21 / 78
【21】
しおりを挟む
ハロルド・シーモア・ダウンゼン。
三つ年上の婚約者。
艶のある黒髪がヘンリエッタの髪より太く張りがある事を知っている。青い瞳は中心がほんの僅かに榛色を帯びている。それがまるで自分の瞳と同じ様に思えて、そんな僅かな事すら嬉しかった。
十四歳で初めて出会って、幼さの残るヘンリエッタと違って、学園で学び王族に侍るハロルドは、まだ見ぬ大人の世界の男性だった。
この婚約は、国内最大規模の軍馬生産の名門と知られるノーザランド伯爵家と、第二王子殿下の側近候補の子息を持ち当主は宰相補佐官であるダウンゼン伯爵家との、純然たる政略によるものである。
互いにそれを承知の上で会った初見の席で、ヘンリエッタは恋をした。
青い瞳が冴え冴えとして、黒い髪色も相まって大人びた表情に見えるハロルドは、まだ少女の域を出ないあどけなさの残る令嬢へ穏やかな笑みを見せてくれた。
その日から、ヘンリエッタは只の一度もハロルドを疑う事は無かった。清廉な青年の全てを信じて心を寄せた。
不思議な事に、ハロルドはヘンリエッタを大切にしてくれた。秀でた美しさを持っているわけではないのに、そんなヘンリエッタの平凡な瞳を美しいと言ってくれた。
小さな手の小さな指の爪を愛らしいと言ってくれた。
美しい母に似たのは弟のウィリアムで、自身は父親似だと思うヘンリエッタは、お世辞かも知れない褒め言葉を話半分に受け止めながら、その気遣いすら嬉しく思った。
学生でありエドワード殿下にも仕えて登城するハロルドは、多忙であるのにヘンリエッタの邸を度々訪れた。ヘンリエッタもダウンゼン伯爵家に度々招かれた。
穏やかな心の温まる婚約時代を過ごすのを、幸福な事だと思っていた。
手酷い裏切りと信じられない不実の末に婚約を解消する時に、そんな絶望的な場面にあっても、ヘンリエッタは自分を不幸だとは思えなかった。僅か二年であったが、十分大切にしてもらっていたと思う気持ちが、自身を取り巻く一連の出来事からも、ヘンリエッタの心を救ってくれた。
心の奥底に囲い込んで大切に仕舞ったヘンリエッタだけのハロルド。
柔らかな唇、張りのある黒髪の手触り。ヘンリエッタを見る瞳の色、ヘンリエッタの名を呼ぶ声。その記憶は確かにヘンリエッタだけのものだと、その思い出を心の奥底に仕舞い込んで、貴族令嬢ヘンリエッタとして生きて行こうと心に決めた。
「貴方って、本当に最低な人だわ。漸く寝た子を起こすだなんて。私は貪欲で嫉妬深くて手に余る嫌な女になれるのよ。折角過ぎた過去を飲み込んで嫌な女にならずに済むと思っていたのに、どうして起こしてしまったの。」
「君に忘れ去られる方が君の為だと思っていた。だけれど、君を手に入れる可能性が見えた時に、どうして私が君を諦めねばならないのかと思った。望んだ未来を今諦めてしまったら、君を余所に奪われてしまう。私では無い男に連れられて歩く君を見るのはどう考えても嫌だった。」
「勝手だわ。貴方こそ私ではない女性を連れて現れたくせに。」
「魂は、君の下に置いてきた。抜け殻の私が誰と居たとしても、それは本当の私じゃない。」
「本当の貴方は今、何処にいるの?」
「眉を顰めて私を睨む可憐なご令嬢の目の前にいる。」
「眉は顰めているけれど、可憐などではないわ。何処にでもいる平凡な貴族の娘よ。」
「あの背の高い男子生徒。」
「?」
「学園で。君を背にして立つ男子生徒を蹴飛ばしてやりたかった。君を囲い込むように前に立つだなんて。彼の脇から君の髪が見えて、アイツを彼処から引き摺り出してしまいたかった。」
「彼は偶々そこにいた名前も知らない学生よ?」
「それすら諦め切れずに感情を煽られた。」
「どうしてそこまで思えるの?私はそれ程の見目でも家柄でもないわ。家は少しばかり特殊であるけど、私自身は無位なのだから。」
「心を奪われるのに理由があるなら誰も恋などしないんじゃないか。私はそう云う事には疎い男だが、それで良いと思っている。君だけがいてくれれば、もうそれで良いと思っている。」
いつの間にか、ブリジットが新しいお茶を淹れてくれていた。少し渋めの紅茶にはたっぷりのミルクと蜂蜜が入っている。この甘いミルクティーが、ハロルドの好みであるのをブリジットは知っている。
「ヘンリエッタ。」
刺々と尖った感情がまろやかなミルクと蜂蜜の甘さに凪となる。自分の名を呼ぶ声の響きを瞳を閉じて味わう。決して離れない縁だと疑わなかったのに、呆気なく失ってしまった声音である。
「もう一度。もう一度名を呼んで下さる?」
「...ヘンリエッタ。」
耳朶に響いて溶けて行く。今だけはこの声音は自分だけのものであると、ヘンリエッタは瞳を閉じてその余韻まで味わった。
「君に、再度の婚約を申し込みたい。」
ヘンリエッタはそれに答えない。
そんなヘンリエッタに向かって、ハロルドは続けた。
「許して欲しい。」
それは過去の出来事についてか、再度の婚約の願いについてか。ヘンリエッタには解らなかった。
