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「お嬢様、彼処で流されなかったお嬢様をブリジットは誇らしく思います。」
「私が素直じゃない意地っ張りなだけよ。」
「いいえ、そんな事はございません。お嬢様の御心の傷をあれしきの詫びで済まされては敵いません。」
「ハロルド様は、偽りを仰っておられた訳ではないわ。」
「真実も仰ってはおられませんでした。」
ハロルドが邸を去ってから、ヘンリエッタは自室に戻った。お茶は十分飲んでいたからお腹は既にたぷんたぷんである。それでも気持ちがさわさわと落ち着かなくて、ブリジットにもう一杯お茶を頼んだ。
カモミールだろうか、菊の微かな香りにブリジットがハーブティーを淹れてくれているのだと解った。
去り際のハロルドを思い出す。
ヘンリエッタの頑なな返答を予想していたのか、ハロルドは微かな笑みを浮かべてヘンリエッタを見下ろした。
「また来る。」
そう言って、またもや涙に赤く腫れてしまった目元に指先でそっと触れた。
「赤くなってしまった。」
「あまり見ないで下さい。」
「もう、どんな君も見落としたくない。」
「...」
あんなに甘い男だったろうか。
二年の月日はヘンリエッタを貴族令嬢に育て上げたが、ハロルドもまた青年貴族の風格を纏っていた。
「ドレスを新調?」
「ええ、そうよ。貴女、夜会は久しぶりでしょう?」
晩餐の席で母に言われて、ヘンリエッタはクローゼットの中身を思い浮かべる。
「大丈夫よ、お母様。手持ちでなんとかなるわ。」
「いつ作ったドレスだと思ってるの?貴女、背も幾分か伸びた筈よ。今あるドレスはどれも茶会用のデイドレスばかりでしょう?」
ハロルドが隣国へ留学してからは、夜会用のドレスは一着も作っていなかった。そうしてあの夜会以降、ヘンリエッタはどの夜会にも出席していない。来月の学園創立記念の夜会が、二年ぶりに参加する夜会となる。体型もそうだが流行りも二年前とは変わっている。
「ウィリアムの衣装も新調しなくてはならないから、二人とも一緒に作ってもらいましょう。」
「お母様は?」
両親は共に王都の貴族学園で学んでいたから、今回の夜会には卒業生として夫妻で参加するだろう。
「そうねえ。」
「ドレスをお作りにならないの?」
「ええ、まあ、必要ないでしょう。」
「それは...」
「私はご遠慮しようかしら。」
「ウィルマ、何を言ってるんだ。」
夜会を欠席すると言う母の言葉に、流石の父も慌てている。
「夜会は他にもあるのだし、今回はご遠慮しようと思うの。旦那様、貴方はご自由になさって宜しいのよ?」
「だから、何を言ってるんだ。君が参加しないのに、私が行く訳が無いだろうっ」
「偶にはお連れになっては如何かしら。」
「何を言ってる、」
「学園での夜会です。学生が主役の会ですから、幾分気楽に参加も出来るでしょう?」
「何を言ってるっ、」
ああ、お母様、それ以上言っては駄目よ。
ヘンリエッタは直ぐ様母を止めてあげたかった。今まで暗黙のルールでヘンリエッタもウィリアムも見て見ぬ振りをして来たのを、家族が揃う晩餐の席で、母は言葉に出そうとしている。
「今回は、別邸の女性をお連れになっては如何かと。」
「ウィルマ!」
父は言葉が見当たらないのか、母の名を呼んだきり固まってしまった。
「良いじゃない。学生時代はあれほど一緒におられたのだし。きっと彼女も懐かしいのではなくて?ねえ、ヘンリー。」
母が父を名で呼ぶ。まるで学生時代に戻った様に、婚約時代に戻った様に名呼びした。
「明日にでも商会の外商を呼ぶわ。二人とも寄り道しないで帰って来るのよ?」
母はそれから、にこりと笑ってヘンリエッタとウィリアムに向かって言った。その表情が晴ればれとして見えて、ヘンリエッタは息を飲んだ。
晩餐を終えると、母は静かに席を立って部屋を出た。いつもは父の後ろを付いて出るのに、父は未だ席に座っている。父には、ウィリアムが何か気の利いたことを話し掛けてくれるだろう。ヘンリエッタは父を残して母を追った。
