わず美味であった。カップに残ったお茶を飲む内に、昂った感情が静かに治まって来る。漸く会えた恋人と、諍いたい訳では無い。
目の前の恋人は、折角の美丈夫であるのにすっかり頬に影が射して、目元には薄っすら隈まで見えている。きっと幾日もまともに眠っていないのだろう。
それなのに、可哀想に王子に仕えている為に、道理を逸脱せねばならない事で婚約者を傷付けてしまったと、意気消沈して自分で自分を責めている。
「何もかも私が悪い。殿下も王女も関係無い。手段は幾らでもあった筈なのに、私は一度ならず二度までも同じ轍を踏んで君を傷付けた。
夜会に、君をエスコートしたいと自ら願っていながら、私はそれを反故にして君を迎えに行かなかった。その連絡すらしなかった。確かにエレノア王女の手の者が、私と君の身辺を嗅ぎ回っていたが、せめて君には迎えに行けないと伝える位は出来たんだ。
ロバート殿下はその役を引き受けるおつもりでいらした。だが、私がお断りした。
聡明な君なら王城で何か起こっているのだと、そうきっと理解してくれる。この期に及んで浅はかにもそう思って君が賢明である事を頼りにした。
正直に言うよ。喩えロバート殿下だとしても、君の周りに男性を関わらせたく無かった。陰で君が孤独でいるのを知りながらだ。私は狭量な男なんだ。
君と婚約を結んでから王女の付き纏いが激しさを増して、カトレア王女に差し替えられると危ぶんだエレノア王女が、私との婚姻を望み始めたのだと理解した。
結果、王女の瑕疵の証拠になろうと、ほぼ一日中彼女に貼り付けられる事となった。そんなところで文を書くは憚られた。」
「苦しかったのね、ハロルド様。」
膝の上に置いた拳を握りしめ俯くハロルドの姿は、司祭に向かって告解をする様であった。告白の部屋で神の赦しを得る為に懺悔して、ヘンリエッタへ心の内を曝け出している。赦してほしいと詫びている。
「仕方が無いわ。貴方はそうお育ちになったのですもの。」
彼は生まれた時から王家に仕える身であった。そう云う風に育てられ、ハロルドの判断基準とは政が中心にあった。そうでなければ王族に侍る事は許されない。
「ヘンリエッタ。そうではないんだ。私はそこまで高尚な人間では無い。」
面を上げたハロルドに、こんな顔も初めて見るとヘンリエッタは思った。額に掛かる乱れ髪を、そっと直してあげたいと手を伸ばしたくなるのを堪える。
「ハロルド様。貴方が私に心の内をお話し下さったのですもの、少しだけ、私の話しにお付き合いして下さる?」
昂ぶる感情が鎮まれば、話したい事の道筋が見えて来る。ヘンリエッタは気付いてしまった。それを今から打ち明けねばならない。
「あの日。貴方が私に耳飾りを手ずから着けて下さって、私に婚約を申し込んで下さったあの日。
放課後に学園まで迎えに来て下さって、貴方ったら、御者が開く前にご自分で扉を開けちゃって、ステップをぴょんと飛び越えて、まるで物語の勇者の様にすたっと音がしそうな勢いで私の前に降り立ったのよ。憶えてる?」
そう問えば、
「そんな事、したかな?」
ハロルドは憶えてはいない様だった。
「貴方はいつでも私の先を歩く大人の男性だったわ。だから、そんなやんちゃな真似をする貴方を初めて見て私の胸は躍ったの。これから、もっと貴方の初めてを見てみたい。初めて見る貴方を、もっともっと知りたい。誰よりも一番側にいて、隣りで貴方の横顔を見ていたい。そう思ったの。」
ハロルドの青い瞳が潤んで燦いて見える。ヘンリエッタの胸の内で涙を零す恋心と同じ姿に思えた。
「私、貴方に恋してたわ。何度も何度も恋をした。諦めても諦めても後から後から貴方が好きだと心が言って追っ掛けてくるの。
貴方を思う恋心は消せない火種の様だった。僅かでも息を吹き掛ければいつでも炎を甦らせた。その火種を消し去ることが無理なのだと解って、もう見て見ぬふりをするのが無理だと解って、私は自分の気持ちを認めたわ。
その途端、貴方は雲か霞の様に消えて居なくなってしまったけれど。」
ヘンリエッタは、ひと言ひと言に想いを乗せて、大切に言葉を選んで語りかける。
「貴方の姿が見えなくなっても、私の耳に貴方の瞳と同じ石を飾ってくれた手の温もりを憶えていたから、あの日、婚約を申し込まれたのは夢では無いと解ったわ。
だから貴方の周囲で何が起こっていても、いつか貴方が私の元へ帰って来ると思えたの。きっとこれからも、私は貴方が余所に心を移さないお方だと信じられる。
けれど、それは私の側の気持ちだわ。」
真っ直ぐ射抜く様なハロルドの瞳を見つめれば、先を話してくれとその眼差しが語って見えた。
「貴方は、私が貴方のそういうお立場を理解する事をきっと信頼して下さるわ。そうして、初めは私の心中を察して案じて下さるでしょう。歩み寄って、足りない距離も埋めようと努めて下さる筈よ。貴方はそう云うお方だもの。けれど長い月日の内に、いつか私の貴方への理解を当たり前の事と思うでしょう。言わずとも解ってくれるだろうと信頼して下さるお気持ちは、何れそれが当たり前になって、そうして段々と大切な事を言葉にも態度にも表さなくなる。表さなくとも心が通じているのだと信じて下さる。」
「待ってくれ、ヘンリエッタ。君は今、何を言ってる?」
ハロルドの問い掛けに、ヘンリエッタは答えぬまま、その先の言葉を続けた。
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