「駄目よ。」
ハロルドは静かにヘンリエッタを見つめる。
「何も終わっていないもの。」
「話したなら、君は受け入れてくれるか?」
「話して良いの?私達ばかりの事ではないのでしょう?」
青い瞳は揺らがない。その眼差しを、ヘンリエッタは見つめ返した。
三つ年上の婚約者。
艶のある黒髪がヘンリエッタの髪より太く張りがある事を知っている。青い瞳は中心がほんの僅かに榛色を帯びている。それがまるで自分の瞳と同じ様に思えて、そんな僅かな事すら嬉しかった。
十四歳で初めて出会って、幼さの残るヘンリエッタと違って、学園で学び王族に侍るハロルドは、まだ見ぬ大人の世界の男性だった。
この婚約は、国内最大規模の軍馬生産の名門と知られるノーザランド伯爵家と、第二王子殿下の側近候補の子息を持ち当主は宰相補佐官であるダウンゼン伯爵家との、純然たる政略によるものである。
互いにそれを承知の上で会った初見の席で、ヘンリエッタは恋をした。
青い瞳が冴え冴えとして、黒い髪色も相まって大人びた表情に見えるハロルドは、まだ少女の域を出ないあどけなさの残る令嬢へ穏やかな笑みを見せてくれた。
その日から、ヘンリエッタは只の一度もハロルドを疑う事は無かった。清廉な青年の全てを信じて心を寄せた。
不思議な事に、ハロルドはヘンリエッタを大切にしてくれた。秀でた美しさを持っているわけではないのに、そんなヘンリエッタの平凡な瞳を美しいと言ってくれた。
小さな手の小さな指の爪を愛らしいと言ってくれた。
美しい母に似たのは弟のウィリアムで、自身は父親似だと思うヘンリエッタは、お世辞かも知れない褒め言葉を話半分に受け止めながら、その気遣いすら嬉しく思った。
学生でありエドワード殿下にも仕えて登城するハロルドは、多忙であるのにヘンリエッタの邸を度々訪れた。ヘンリエッタもダウンゼン伯爵家に度々招かれた。
穏やかな心の温まる婚約時代を過ごすのを、幸福な事だと思っていた。
手酷い裏切りと信じられない不実の末に婚約を解消する時に、そんな絶望的な場面にあっても、ヘンリエッタは自分を不幸だとは思えなかった。僅か二年であったが、十分大切にしてもらっていたと思う気持ちが、自身を取り巻く一連の出来事からも、ヘンリエッタの心を救ってくれた。
心の奥底に囲い込んで大切に仕舞ったヘンリエッタだけのハロルド。
柔らかな唇、張りのある黒髪の手触り。ヘンリエッタを見る瞳の色、ヘンリエッタの名を呼ぶ声。その記憶は確かにヘンリエッタだけのものだと、その思い出を心の奥底に仕舞い込んで、貴族令嬢ヘンリエッタとして生きて行こうと心に決めた。
「貴方って、本当に最低な人だわ。漸く寝た子を起こすだなんて。私は貪欲で嫉妬深くて手に余る嫌な女になれるのよ。折角過ぎた過去を飲み込んで嫌な女にならずに済むと思っていたのに、どうして起こしてしまったの。」
「君に忘れ去られる方が君の為だと思っていた。だけれど、君を手に入れる可能性が見えた時に、どうして私が君を諦めねばならないのかと思った。望んだ未来を今諦めてしまったら、君を余所に奪われてしまう。私では無い男に連れられて歩く君を見るのはどう考えても嫌だった。」
「勝手だわ。貴方こそ私ではない女性を連れて現れたくせに。」
「魂は、君の下に置いてきた。抜け殻の私が誰と居たとしても、それは本当の私じゃない。」
「本当の貴方は今、何処にいるの?」
「眉を顰めて私を睨む可憐なご令嬢の目の前にいる。」
「眉は顰めているけれど、可憐などではないわ。何処にでもいる平凡な貴族の娘よ。」
「あの背の高い男子生徒。」
「?」
「学園で。君を背にして立つ男子生徒を蹴飛ばしてやりたかった。君を囲い込むように前に立つだなんて。彼の脇から君の髪が見えて、アイツを彼処から引き摺り出してしまいたかった。」
「彼は偶々そこにいた名前も知らない学生よ?」
「それすら諦め切れずに感情を煽られた。」
「どうしてそこまで思えるの?私はそれ程の見目でも家柄でもないわ。家は少しばかり特殊であるけど、私自身は無位なのだから。」
「心を奪われるのに理由があるなら誰も恋などしないんじゃないか。私はそう云う事には疎い男だが、それで良いと思っている。君だけがいてくれれば、もうそれで良いと思っている。」
いつの間にか、ブリジットが新しいお茶を淹れてくれていた。少し渋めの紅茶にはたっぷりのミルクと蜂蜜が入っている。この甘いミルクティーが、ハロルドの好みであるのをブリジットは知っている。
「ヘンリエッタ。」
刺々と尖った感情がまろやかなミルクと蜂蜜の甘さに凪となる。自分の名を呼ぶ声の響きを瞳を閉じて味わう。決して離れない縁だと疑わなかったのに、呆気なく失ってしまった声音である。
「もう一度。もう一度名を呼んで下さる?」
「...ヘンリエッタ。」
耳朶に響いて溶けて行く。今だけはこの声音は自分だけのものであると、ヘンリエッタは瞳を閉じてその余韻まで味わった。
「君に、再度の婚約を申し込みたい。」
