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ハロルドからの文は、母から手渡された。
邸に戻り自室で着替えを済ませた頃合いで、母が部屋まで文を携えて訪ねて来た。
このところ、度々先触れの文を受け取るようになっていたから、封書を見ただけで、それがハロルドからのものであるのが解った。
「ヘンリエッタ。色々突き詰めたい物事はあるでしょう。当然よね。貴女はこれまで頑張ってきたのですもの。けれど、ヘンリエッタ。素直になる頃合いを見逃してはいけないわ。心の内を打ち明けるタイミングを逃しては、大切なものもすり抜けてしまうわ。後から追い掛けた時には、もう手の届かない所へ飛んで行ってしまうのよ。貴女には、そんな後悔をして欲しくはないの。自分の気持ちに正直になったからと、それで誰も貴女を責めたりしない。貴女には、私の様になって欲しくは無いのよ。」
そう言って、母はヘンリエッタに文を手渡した。
「お母様、」
「きっと素敵なドレスが仕上がるわ。楽しみね。貴女にはロイヤルブルーが良く似合うから、ハロルド様もきっとお喜びになるのではないかしら。」
そう言って、文を受け取ったヘンリエッタの手を優しく擦ってくれた。
「お母様は後悔なさっている事がお有りなの?」
「一つも後悔の無い人なんていないでしょう。だけど、そんなものはしないに越したことは無いわ。貴女方は未だ間に合う。案ずるより産むが易しと言うでしょう?考えても上手く行かない時には、心の赴くままに生きてみるのも新鮮で良いものよ。」
それから母は、両の手でヘンリエッタの頬を包んだ。ヘンリエッタよりも鮮やかな色合いの瞳にはヘンリエッタが映っている。
「貴女はこれから幸せになるの。何も心配要らないわ。ハロルド様を僅かでも信じる気持ちがあるのなら、とことん信じてみてはどうかしら?駄目なら捨てておやりなさい。もう貴女は、それ位の気概は持ち合わせているのだから。」
「ええ。お母様。駄目なら捨ててやるわ。」
「その意気よ。」
ハロルドの全然知らないところで、何故かハロルドはダメダメな人として捨てられちゃう選択肢が増えていた。
文には、学園の記念式典での夜会にエスコートをさせてくれないかと書かれていた。
ハロルドはエドワード殿下の側近であるから、夜会の日もエドワードの側に侍るのだろうと思っていた。そこまで考えて、自分がハロルドから正式な誘いを受けていない事への言い訳を探していたのだと気が付いた。
母に言われた言葉をなぞってみれば、答えはすんなり見付かった。
ハロルドへの思慕は、この胸の内に今も火種のまま燃えている。なるべく炎とならない様に燃え上がってしまわない様に、鎮まれ鎮まれと宥めて来た。
たった一つの恋をして、それが壊れたからと、そんな事は誰の身にも一度は起こる事だろう。国を跨いだ抗い難い壁に遮られて、つい萎縮してしまったが、それだって、また誰かに恋をしたのなら過去の事だと前に進む事も出来たろう。
今も心を他所に移せずいるのは、結局自分は今もハロルドが好きなのだ。
駄目なら捨ててしまおう。再びハロルドがヘンリエッタの恋心に疵を付ける様な事が起こったら、思いっ切り遠くへ放って投げ捨ててやろう。そうしてハロルドを投擲した後は、胸を張って心の赴くままに新しい世界に踏み出そう。
すっかりハロルドを放り投げる覚悟が決まって、ハロルドが聞いたなら心外だと言いそうな想像までしてから、ヘンリエッタは返事を書いた。
貴方の瞳の色をドレスにしました。だから、貴方にエスコートをお願いしたのです。
そう返事の文を出した翌日に、ハロルドは夕暮れの学園に現れた。
迎えの時間に学園の校門へ向えば、馬車止まりには最近見慣れた馬車が停まっていた。
馬車を目にしただけで胸が高鳴る。
中に誰が乗っているのかが解っているから尚の事、とくとくと胸が躍るのを、ヘンリエッタはもう浅ましい性だとは思わなかった。
母の言葉には、自身への後悔が窺えた。何を後悔したのかは解らないが、多分、父との関わりだろう。
娘の目から見ても、貴族婦人として父の妻として、母はとても上手に生きてきた。その母がヘンリエッタにエールを贈ってくれている。進め、進め、信じて進めと言っている。
だからヘンリエッタは、立ち止まる事なく馬車へと歩みを進めた。
御者が開く前に内側から扉が開かれて、ステップをぴょんと飛び越え、まるで物語の勇者の様に、すたっと音がしそうな勢いでヘンリエッタの前に降り立つ。
こんなやんちゃな事をするハロルドを初めて見た。これから、もっとこの人の初めてを見てみたい。初めて知るハロルドを、もっともっと見てみたい。誰よりも一番側にいて、彼の横顔を見ていたい。
御免なさい、ハロルド様。私、貴方が知る柔らかで純粋なヘンリエッタではなくなってしまったの。
貴方がダメダメだと思ったら、この恋心と一緒に貴方を遠くに放り投げちゃうわ。覚悟なさってね。
ハロルドが目を細めた。
きっとヘンリエッタも同じ様な顔をしている筈だ。
ヘンリエッタの手から鞄を受け取って、
「迎えに来たよ。」
何故か、どうしてかの一言も無く、まるで当たり前の様な顔でハロルドは言った。
何処へ連れて行かれるのかも解らぬまま、ハロルドとこのまま世界の果てまで旅に出るのもきっと楽しい事に違いない。
そんな有り得ない事を思うことすら胸を躍らせ楽しくなった。