「お母様。」
「まあ、ヘンリエッタ。どうしたの?」
どうしたもこうしたも。小首を傾げてこちらを見る母は美しい。
ヘンリエッタを振り返った母は、こちらへ歩み寄り、そうして両手でヘンリエッタの手を握った。小さくて柔らかくて温かな母の手の平。幼い頃からヘンリエッタを包んでくれた優しい手。
「大丈夫よ。何も心配要らないわ。貴女は貴女の幸せを考えて。」
ね?と言い含める様にヘンリエッタに微笑んで、「おやすみなさい」と母は自室に戻って行った。その後ろ姿は小さくて、なのに背筋が伸びて、やはりとても美しかった。
「お父様は?」
「うん...」
戻る途中でウィリアムと一緒になって、父の様子を聞いてみれば、何だかはっきりせずに歯切れが悪い。
「まだ食堂にいるよ。」
「えっ、」
「声を掛けたんだけど、まあ、そっとしておこうかなって思って。」
「は?何言ってんの。そもそもお父様に原因があるのよ?」
「解ってるよ。僕も父上も。」
「お父様は当の本人じゃない。解ってもらわなくては困るわ。貴方、爵位を継いだら別邸ごと面倒を見るのよ?」
「えっ、それは困るな。」
「私は別に困りませんけどね。」
「姉上..」
「不貞の始末は貴方とお父様のお二人でしてね。貴方の奥方様にもご理解願うことになるんでしょうけれど。」
「ええ~、それは勘弁して欲しい。」
「仕方が無いじゃない。学生時代からのお付き合いを清算せずにいるのだもの。お母様が懐の広いのに甘えっぱなしでいたツケが貴方にも回って来るのよ。」
「辞めて、それ以上聞きたくない。」
「全く、殿方って勝手よね。貴方は是非とも夫人を大切にしてね。」
「僕は妻一筋で生きると誓うよ。家族に詰られる修羅場だなんて御免だよ。」
やれやれと渋顔をする母に良く似た弟の顔を眺めながら、ヘンリエッタもやれやれと思う。お蔭でドレスの事もすっぽり何処かへ飛んで行ってしまった。
「私が素直じゃない意地っ張りなだけよ。」
「いいえ、そんな事はございません。お嬢様の御心の傷をあれしきの詫びで済まされては敵いません。」
「ハロルド様は、偽りを仰っておられた訳ではないわ。」
「真実も仰ってはおられませんでした。」
ハロルドが邸を去ってから、ヘンリエッタは自室に戻った。お茶は十分飲んでいたからお腹は既にたぷんたぷんである。それでも気持ちがさわさわと落ち着かなくて、ブリジットにもう一杯お茶を頼んだ。
カモミールだろうか、菊の微かな香りにブリジットがハーブティーを淹れてくれているのだと解った。
去り際のハロルドを思い出す。
ヘンリエッタの頑なな返答を予想していたのか、ハロルドは微かな笑みを浮かべてヘンリエッタを見下ろした。
「また来る。」
そう言って、またもや涙に赤く腫れてしまった目元に指先でそっと触れた。
「赤くなってしまった。」
「あまり見ないで下さい。」
「もう、どんな君も見落としたくない。」
「...」
あんなに甘い男だったろうか。
二年の月日はヘンリエッタを貴族令嬢に育て上げたが、ハロルドもまた青年貴族の風格を纏っていた。
「ドレスを新調?」
「ええ、そうよ。貴女、夜会は久しぶりでしょう?」
晩餐の席で母に言われて、ヘンリエッタはクローゼットの中身を思い浮かべる。
「大丈夫よ、お母様。手持ちでなんとかなるわ。」
「いつ作ったドレスだと思ってるの?貴女、背も幾分か伸びた筈よ。今あるドレスはどれも茶会用のデイドレスばかりでしょう?」
ハロルドが隣国へ留学してからは、夜会用のドレスは一着も作っていなかった。そうしてあの夜会以降、ヘンリエッタはどの夜会にも出席していない。来月の学園創立記念の夜会が、二年ぶりに参加する夜会となる。体型もそうだが流行りも二年前とは変わっている。
「ウィリアムの衣装も新調しなくてはならないから、二人とも一緒に作ってもらいましょう。」
「お母様は?」