ヘンリエッタはそれに答えない。
そんなヘンリエッタに向かって、ハロルドは続けた。
「許して欲しい。」
それは過去の出来事についてか、再度の婚約の願いについてか。ヘンリエッタには解らなかった。
「駄目よ。」
ハロルドは静かにヘンリエッタを見つめる。
「何も終わっていないもの。」
「話したなら、君は受け入れてくれるか?」
「話して良いの?私達ばかりの事ではないのでしょう?」
青い瞳は揺らがない。その眼差しを、ヘンリエッタは見つめ返した。
4,429
お気に入りに追加
6,388
あなたにおすすめの小説
三度目の嘘つき
豆狸
恋愛
「……本当に良かったのかい、エカテリナ。こんな嘘をついて……」
「……いいのよ。私に新しい相手が出来れば、周囲も殿下と男爵令嬢の仲を認めずにはいられなくなるわ」
なろう様でも公開中ですが、少し構成が違います。内容は同じです。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
不実なあなたに感謝を
黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。
※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。
※曖昧設定。
※一旦完結。
※性描写は匂わせ程度。
※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。
私の手からこぼれ落ちるもの
アズやっこ
恋愛
5歳の時、お父様が亡くなった。
優しくて私やお母様を愛してくれたお父様。私達は仲の良い家族だった。
でもそれは偽りだった。
お父様の書斎にあった手記を見た時、お父様の優しさも愛も、それはただの罪滅ぼしだった。
お父様が亡くなり侯爵家は叔父様に奪われた。侯爵家を追い出されたお母様は心を病んだ。
心を病んだお母様を助けたのは私ではなかった。
私の手からこぼれていくもの、そして最後は私もこぼれていく。
こぼれた私を救ってくれる人はいるのかしら…
❈ 作者独自の世界観です。
❈ 作者独自の設定です。
❈ ざまぁはありません。
元侯爵令嬢は冷遇を満喫する
cyaru
恋愛
第三王子の不貞による婚約解消で王様に拝み倒され、渋々嫁いだ侯爵令嬢のエレイン。
しかし教会で結婚式を挙げた後、夫の口から開口一番に出た言葉は
「王命だから君を娶っただけだ。愛してもらえるとは思わないでくれ」
夫となったパトリックの側には長年の恋人であるリリシア。
自分もだけど、向こうだってわたくしの事は見たくも無いはず!っと早々の別居宣言。
お互いで交わす契約書にほっとするパトリックとエレイン。ほくそ笑む愛人リリシア。
本宅からは屋根すら見えない別邸に引きこもりお1人様生活を満喫する予定が・・。
※専門用語は出来るだけ注釈をつけますが、作者が専門用語だと思ってない専門用語がある場合があります
※作者都合のご都合主義です。
※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。
※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
騎士の妻ではいられない
Rj
恋愛
騎士の娘として育ったリンダは騎士とは結婚しないと決めていた。しかし幼馴染みで騎士のイーサンと結婚したリンダ。結婚した日に新郎は非常召集され、新婦のリンダは結婚を祝う宴に一人残された。二年目の結婚記念日に戻らない夫を待つリンダはもう騎士の妻ではいられないと心を決める。
全23話。
2024/1/29 全体的な加筆修正をしました。話の内容に変わりはありません。
イーサンが主人公の続編『騎士の妻でいてほしい 』(https://www.alphapolis.co.jp/novel/96163257/36727666)があります。
【本編完結】独りよがりの初恋でした
須木 水夏
恋愛
好きだった人。ずっと好きだった人。その人のそばに居たくて、そばに居るために頑張ってた。
それが全く意味の無いことだなんて、知らなかったから。
アンティーヌは図書館の本棚の影で聞いてしまう。大好きな人が他の人に囁く愛の言葉を。
#ほろ苦い初恋
#それぞれにハッピーエンド
特にざまぁなどはありません。
小さく淡い恋の、始まりと終わりを描きました。完結いたします。
【完結】彼の瞳に映るのは
たろ
恋愛
今夜も彼はわたしをエスコートして夜会へと参加する。
優しく見つめる彼の瞳にはわたしが映っているのに、何故かわたしの心は何も感じない。
そしてファーストダンスを踊ると彼はそっとわたしのそばからいなくなる。
わたしはまた一人で佇む。彼は守るべき存在の元へと行ってしまう。
★ 短編から長編へ変更しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる