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邸に戻れば母が出迎えてくれた。
玄関ホールまで送ってくれたマルクスと、母は二言三言言葉を交わして、それから「娘がお世話になったわね」とマルクスを労ってくれた。
母は今夜の夜会には出席しなかった。父が誰を伴ったのかは聞いていない。会場は人に溢れていたから、父ともウィリアムとも会わなかった。仮に愛人を伴ったのだとしたなら、それで母の立場に影響しない事を願った。
相手の不実から疵を負ったのを、人に悪様に噂されるのは自分だけで十分だと思った。そこまで考えて、いや、それはヘンリエッタが知らなかっただけで、母は婚姻当初から、父の不貞の為に噂話の矛先にされていたのではないかと思い至った。
つくづく男とは勝手なものである。
自身の行動が誰かに影響を及ぼすことを軽く見過ぎている。愛やら恋やらに惑わされるのは乙女か物語の登場人物だけだと思っていたが、現実の殿方こそ恋に盲目の筆頭だ。父も、ハロルドも、傷付いた母の気持ちもヘンリエッタの心も慮る事が出来ずにいる。
ヘンリエッタにおやすみの挨拶をして帰っていくマルクスを見送りながら、彼に確かな安堵を覚えてその後ろ姿を見詰めた。
その後、ヘンリエッタは小説の手直しを始めた。寝台に横になって瞼を閉じても眠れそうには無かった。
色々と騒々しい夜会であった。第二コンビに絡まれたり婚約者から追い掛けられたり。苦手なダンスも御婦人方との交流も、マルクスのお陰で切り抜けられた。
夜更けになっても目が冴えて、考えてしまうのは婚約者の事であった。ヘンリエッタの名を呼ぶ声が未だ耳に残っていた。
もうすぐ冬が来る。
部屋の中は肌寒さを覚える様になった。それでも指先が悴む程ではない。
ヘンリエッタは横になっていた寝台から起き上がり、ロングカーディガンを羽織った。そうしてランプに灯りを灯す。それから机に向かい、引き出しに仕舞っていた原稿を取り出した。
しんと音がしそうな真夜中の部屋に、紙を捲る音と時折カリカリとペンを走らせる音が響く。そうしていつかの様に時間の経過を忘れてしまって、結局、淡桃色に染まる空の明るさで、夜明けを迎えていたのだと気が付いた。
「またブリジットに叱られちゃうわ。」
ぎしぎしと凝り固まってしまった肩を擦ってから、両腕を頭上に上げてうんと背伸びをする。それから窓辺に歩み寄り、夜明けの空を眺めた。
街並み中、あちらこちらの屋根から煙が上がって見えるのは、早朝からパンを焼く竈の煙か。世間知らずのヘンリエッタには、市井の暮らしはよく解らないが、世の中にはこうして明け方から働く人々がいる。この邸にだって、裏方では使用人達がもう既に動き出している筈で、耳を澄ませば彼らの息遣いが聴こえる様な気がした。
新しく始まる朝の空は、終わってしまった夜を見事に脱ぎ捨てて清々しく美しかった。
とっ散らかって絡まってしまった思考も、こんな夜明けの空を眺めるなら、自ずと解けて行くような、そんな素直な気持ちになれた。
「見事だわ、ヘンリエッタ。貴女、運動はからきしだけれど文才は素晴らしいわね。行けるんじゃなくて?これ。」
「そ、そうかしら。」
えへへと思わず言ってしまいそうになりながら、ヘンリエッタはすっかり照れてしまった。
清書まで仕上げた原稿をマルクスに読んでもらった。
昨晩の事を気に掛けていたのか、マルクスは朝一番に先触れをくれて、ドレスを引き取る名目で昼過ぎには邸を訪れた。
陽当りの良いテラスからは庭園を眺める事が出来る。秋色に色を変えていた葉の殆どは落葉して、今は紅色の箒木が所々緑色を残していた。
ミルクと蜂蜜を垂らした紅茶を楽しんで、それからマルクスはヘンリエッタの書き上げた原稿に目を落とした。
一枚、一枚、読み進む。目線が原稿の紙面を追っているのが解る。読み終えて一枚捲り、次のページに目を通す。
どのくらいの時間が経ったのか、最初こそ落ち着かずそわそわしていたヘンリエッタも、冬を迎える直前の秋の名残りを見せる庭園を眺めて、いつの間にか時が止まった様な静かな時間を楽しんでいた。
