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晩餐は和やかなうちに進んだ。
二年半の空白が無かった様に、父はハロルドに声を掛け、ハロルドもそれに礼儀正しく答えている。会話は専らこの二人が交わし、そこへ時折、母が相槌代わりに問い掛けをしたり頷いたりする。
ヘンリエッタはそれらに耳を傾ける体で、料理長が趣向を凝らした料理を楽しんだ。昼間の粗食ランチボックスのお蔭で空腹であったから、晩餐の料理はどれも美味しく感じられた。
ウィリアムばかりが、会話を交わす両親と元婚約者、そして黙々と只管食事に専念する姉を奇妙なものを見るように眺めていた。
只管咀嚼をしていなければ、この不可解さを飲み込む事は出来なかった。
ヘンリエッタとハロルドとは、婚約を解消した間柄である。それはハロルドに端を発する事であった筈である。
なのに、何故目の前の三人は和気藹々と晩餐を楽しんでいるのだろう。真逆、両親は、ヘンリエッタが疵を付けられた事実を、時の流れで薄らいだと思うのか。枯れた涙が戻ったと思うのか。
そんなこと有りはしない。今もジクジク疼く疵は治り切らぬまま、瘡蓋を無理矢理に剥がされて新たな血が滲む思いであるのを、ヘンリエッタの心情を理解していると信じていた母までが朗らかな笑みを浮かべて頷いている。
やはりどう考えても無理であった。
歩み寄りも何も出来そうにはなかった。
彼は何も解っていない。自分が起こした裏切りも、年若の令嬢の未来に疵を付けた責任も、何の説明も謝罪も言い訳すら為さぬままに、二年半の空白がこの一夜で何もかも無かった事になると思うのか。本気でそんな事を考えるのだとしたら、一層清々しい。この男を綺麗さっぱり忘れられる。
向き合う機会も耳を貸す事も、それは向かい合う相手と語る相手があってこそ出来る事で、ヘンリエッタはこの席に着いてから一度もハロルドと言葉を交わしていない。視線すら合わせていなかった。
とんだ茶番であった。今夜のうちに邸を出よう。直ぐ様修道院とは確かに無謀であるから、領地の叔父を頼って辻馬車で出よう。この家族もこの家も、自身に関わる全てから一旦離れて、王都から離れた土地でこれからの人生をしっかり考えよう。
「...うえ、姉上、」
思考に深く沈み込み、この後の算段をしていたヘンリエッタを、ウィリアムが呼ぶ。その声に我に返って顔を上げれば、父と母とハロルドがヘンリエッタを見つめていた。
母が眉を下げるもどうでも良いと思った。無神経で薄情な両親に心底愛想が尽きた。ヘンリエッタは一体どんな表情をしていたのか、父が眉を潜めた。それがまるでヘンリエッタの無作法を咎める様に見えて、そんな些細な事までヘンリエッタに小さな傷を付けた。
父は言ったではないか。
疵を疵のままにして、ヘンリエッタの本来あるべき幸せに影を差した王家には、煮え湯を飲まされた気持ちでいたと。それは果して王家ばかりであったのか。そこにハロルドは無関係だと言えるのか。
エドワード殿下の横槍に、事業転換まで考え王家に喧嘩を売った父の姿に、呆れながら感謝した。
向き合える時に向き合わなければと促したのは確かに父だが、全てを有耶無耶にしたまま無かった事にするのとは、それは意味が違うのだ。これまでの娘の何を見て、目の前の男に愛想を振り撒いているのだ。
「どうやら私、体調が優れない様です。失礼ながらこれにて退席させて頂きます。ダウンゼン伯爵ご令息様、どうぞこの後も御食事を楽しんで行かれて下さいませ。」
そのまま音を立てずに席を外し、ヘンリエッタは食堂の出口へ向かった。
姉上、とウィリアムが小さく囁く声以外は、何も聴こえなかった。執事と給仕が顔色を変えるも、掛ける言葉は思い付かなかった。
廊下に出ればブリジットが硬い表情で立っていた。足早に自室に戻るヘンリエッタの後を、ブリジットが追って来る。
「今夜出るわ。」
「お嬢様、」
「辻馬車をお願い。」
「なりませんっ、それだけはなりませんっ、」
「ここに居たくはないの。誰も知らない所へ行きたいの。全部捨ててしまいたいの。」
「私がお供を致します。お嬢様、私を置いて行かれるのですかっ、」
「貴女には夫がいるでしょう。家族がいるわ。」
「お嬢様様にもご家族様がおられます。」
