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一日休んだくらいでは特に学園の雰囲気は変わることも無く、ただヘンリエッタの心持ちが、どんと来い状態で非常に前向きな思考であったから、休んだ後の学園は寧ろ過ごしやすく思う程であった。
週末の金曜日に愈々創立記念式典を控えて、学園内はぴりりと引き締まった空気と夜会を前にして浮つく空気とが入り混じって、そわそわと落ち着かない雰囲気が漂っていた。
そんな中で一人や二人学園を休んだところで、誰も憶えていないのである。
ただ、ロバート殿下から「大丈夫だった?」と声を掛けられたのに「大丈夫です」と答えたくらいで、後は特別な事は何も起こらなかった。
小説を書こうと思い立ってから、日常の中にこそ事件はあるのだとばかりに身構えていたのが、よくよく考えて見れば、そんなに毎日事件だらけな筈などあるわけ無い。
今日を平和に過ごせたことを感謝すべきで、荒事なんて起こっては困るのである。
なんにも起こらない三日を過ごした。
何も起こらない。それは、ハロルドからの文が一切届かない事でもあった。文も花も勿論ハロルド本人も、ヘンリエッタの前に姿を現す事は無かった。
記念式典の後に催される夜会。
エスコートを申し込んで来たのは、確かハロルドの方では無かったか。あれはヘンリエッタの思い違いだったのではないかと、記憶を辿ってみたりした。
サファイアの耳飾りを贈られた。
再びの婚約を申し込まれた。
ヘンリエッタがそれを受け入れて、両家が合意して、えーと、確かに婚約誓約書にサインを書いた。書いたよね。
婚約が成立した翌日から、ハロルドとは音信不通となっている。それを母は不審に思う様に見えたから、やっぱり間違いないよね、私達、婚約したのよねと思い返した。
到頭明日は式典と夜会の日と言う前日の夕刻、ヘンリエッタは考えを改めた。
ヘンリエッタは、固く閉じた心を開いてハロルドに示したつもりである。例えばハロルドの言葉に偽りがあったとして、それはハロルドの問題でヘンリエッタ自身は誠実に真剣に向き合った。
それで良いじゃないか。
裏切られても後悔しないと心に決めて、喩えハロルドに心変わりがあったとしても、もう修道院にも逃げ込まないし、瞼が開かないほど泣き濡れる事も無い。
三日は泣いちゃうかな。多分、三日泣いたら立ち上がれる。食事を摂って身を清めて、新たな心持ちになったなら、ペンを持とう。ペンを持って原稿用紙に向き合って、ヘンリエッタのこれから続く人生の、ほんの僅かな1ページを記そう。
だからヘンリエッタの心の中には、既に別れの準備が出来ていた。
多分、結んだばかりの再婚約は最速で解消されるだろう。母はもしかしたらハロルドに責のある破棄を望むかも知れない。そこは両親に任せよう。
何があったのかは解らない。きっと何か大事な事があったのだろう。それをハロルドも、ダウンゼン伯爵家もヘンリエッタに伝える意志が無いのだろう。
傷物令嬢のレッテルは既に貼られた事だし、この先にヘンリエッタを望む縁談なんて有る筈もない。
ほんの少し前のヘンリエッタであったなら、自身の身上とハロルドの内心に、頭の中をいっぱいにして悩んだのだろう。
今、ヘンリエッタの手元には、サファイアの耳飾りだけが誠実な愛の証として残った。
ヘンリエッタの耳に手ずから耳飾りを嵌めてくれたハロルド。あの瞬間は、嘘偽りなく彼はヘンリエッタを望んでくれた。
あの笑みを心に仕舞い込んだら、恨み節に思い出を汚す事だけはするまいと、ヘンリエッタは思うのだった。
夜会のエスコートも反故にされた。母が何も言わないのは、きっとダウンゼン伯爵家にどうなっているのかを尋ねた結果、思わしくない返答を受けたのだろう。
それが全てなのだ。
「やめやめ、思考のどツボに嵌まってしまうわ。」
自室で晩餐を待つ間、うっかり後ろ向きになりかけてヘンリエッタはそれをぶった斬った。
「初めから、何があっても悔やまないと決めたのは私自身よ。それに、」
それに、夜会にはマルクスがエスコートを請け負ってくれた。
マルクスが、ヘンリエッタをM&Mの覆面共同経営者に迎え入れてくれたから、この先の波瀾も万丈も波乗りの様に向き合える。
ロイヤルブルーのドレスはマルクスの色でもある。金色の髪に青い瞳のマルクスを思い浮かべて、彼と揃いの色合いで並ぶことを考えて、塞ぎかけた心が持ち上がる。
「エスコートはウィリアムでなくて良いのね?」
「ええ、大丈夫です、お母様。マリーが迎えに来てくれますから。」
「そう。」
朝餉の席で母が確認するのを、父は無言でいた。ウィリアムはマルクスとの一件を知っているから、男の娘のマルクスが一体どんなエスコートをするのだろうと考えているらしい。
二年ぶりの夜会の朝は、結局ハロルドの度重なる不実で幕を開けた。ハロルドは二年前と変わらず不実を貫くらしい。
けれどもヘンリエッタは二年前とは違っている。胸を張って、マルクスと共に新たな一歩を踏み出す。
今宵の夜会はM&M商会のドレス第一号のお披露目の場となる。ヘンリエッタにとっての、ビジネスの世界に足を踏み入れる最初の一歩である。マルクスと云う太陽に向き合って、ハロルドと云う影を背にしよう。