「それは創作ではないもの。ただ私の身の上に起こったことを、少しだけ手を加えて物語に仕立てただけなの。」
「まあ、ストーリーだけを言えばそうなのでしょうけれど、表現が秀逸なのよ。行間に漂う品性が感じられるわ。書き手が良質な文学に触れて来たのが窺われる、そう云う文体なのよ。それにしても、そうそう有り得ない経験ばかりね。貴女、余程辛かったのでしょう。」
「辛かった...、そうね、そうかもね。」
「そうしてちゃんと乗り越えた。枯れた涙も戻ったし、やりたい事もちゃんと見つけた。素晴らしいじゃない。貴女ほど強い子はなかなか居ないわ。」
「ええ~、ほ、褒め過ぎよ。それに、マリー、貴女がいてくれたから、私、自分の進む路を見付けられたのよ。自分の人生の舵取りを自分がして良いのだと思えたの。それに私は恵まれているわ。生まれた家は私に我儘を許す財があって、母からは理解を得られている。傷持ちの私に無理な縁談も進めては来ないでしょう。これって、貴族の中でもとても恵まれている事だわ。」
頬を染めて照れながら話すヘンリエッタの言葉を、マルクスは目を細めて聞いてくれた。
「それで、題名は決めたのかしら。」
「ええ、『Hの悲劇』と。」
「ベタね。」
まあ、良いでしょう、とマルクスは頷いた。
「あとはペンネームが必要ね。真名を明かす訳にはいかないのだし。」
う~ん、と二人で暫し悩む。
そこで閃きという思いつきが浮かんで、ヘンリエッタはそのまま口に出してみる。
「マルガレーテ・M・ミッチェルなんてどうかしら。」
家名のMはヘンリエッタの矜持として入れてみたかった。
「M&Mね。良いわね、それで決まり。」
マルクスが手を伸ばしヘンリエッタに握手を求めた。そろりと手を伸ばせば力強く握られた。
そうしてマルクスは、
「誕生お目出度う、小説家マルガレーテ・М・ミッチェル。」
そう言って、女流小説家の誕生を祝ってくれた。
玄関ホールまで送ってくれたマルクスと、母は二言三言言葉を交わして、それから「娘がお世話になったわね」とマルクスを労ってくれた。
母は今夜の夜会には出席しなかった。父が誰を伴ったのかは聞いていない。会場は人に溢れていたから、父ともウィリアムとも会わなかった。仮に愛人を伴ったのだとしたなら、それで母の立場に影響しない事を願った。
相手の不実から疵を負ったのを、人に悪様に噂されるのは自分だけで十分だと思った。そこまで考えて、いや、それはヘンリエッタが知らなかっただけで、母は婚姻当初から、父の不貞の為に噂話の矛先にされていたのではないかと思い至った。
つくづく男とは勝手なものである。
自身の行動が誰かに影響を及ぼすことを軽く見過ぎている。愛やら恋やらに惑わされるのは乙女か物語の登場人物だけだと思っていたが、現実の殿方こそ恋に盲目の筆頭だ。父も、ハロルドも、傷付いた母の気持ちもヘンリエッタの心も慮る事が出来ずにいる。
ヘンリエッタにおやすみの挨拶をして帰っていくマルクスを見送りながら、彼に確かな安堵を覚えてその後ろ姿を見詰めた。
その後、ヘンリエッタは小説の手直しを始めた。寝台に横になって瞼を閉じても眠れそうには無かった。
色々と騒々しい夜会であった。第二コンビに絡まれたり婚約者から追い掛けられたり。苦手なダンスも御婦人方との交流も、マルクスのお陰で切り抜けられた。
夜更けになっても目が冴えて、考えてしまうのは婚約者の事であった。ヘンリエッタの名を呼ぶ声が未だ耳に残っていた。
もうすぐ冬が来る。
部屋の中は肌寒さを覚える様になった。それでも指先が悴む程ではない。
ヘンリエッタは横になっていた寝台から起き上がり、ロングカーディガンを羽織った。そうしてランプに灯りを灯す。それから机に向かい、引き出しに仕舞っていた原稿を取り出した。
しんと音がしそうな真夜中の部屋に、紙を捲る音と時折カリカリとペンを走らせる音が響く。そうしていつかの様に時間の経過を忘れてしまって、結局、淡桃色に染まる空の明るさで、夜明けを迎えていたのだと気が付いた。