両親は共に王都の貴族学園で学んでいたから、今回の夜会には卒業生として夫妻で参加するだろう。
「そうねえ。」
「ドレスをお作りにならないの?」
「ええ、まあ、必要ないでしょう。」
「それは...」
「私はご遠慮しようかしら。」
「ウィルマ、何を言ってるんだ。」
夜会を欠席すると言う母の言葉に、流石の父も慌てている。
「夜会は他にもあるのだし、今回はご遠慮しようと思うの。旦那様、貴方はご自由になさって宜しいのよ?」
「だから、何を言ってるんだ。君が参加しないのに、私が行く訳が無いだろうっ」
「偶にはお連れになっては如何かしら。」
「何を言ってる、」
「学園での夜会です。学生が主役の会ですから、幾分気楽に参加も出来るでしょう?」
「何を言ってるっ、」
ああ、お母様、それ以上言っては駄目よ。
ヘンリエッタは直ぐ様母を止めてあげたかった。今まで暗黙のルールでヘンリエッタもウィリアムも見て見ぬ振りをして来たのを、家族が揃う晩餐の席で、母は言葉に出そうとしている。
「今回は、別邸の女性をお連れになっては如何かと。」
「ウィルマ!」
父は言葉が見当たらないのか、母の名を呼んだきり固まってしまった。
「良いじゃない。学生時代はあれほど一緒におられたのだし。きっと彼女も懐かしいのではなくて?ねえ、ヘンリー。」
母が父を名で呼ぶ。まるで学生時代に戻った様に、婚約時代に戻った様に名呼びした。
「明日にでも商会の外商を呼ぶわ。二人とも寄り道しないで帰って来るのよ?」
母はそれから、にこりと笑ってヘンリエッタとウィリアムに向かって言った。その表情が晴ればれとして見えて、ヘンリエッタは息を飲んだ。
晩餐を終えると、母は静かに席を立って部屋を出た。いつもは父の後ろを付いて出るのに、父は未だ席に座っている。父には、ウィリアムが何か気の利いたことを話し掛けてくれるだろう。ヘンリエッタは父を残して母を追った。
「お母様。」
「まあ、ヘンリエッタ。どうしたの?」
どうしたもこうしたも。小首を傾げてこちらを見る母は美しい。
ヘンリエッタを振り返った母は、こちらへ歩み寄り、そうして両手でヘンリエッタの手を握った。小さくて柔らかくて温かな母の手の平。幼い頃からヘンリエッタを包んでくれた優しい手。
「大丈夫よ。何も心配要らないわ。貴女は貴女の幸せを考えて。」
ね?と言い含める様にヘンリエッタに微笑んで、「おやすみなさい」と母は自室に戻って行った。その後ろ姿は小さくて、なのに背筋が伸びて、やはりとても美しかった。
「お父様は?」
「うん...」
戻る途中でウィリアムと一緒になって、父の様子を聞いてみれば、何だかはっきりせずに歯切れが悪い。
「まだ食堂にいるよ。」
「えっ、」
「声を掛けたんだけど、まあ、そっとしておこうかなって思って。」
「は?何言ってんの。そもそもお父様に原因があるのよ?」
「解ってるよ。僕も父上も。」
「お父様は当の本人じゃない。解ってもらわなくては困るわ。貴方、爵位を継いだら別邸ごと面倒を見るのよ?」
「えっ、それは困るな。」
「私は別に困りませんけどね。」
「姉上..」
「不貞の始末は貴方とお父様のお二人でしてね。貴方の奥方様にもご理解願うことになるんでしょうけれど。」
「ええ~、それは勘弁して欲しい。」
「仕方が無いじゃない。学生時代からのお付き合いを清算せずにいるのだもの。お母様が懐の広いのに甘えっぱなしでいたツケが貴方にも回って来るのよ。」
「辞めて、それ以上聞きたくない。」
「全く、殿方って勝手よね。貴方は是非とも夫人を大切にしてね。」
「僕は妻一筋で生きると誓うよ。家族に詰られる修羅場だなんて御免だよ。」
やれやれと渋顔をする母に良く似た弟の顔を眺めながら、ヘンリエッタもやれやれと思う。お蔭でドレスの事もすっぽり何処かへ飛んで行ってしまった。
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