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誰かに焦がれるのも惹かれてしまうのも、それはごく自然の摂理であって責められる事ではないだろう。人の心はままならない。心が惹かれてしまうのを責めることは出来ないと、そう言ったの自分である。
けれども、それとは別に思うのは、何があってもどんな訳があっても恋人が他に想いを移したことを許せず嘆く悲しみで、そればかりは矛盾していると解っていても忘れられそうにはなかった。
曖昧を良しとせず厳しくジャッジするヘンリエッタを、今は穏やかな眼差しを向ける目の前の男も、いつかは息苦しく思うだろう。
母が父と穏やかな関係を続けて来られたのは、母がその加減を弁え悋気を一切見せなかったからだろう。
自分の過ぎた潔癖さは、いつか父が言ったように確かに悪癖なのだろう。
あれから母は、いつも通りの母に戻った。仄暗い不穏さを窺い見せたのはあの場限りで、翌日からは元のおっとりとした母に戻った。母もまた、正しく貴族であるのを目の当たりにして、ヘンリエッタは自分の潔癖さをどうにかしてしまいたくなった。
「観劇?」
「うん。姉から譲られてね。下の子が麻疹に掛かって暫くは外に出られないからと。」
「まあ、それは大変!熱は?」
「幸いそれほど高熱で病む事無く治まったらしい。微熱が続いてまだ目が離せないのだとか。」
幼子の高熱とは、容易く命を儚くさせる。ハロルドには姉が一人おり、夫君は父伯爵と同じ宰相補佐官の一人であったと思う。彼女もまた政略からの婚姻を結んでいた。子供は男の子が二人いたと記憶している。
「これは...」
ハロルドから受け取ったチケットを見て、ヘンリエッタは思わず声を漏らしてしまった。
ハロルドが言う観劇とは、例のヘンリエッタを涙の泉に沈めた悲恋の物語であった。
今、王都で話題の恋愛小説がある。
人気の平民作家による恋愛小説が婦人向けの週刊誌に掲載されている。それが貴族平民の垣根無く、御婦人方の心を捕らえてヒットした。婦人ばかりか令嬢達も夢中にさせて、一大ブームを巻き起こした。
その話題の恋愛小説が歌劇として上演されている。
歌劇『ベルサイユのかすみ草』は、「週刊貴婦人」に連載中の人気恋愛小説で、先日、王立図書館で偶々手に取ったヘンリエッタは感涙に泣き濡れたのであった。
「好みでは無かった?」
「...」
今だチケットを手に固まるヘンリエッタに、ハロルドは恐る恐る尋ねた。
「いえ、」
「?」
「いえ、これは、これって、」
「え~っと、お気に召して「当然です。お気に召すも何もお気に入りですっ」
食い気味に被せて来たヘンリエッタに、ハロルドは「あ、ああ」と若干引いた。
「良かった、君が喜んでくれて。」
「ええ、ええ、勿論ですとも。何が有っても這ってでも参りますわ。」
「這わなくても大丈夫だよ。その時は私が君を担ぐから。」
「重いですわよ。私、見目以上に目方がありますの。」
「心して担ぐから大丈夫だ。」
興奮を隠そうにもふんふん鼻息を荒げる姿がちょいちょい垣間見えて、後ろに控えるブリジットは「お嬢様、鼻息!」と気が気ではなかった。
「迎えに来るよ。」
「...はい。お世話になります。」
ついさっき、友人にすらなり得ないと啖呵を切ったばかりである。
観劇を一緒にする間柄とは友でも恋人でも無ければ何なのだ。茶飲み友達でさえ「友達」と名が付くのに。
「背に腹は代えられないわ。だって『ベルかす』ですもの。それに、これってプラチナチケットよね。それって個室ではないかしら。」
帰るハロルドの背を見送りながら、ヘンリエッタは一人呟いた。
そう言えば、とヘンリエッタは思い出す。
まだハロルドと婚約していた頃、こんな風にハロルドに誘われて演劇鑑賞をした事があった。
その当時は、ヘンリエッタはデヴュタント前であったから、大人の社交場に足を踏み入れた事が無かった。
ハロルドにエスコートされて劇場に入る緊張と高揚感。あの胸の高鳴りは、今でも鮮明に憶えている。
彼と婚姻を解消してからも、ヘンリエッタは時折母に誘われて劇場を訪れていたが、どんなに感動で胸を震わせても、涙はただの一度も一滴も流れる事は無かった。あの鮮明な感動も初々しい恋心も何処か他人の記憶の様になってしまった。
それが再びハロルドと観劇に出向くだなんて。こんな事が起こるだなんて二年前には思えなかった。時の流れは確実に心の傷を修復して、ヘンリエッタは漸く小さな一歩を踏み出せた、そんな風に思えた。
「これは流石に駄目よ。」
「いいえ、そんな事はございません。」
ロイヤルブルーのワンピースを前に、ヘンリエッタも青くなる。
「私とハロルド様は友人ですらないのよ。それをロイヤルブルーだなんて。」
まるでハロルドの瞳の色を纏う様だ。
「お嬢様の肌色にも髪色にも青は特別映えるのです。」
「嘘おっしゃい。この前はグリーンが映えると言ったじゃない。」
「そんな事は忘れました。」
悔しいかな。口ではブリジットに敵わない。
「駄目ったら駄目。劇場には大勢の人の目があるのに、出来る事なら裏口から入りたいくらいよ。」
「その方が余程怪しく思われますよ。」
「兎に角、駄目は駄目。」
「では何色になさいますか?」
ヘンリエッタの髪色は淡いプラチナブロンドで、肌も白く瞳は榛。何処もかしこも薄ぼんやりとしていて、白もピンクも黄色すらもぼんやりぼわ~んと見えてしまう。
白が似合わないって、もうそれは花嫁衣装も霞んでしまうと言うことだ。それは乙女の致命傷である。
面倒だからと、いつも大体グリーンで手を打っていたのだが、先日の晩餐も深緑のドレスであった。流石に緑一辺倒は不味い。青虫じゃあないんだから。
さて、一体何色を着れば良いのだ。
クローゼットの扉を開け放ったまま、グリーン一辺倒の衣装達を眺めてヘンリエッタは途方に暮れてしまった。
けれども、それとは別に思うのは、何があってもどんな訳があっても恋人が他に想いを移したことを許せず嘆く悲しみで、そればかりは矛盾していると解っていても忘れられそうにはなかった。
曖昧を良しとせず厳しくジャッジするヘンリエッタを、今は穏やかな眼差しを向ける目の前の男も、いつかは息苦しく思うだろう。
母が父と穏やかな関係を続けて来られたのは、母がその加減を弁え悋気を一切見せなかったからだろう。
自分の過ぎた潔癖さは、いつか父が言ったように確かに悪癖なのだろう。
あれから母は、いつも通りの母に戻った。仄暗い不穏さを窺い見せたのはあの場限りで、翌日からは元のおっとりとした母に戻った。母もまた、正しく貴族であるのを目の当たりにして、ヘンリエッタは自分の潔癖さをどうにかしてしまいたくなった。
「観劇?」
「うん。姉から譲られてね。下の子が麻疹に掛かって暫くは外に出られないからと。」
「まあ、それは大変!熱は?」
「幸いそれほど高熱で病む事無く治まったらしい。微熱が続いてまだ目が離せないのだとか。」
幼子の高熱とは、容易く命を儚くさせる。ハロルドには姉が一人おり、夫君は父伯爵と同じ宰相補佐官の一人であったと思う。彼女もまた政略からの婚姻を結んでいた。子供は男の子が二人いたと記憶している。
「これは...」
ハロルドから受け取ったチケットを見て、ヘンリエッタは思わず声を漏らしてしまった。
ハロルドが言う観劇とは、例のヘンリエッタを涙の泉に沈めた悲恋の物語であった。
今、王都で話題の恋愛小説がある。
人気の平民作家による恋愛小説が婦人向けの週刊誌に掲載されている。それが貴族平民の垣根無く、御婦人方の心を捕らえてヒットした。婦人ばかりか令嬢達も夢中にさせて、一大ブームを巻き起こした。