「またブリジットに叱られちゃうわ。」
ぎしぎしと凝り固まってしまった肩を擦ってから、両腕を頭上に上げてうんと背伸びをする。それから窓辺に歩み寄り、夜明けの空を眺めた。
街並み中、あちらこちらの屋根から煙が上がって見えるのは、早朝からパンを焼く竈の煙か。世間知らずのヘンリエッタには、市井の暮らしはよく解らないが、世の中にはこうして明け方から働く人々がいる。この邸にだって、裏方では使用人達がもう既に動き出している筈で、耳を澄ませば彼らの息遣いが聴こえる様な気がした。
新しく始まる朝の空は、終わってしまった夜を見事に脱ぎ捨てて清々しく美しかった。
とっ散らかって絡まってしまった思考も、こんな夜明けの空を眺めるなら、自ずと解けて行くような、そんな素直な気持ちになれた。
「見事だわ、ヘンリエッタ。貴女、運動はからきしだけれど文才は素晴らしいわね。行けるんじゃなくて?これ。」
「そ、そうかしら。」
えへへと思わず言ってしまいそうになりながら、ヘンリエッタはすっかり照れてしまった。
清書まで仕上げた原稿をマルクスに読んでもらった。
昨晩の事を気に掛けていたのか、マルクスは朝一番に先触れをくれて、ドレスを引き取る名目で昼過ぎには邸を訪れた。
陽当りの良いテラスからは庭園を眺める事が出来る。秋色に色を変えていた葉の殆どは落葉して、今は紅色の箒木が所々緑色を残していた。
ミルクと蜂蜜を垂らした紅茶を楽しんで、それからマルクスはヘンリエッタの書き上げた原稿に目を落とした。
一枚、一枚、読み進む。目線が原稿の紙面を追っているのが解る。読み終えて一枚捲り、次のページに目を通す。
どのくらいの時間が経ったのか、最初こそ落ち着かずそわそわしていたヘンリエッタも、冬を迎える直前の秋の名残りを見せる庭園を眺めて、いつの間にか時が止まった様な静かな時間を楽しんでいた。
「それは創作ではないもの。ただ私の身の上に起こったことを、少しだけ手を加えて物語に仕立てただけなの。」
「まあ、ストーリーだけを言えばそうなのでしょうけれど、表現が秀逸なのよ。行間に漂う品性が感じられるわ。書き手が良質な文学に触れて来たのが窺われる、そう云う文体なのよ。それにしても、そうそう有り得ない経験ばかりね。貴女、余程辛かったのでしょう。」
「辛かった...、そうね、そうかもね。」
「そうしてちゃんと乗り越えた。枯れた涙も戻ったし、やりたい事もちゃんと見つけた。素晴らしいじゃない。貴女ほど強い子はなかなか居ないわ。」
「ええ~、ほ、褒め過ぎよ。それに、マリー、貴女がいてくれたから、私、自分の進む路を見付けられたのよ。自分の人生の舵取りを自分がして良いのだと思えたの。それに私は恵まれているわ。生まれた家は私に我儘を許す財があって、母からは理解を得られている。傷持ちの私に無理な縁談も進めては来ないでしょう。これって、貴族の中でもとても恵まれている事だわ。」
頬を染めて照れながら話すヘンリエッタの言葉を、マルクスは目を細めて聞いてくれた。
「それで、題名は決めたのかしら。」
「ええ、『Hの悲劇』と。」
「ベタね。」
まあ、良いでしょう、とマルクスは頷いた。
「あとはペンネームが必要ね。真名を明かす訳にはいかないのだし。」
う~ん、と二人で暫し悩む。
そこで閃きという思いつきが浮かんで、ヘンリエッタはそのまま口に出してみる。
「マルガレーテ・M・ミッチェルなんてどうかしら。」
家名のMはヘンリエッタの矜持として入れてみたかった。
「M&Mね。良いわね、それで決まり。」
マルクスが手を伸ばしヘンリエッタに握手を求めた。そろりと手を伸ばせば力強く握られた。
そうしてマルクスは、
「誕生お目出度う、小説家マルガレーテ・М・ミッチェル。」
そう言って、女流小説家の誕生を祝ってくれた。
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