学園まで通う馬車にいて、ヘンリエッタは今日の事を大切に憶えていようと思った。
哀しい記憶はマルクスと未来の展望を語り合って塗り潰そう。そう思えるのだった。
週末の金曜日に愈々創立記念式典を控えて、学園内はぴりりと引き締まった空気と夜会を前にして浮つく空気とが入り混じって、そわそわと落ち着かない雰囲気が漂っていた。
そんな中で一人や二人学園を休んだところで、誰も憶えていないのである。
ただ、ロバート殿下から「大丈夫だった?」と声を掛けられたのに「大丈夫です」と答えたくらいで、後は特別な事は何も起こらなかった。
小説を書こうと思い立ってから、日常の中にこそ事件はあるのだとばかりに身構えていたのが、よくよく考えて見れば、そんなに毎日事件だらけな筈などあるわけ無い。
今日を平和に過ごせたことを感謝すべきで、荒事なんて起こっては困るのである。
なんにも起こらない三日を過ごした。
何も起こらない。それは、ハロルドからの文が一切届かない事でもあった。文も花も勿論ハロルド本人も、ヘンリエッタの前に姿を現す事は無かった。
記念式典の後に催される夜会。
エスコートを申し込んで来たのは、確かハロルドの方では無かったか。あれはヘンリエッタの思い違いだったのではないかと、記憶を辿ってみたりした。
サファイアの耳飾りを贈られた。
再びの婚約を申し込まれた。
ヘンリエッタがそれを受け入れて、両家が合意して、えーと、確かに婚約誓約書にサインを書いた。書いたよね。
婚約が成立した翌日から、ハロルドとは音信不通となっている。それを母は不審に思う様に見えたから、やっぱり間違いないよね、私達、婚約したのよねと思い返した。
到頭明日は式典と夜会の日と言う前日の夕刻、ヘンリエッタは考えを改めた。
ヘンリエッタは、固く閉じた心を開いてハロルドに示したつもりである。例えばハロルドの言葉に偽りがあったとして、それはハロルドの問題でヘンリエッタ自身は誠実に真剣に向き合った。
それで良いじゃないか。
裏切られても後悔しないと心に決めて、喩えハロルドに心変わりがあったとしても、もう修道院にも逃げ込まないし、瞼が開かないほど泣き濡れる事も無い。
三日は泣いちゃうかな。多分、三日泣いたら立ち上がれる。食事を摂って身を清めて、新たな心持ちになったなら、ペンを持とう。ペンを持って原稿用紙に向き合って、ヘンリエッタのこれから続く人生の、ほんの僅かな1ページを記そう。
だからヘンリエッタの心の中には、既に別れの準備が出来ていた。
多分、結んだばかりの再婚約は最速で解消されるだろう。母はもしかしたらハロルドに責のある破棄を望むかも知れない。そこは両親に任せよう。
何があったのかは解らない。きっと何か大事な事があったのだろう。それをハロルドも、ダウンゼン伯爵家もヘンリエッタに伝える意志が無いのだろう。
傷物令嬢のレッテルは既に貼られた事だし、この先にヘンリエッタを望む縁談なんて有る筈もない。
ほんの少し前のヘンリエッタであったなら、自身の身上とハロルドの内心に、頭の中をいっぱいにして悩んだのだろう。
今、ヘンリエッタの手元には、サファイアの耳飾りだけが誠実な愛の証として残った。
ヘンリエッタの耳に手ずから耳飾りを嵌めてくれたハロルド。あの瞬間は、嘘偽りなく彼はヘンリエッタを望んでくれた。
あの笑みを心に仕舞い込んだら、恨み節に思い出を汚す事だけはするまいと、ヘンリエッタは思うのだった。
夜会のエスコートも反故にされた。母が何も言わないのは、きっとダウンゼン伯爵家にどうなっているのかを尋ねた結果、思わしくない返答を受けたのだろう。
それが全てなのだ。
「やめやめ、思考のどツボに嵌まってしまうわ。」
自室で晩餐を待つ間、うっかり後ろ向きになりかけてヘンリエッタはそれをぶった斬った。
「初めから、何があっても悔やまないと決めたのは私自身よ。それに、」
それに、夜会にはマルクスがエスコートを請け負ってくれた。
マルクスが、ヘンリエッタをM&Mの覆面共同経営者に迎え入れてくれたから、この先の波瀾も万丈も波乗りの様に向き合える。
ロイヤルブルーのドレスはマルクスの色でもある。金色の髪に青い瞳のマルクスを思い浮かべて、彼と揃いの色合いで並ぶことを考えて、塞ぎかけた心が持ち上がる。
「エスコートはウィリアムでなくて良いのね?」
「ええ、大丈夫です、お母様。マリーが迎えに来てくれますから。」
「そう。」
朝餉の席で母が確認するのを、父は無言でいた。ウィリアムはマルクスとの一件を知っているから、男の娘のマルクスが一体どんなエスコートをするのだろうと考えているらしい。
二年ぶりの夜会の朝は、結局ハロルドの度重なる不実で幕を開けた。ハロルドは二年前と変わらず不実を貫くらしい。
けれどもヘンリエッタは二年前とは違っている。胸を張って、マルクスと共に新たな一歩を踏み出す。
今宵の夜会はM&M商会のドレス第一号のお披露目の場となる。ヘンリエッタにとっての、ビジネスの世界に足を踏み入れる最初の一歩である。マルクスと云う太陽に向き合って、ハロルドと云う影を背にしよう。
学園まで通う馬車にいて、ヘンリエッタは今日の事を大切に憶えていようと思った。
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