ヘンリエッタの再婚約

桃井すもも

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学園は冬季の休みを迎えていた。
貴族のご令嬢に友人のいないヘンリエッタは、お茶会に誘われる事も招く事も無かったから、持てる時間の全てを執筆に充てるのであった。

処女作『Hの悲劇』は、結果から言えば大成功であった。
少ない部数から始めた販売は、増版に増版を重ねて、マルクスが言うところでは印刷所は人を次々雇い入れて夜を徹して操業しているのだと言う。

人の不幸は密の味。貴族令嬢の悲恋は垂涎の欲を齎す。
物語は始終影を纏った哀しみのストーリーで、華やかな貴族の世界に押し潰される非力な令嬢の姿に、ある者は涙を落とし、ある者は憤り、それは女性ばかりか殿方の心にも響いた様で、丁度聖夜を迎える時節も人気の背を押して、誠意とは何ぞや、許すまじ不実、なんて、自称「誠意大将軍」といったちょっと方向性の異なる輩も見受けられたが、まあ良いだろう。ヒットはヒットだ。

物語自体はアンハッピーエンドである。
ヒロインは、初恋の婚約者に二度も裏切りの憂き目に遭って、最終的には修道院へ移り住み、その花の咲き切らぬ若い身空を神の下部しもべとなって捧げるのだ。物語のヒロインは、商魂逞しくハンカチに刺繍をしまくってバザーで売りさばこうだなんて考えない。

静謐の中に身を置いて、誰を責めること無く神との対話に心を傾けて生きていく。
その潔くも清々しい姿と対比されるのが、不実な元婚約者と並んで王族のカップルで、他国から輿入れしてくる王子の妃は不人気No.3から下る事が無い。因みにNo.1は、不誠実を貫き通した元婚約者である。

熱狂的な人気と平行して、『令嬢H』についても様々な憶測が流れて、あれは噂の伯爵令嬢ではあるまいか、確かに婚約者とは二度目の婚約を結んでいる。初めの婚約は、男の方が隣国王女に懸想した末に解消となった筈で、その姫とは今や第二王子の婚約者となっている。それが大方の噂の内容であるらしかった。

いやもうそれって100%身バレだろう。
流石のヘンリエッタもそう思うが、学園は休みであるし、ヘンリエッタは社交の場に現れないし、王都の貴族屋敷に住みながら仙人よりも引き籠っているのだから、世間の噂も全然気にならない。

そんなヘンリエッタを訪ねて来るなど、最早マルクス一人である。これから孤島へ旅立つのに、一つだけ持って行くのを許されるのだとしたら、ヘンリエッタは迷わずマルクスをトランクに詰め込むだろう。

マルクスと言えば、ヘンリエッタは一度、マルクスの生家であるマクルズ子爵家へ招かれた。
マルクスの立ち上げた商会の覆面共同経営者で専属作家でもあるヘンリエッタを、子爵家は両親兄達揃い踏みで出迎えてくれた。

次兄は出版業での提携を結んでいたし、子爵は元よりヘンリエッタへ興味津々であった。何より夫人の熱意が凄かった。彼女は『Hの悲劇』の熱狂的なファンであった。

下にも置かぬ歓待を受けて、男ばかりで娘に恵まれなかった夫人(マルクスはある意味女の子だけれど、そうじゃない、そうじゃあないのよとは夫人の談)には、いたく可愛がられる事となる。多感な時期を人の噂に晒されたヘンリエッタにとって、夫人の温かな人柄は、母ともまた違った温もりと年上の同性に甘えられる喜びを教えてくれた。


そんなこんなで、人生で初めての明るい心持ちで迎える冬を過ごしていた。

だがしかし。
そんなヘンリエッタに今年最後にして最大の難関が訪れる。
王家から夜会の招待を受けた。過去二年は不参加を貫いたが、学園の創立記念の夜会に参加していた事から、今回は断る理由が見つからない。

「もうこの金色の封蝋を見るだけで反射的に逃げ出したくなるのよね。」

今回は、母も父と一緒に参加をするし、ウィリアムは多分先回お誘いしたご令嬢にエスコートを申し込む筈である。

あれからひと月近くが過ぎていた。あれからとは、創立記念の夜会である。
ハロルドに追い掛けられて全力疾走で逃げ出して、途中からはマルクスに抱えられて逃げ仰せた。

あの日から、ハロルドとは会っていない。一度だけ花束が贈られて来た。真っ赤な薔薇の花束であった。『Hの悲劇』が発売された翌日であったのは偶然だろう。

ハロルドはどうするのだろう。この婚約はどうなるのだろう。
どちらも動かないからか、婚約は今も継続されている。二度目の婚約であるのに結んで直ぐに解消とは、流石に世間体が悪いのだろう。
互いに動かないから事態も動かないのをよいことに、ヘンリエッタは二作目の執筆に取り掛かっていた。


「揃いの衣装を作りましょう。」
「え?良いの?」

荷物を抱えたマルクスが邸を訪れたのは、そんな頃合いであった。

「私をエスコートしてくれるの?」
「当たり前じゃない。私達、パートナーなのよ。」

ヘンリエッタは胸の奥が熱くなる。『週刊貴婦人』によれば、こういうのを胸熱と言うらしい。

「嬉しいわ、マリー。実はどうしょうかと思っていたの。母の影になり切ってひっ付いて行こうかと、影になる練習をブリジットとしていたのよ。」

マルクスが可哀想なものを見る目でブリジットを見た。

「生地のサンプルを持って来たの。それからデザイン画も。」
「道理で大荷物だったわね。」
「M&M商会が世に出す商品になるのよ。ヘンリエッタ、気合い入れるわよ。」

マルクスの真剣な眼差しにヘンリエッタは首をぶんぶん縦に振った。

「色はね、コーラルピンクよ。」
「マリー、それはいけないわ。だって、」

コーラルピンクは、先の夜会、学園の創立記念の夜会にエレノア王女が身に着けていた色である。

「あんな心の下品な女より、貴女の方が百倍清廉な令嬢よ。それを見せつけてやるわ。」

見てらっしゃい!とマルクスは鼻息荒くするのであった。


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