邸に戻り自室で着替えを済ませた頃合いで、母が部屋まで文を携えて訪ねて来た。
このところ、度々先触れの文を受け取るようになっていたから、封書を見ただけで、それがハロルドからのものであるのが解った。
「ヘンリエッタ。色々突き詰めたい物事はあるでしょう。当然よね。貴女はこれまで頑張ってきたのですもの。けれど、ヘンリエッタ。素直になる頃合いを見逃してはいけないわ。心の内を打ち明けるタイミングを逃しては、大切なものもすり抜けてしまうわ。後から追い掛けた時には、もう手の届かない所へ飛んで行ってしまうのよ。貴女には、そんな後悔をして欲しくはないの。自分の気持ちに正直になったからと、それで誰も貴女を責めたりしない。貴女には、私の様になって欲しくは無いのよ。」
そう言って、母はヘンリエッタに文を手渡した。
「お母様、」
「きっと素敵なドレスが仕上がるわ。楽しみね。貴女にはロイヤルブルーが良く似合うから、ハロルド様もきっとお喜びになるのではないかしら。」
そう言って、文を受け取ったヘンリエッタの手を優しく擦ってくれた。
「お母様は後悔なさっている事がお有りなの?」
「一つも後悔の無い人なんていないでしょう。だけど、そんなものはしないに越したことは無いわ。貴女方は未だ間に合う。案ずるより産むが易しと言うでしょう?考えても上手く行かない時には、心の赴くままに生きてみるのも新鮮で良いものよ。」
それから母は、両の手でヘンリエッタの頬を包んだ。ヘンリエッタよりも鮮やかな色合いの瞳にはヘンリエッタが映っている。
「貴女はこれから幸せになるの。何も心配要らないわ。ハロルド様を僅かでも信じる気持ちがあるのなら、とことん信じてみてはどうかしら?駄目なら捨てておやりなさい。もう貴女は、それ位の気概は持ち合わせているのだから。」
「ええ。お母様。駄目なら捨ててやるわ。」
「その意気よ。」
ハロルドの全然知らないところで、何故かハロルドはダメダメな人として捨てられちゃう選択肢が増えていた。
文には、学園の記念式典での夜会にエスコートをさせてくれないかと書かれていた。
ハロルドはエドワード殿下の側近であるから、夜会の日もエドワードの側に侍るのだろうと思っていた。そこまで考えて、自分がハロルドから正式な誘いを受けていない事への言い訳を探していたのだと気が付いた。
母に言われた言葉をなぞってみれば、答えはすんなり見付かった。
ハロルドへの思慕は、この胸の内に今も火種のまま燃えている。なるべく炎とならない様に燃え上がってしまわない様に、鎮まれ鎮まれと宥めて来た。
たった一つの恋をして、それが壊れたからと、そんな事は誰の身にも一度は起こる事だろう。国を跨いだ抗い難い壁に遮られて、つい萎縮してしまったが、それだって、また誰かに恋をしたのなら過去の事だと前に進む事も出来たろう。
今も心を他所に移せずいるのは、結局自分は今もハロルドが好きなのだ。
駄目なら捨ててしまおう。再びハロルドがヘンリエッタの恋心に疵を付ける様な事が起こったら、思いっ切り遠くへ放って投げ捨ててやろう。そうしてハロルドを投擲した後は、胸を張って心の赴くままに新しい世界に踏み出そう。
すっかりハロルドを放り投げる覚悟が決まって、ハロルドが聞いたなら心外だと言いそうな想像までしてから、ヘンリエッタは返事を書いた。
貴方の瞳の色をドレスにしました。だから、貴方にエスコートをお願いしたのです。
そう返事の文を出した翌日に、ハロルドは夕暮れの学園に現れた。
迎えの時間に学園の校門へ向えば、馬車止まりには最近見慣れた馬車が停まっていた。
馬車を目にしただけで胸が高鳴る。
中に誰が乗っているのかが解っているから尚の事、とくとくと胸が躍るのを、ヘンリエッタはもう浅ましい性だとは思わなかった。
母の言葉には、自身への後悔が窺えた。何を後悔したのかは解らないが、多分、父との関わりだろう。
娘の目から見ても、貴族婦人として父の妻として、母はとても上手に生きてきた。その母がヘンリエッタにエールを贈ってくれている。進め、進め、信じて進めと言っている。
だからヘンリエッタは、立ち止まる事なく馬車へと歩みを進めた。
御者が開く前に内側から扉が開かれて、ステップをぴょんと飛び越え、まるで物語の勇者の様に、すたっと音がしそうな勢いでヘンリエッタの前に降り立つ。
こんなやんちゃな事をするハロルドを初めて見た。これから、もっとこの人の初めてを見てみたい。初めて知るハロルドを、もっともっと見てみたい。誰よりも一番側にいて、彼の横顔を見ていたい。
御免なさい、ハロルド様。私、貴方が知る柔らかで純粋なヘンリエッタではなくなってしまったの。
貴方がダメダメだと思ったら、この恋心と一緒に貴方を遠くに放り投げちゃうわ。覚悟なさってね。
ハロルドが目を細めた。
きっとヘンリエッタも同じ様な顔をしている筈だ。
ヘンリエッタの手から鞄を受け取って、
「迎えに来たよ。」
何故か、どうしてかの一言も無く、まるで当たり前の様な顔でハロルドは言った。
何処へ連れて行かれるのかも解らぬまま、ハロルドとこのまま世界の果てまで旅に出るのもきっと楽しい事に違いない。
そんな有り得ない事を思うことすら胸を躍らせ楽しくなった。
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