その話題の恋愛小説が歌劇として上演されている。
歌劇『ベルサイユのかすみ草』は、「週刊貴婦人」に連載中の人気恋愛小説で、先日、王立図書館で偶々手に取ったヘンリエッタは感涙に泣き濡れたのであった。
「好みでは無かった?」
「...」
今だチケットを手に固まるヘンリエッタに、ハロルドは恐る恐る尋ねた。
「いえ、」
「?」
「いえ、これは、これって、」
「え~っと、お気に召して「当然です。お気に召すも何もお気に入りですっ」
食い気味に被せて来たヘンリエッタに、ハロルドは「あ、ああ」と若干引いた。
「良かった、君が喜んでくれて。」
「ええ、ええ、勿論ですとも。何が有っても這ってでも参りますわ。」
「這わなくても大丈夫だよ。その時は私が君を担ぐから。」
「重いですわよ。私、見目以上に目方がありますの。」
「心して担ぐから大丈夫だ。」
興奮を隠そうにもふんふん鼻息を荒げる姿がちょいちょい垣間見えて、後ろに控えるブリジットは「お嬢様、鼻息!」と気が気ではなかった。
「迎えに来るよ。」
「...はい。お世話になります。」
ついさっき、友人にすらなり得ないと啖呵を切ったばかりである。
観劇を一緒にする間柄とは友でも恋人でも無ければ何なのだ。茶飲み友達でさえ「友達」と名が付くのに。
「背に腹は代えられないわ。だって『ベルかす』ですもの。それに、これってプラチナチケットよね。それって個室ではないかしら。」
帰るハロルドの背を見送りながら、ヘンリエッタは一人呟いた。
そう言えば、とヘンリエッタは思い出す。
まだハロルドと婚約していた頃、こんな風にハロルドに誘われて演劇鑑賞をした事があった。
その当時は、ヘンリエッタはデヴュタント前であったから、大人の社交場に足を踏み入れた事が無かった。
ハロルドにエスコートされて劇場に入る緊張と高揚感。あの胸の高鳴りは、今でも鮮明に憶えている。
彼と婚姻を解消してからも、ヘンリエッタは時折母に誘われて劇場を訪れていたが、どんなに感動で胸を震わせても、涙はただの一度も一滴も流れる事は無かった。あの鮮明な感動も初々しい恋心も何処か他人の記憶の様になってしまった。
それが再びハロルドと観劇に出向くだなんて。こんな事が起こるだなんて二年前には思えなかった。時の流れは確実に心の傷を修復して、ヘンリエッタは漸く小さな一歩を踏み出せた、そんな風に思えた。
「これは流石に駄目よ。」
「いいえ、そんな事はございません。」
ロイヤルブルーのワンピースを前に、ヘンリエッタも青くなる。
「私とハロルド様は友人ですらないのよ。それをロイヤルブルーだなんて。」
まるでハロルドの瞳の色を纏う様だ。
「お嬢様の肌色にも髪色にも青は特別映えるのです。」
「嘘おっしゃい。この前はグリーンが映えると言ったじゃない。」
「そんな事は忘れました。」
悔しいかな。口ではブリジットに敵わない。
「駄目ったら駄目。劇場には大勢の人の目があるのに、出来る事なら裏口から入りたいくらいよ。」
「その方が余程怪しく思われますよ。」
「兎に角、駄目は駄目。」
「では何色になさいますか?」
ヘンリエッタの髪色は淡いプラチナブロンドで、肌も白く瞳は榛。何処もかしこも薄ぼんやりとしていて、白もピンクも黄色すらもぼんやりぼわ~んと見えてしまう。
白が似合わないって、もうそれは花嫁衣装も霞んでしまうと言うことだ。それは乙女の致命傷である。
面倒だからと、いつも大体グリーンで手を打っていたのだが、先日の晩餐も深緑のドレスであった。流石に緑一辺倒は不味い。青虫じゃあないんだから。
さて、一体何色を着れば良いのだ。
クローゼットの扉を開け放ったまま、グリーン一辺倒の衣装達を眺めてヘンリエッタは途方に暮れてしまった。
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