「あれは家族なのかしら。知らない人達に思えたわ。」
自室の扉が見えて来て、ドアノブに手を掛けたところで徐ろにその手を後ろから伸びた手が覆う。大きな手の平が、すっぽりとヘンリエッタの手を包み込んだ。
「ヘンリエッタ、」
息を弾ませているのが背中でも解った。ここまで走って来たのか。速歩きとはいえ、令嬢のヘンリエッタの歩く速度に成人した男性が駆けねば追い付かないというのは、今さっきまであの晩餐の続きをしていたからだろう。
「ここは殿方のお入りになる部屋ではございません。お手をお離し下さい。」
背を向けたままそう言えば、
「話しがしたい」
と、ハロルドは整わぬ息のまま言った。
「お話しなら、しておられましたでしょう。」
両親と和やかな歓談をしていたではないか。
「お客様、お手を離して頂けないのなら、騎士を呼ばねばなりません。ブリジット。」
ブリジットに護衛を呼ぶ様、声を掛ける。
「私は君と会うために来たんだ。」
荒い息が漸く整ったハロルドは、頼む、とヘンリエッタの耳元で囁いた。懇願にも似た声音が耳の奥に響いて消えた。
二年半の空白が無かった様に、父はハロルドに声を掛け、ハロルドもそれに礼儀正しく答えている。会話は専らこの二人が交わし、そこへ時折、母が相槌代わりに問い掛けをしたり頷いたりする。
ヘンリエッタはそれらに耳を傾ける体で、料理長が趣向を凝らした料理を楽しんだ。昼間の粗食ランチボックスのお蔭で空腹であったから、晩餐の料理はどれも美味しく感じられた。
ウィリアムばかりが、会話を交わす両親と元婚約者、そして黙々と只管食事に専念する姉を奇妙なものを見るように眺めていた。
只管咀嚼をしていなければ、この不可解さを飲み込む事は出来なかった。
ヘンリエッタとハロルドとは、婚約を解消した間柄である。それはハロルドに端を発する事であった筈である。
なのに、何故目の前の三人は和気藹々と晩餐を楽しんでいるのだろう。真逆、両親は、ヘンリエッタが疵を付けられた事実を、時の流れで薄らいだと思うのか。枯れた涙が戻ったと思うのか。
そんなこと有りはしない。今もジクジク疼く疵は治り切らぬまま、瘡蓋を無理矢理に剥がされて新たな血が滲む思いであるのを、ヘンリエッタの心情を理解していると信じていた母までが朗らかな笑みを浮かべて頷いている。
やはりどう考えても無理であった。
歩み寄りも何も出来そうにはなかった。
彼は何も解っていない。自分が起こした裏切りも、年若の令嬢の未来に疵を付けた責任も、何の説明も謝罪も言い訳すら為さぬままに、二年半の空白がこの一夜で何もかも無かった事になると思うのか。本気でそんな事を考えるのだとしたら、一層清々しい。この男を綺麗さっぱり忘れられる。
向き合う機会も耳を貸す事も、それは向かい合う相手と語る相手があってこそ出来る事で、ヘンリエッタはこの席に着いてから一度もハロルドと言葉を交わしていない。視線すら合わせていなかった。
とんだ茶番であった。今夜のうちに邸を出よう。直ぐ様修道院とは確かに無謀であるから、領地の叔父を頼って辻馬車で出よう。この家族もこの家も、自身に関わる全てから一旦離れて、王都から離れた土地でこれからの人生をしっかり考えよう。
「...うえ、姉上、」
思考に深く沈み込み、この後の算段をしていたヘンリエッタを、ウィリアムが呼ぶ。その声に我に返って顔を上げれば、父と母とハロルドがヘンリエッタを見つめていた。
母が眉を下げるもどうでも良いと思った。無神経で薄情な両親に心底愛想が尽きた。ヘンリエッタは一体どんな表情をしていたのか、父が眉を潜めた。それがまるでヘンリエッタの無作法を咎める様に見えて、そんな些細な事までヘンリエッタに小さな傷を付けた。
父は言ったではないか。
疵を疵のままにして、ヘンリエッタの本来あるべき幸せに影を差した王家には、煮え湯を飲まされた気持ちでいたと。それは果して王家ばかりであったのか。そこにハロルドは無関係だと言えるのか。
エドワード殿下の横槍に、事業転換まで考え王家に喧嘩を売った父の姿に、呆れながら感謝した。
向き合える時に向き合わなければと促したのは確かに父だが、全てを有耶無耶にしたまま無かった事にするのとは、それは意味が違うのだ。これまでの娘の何を見て、目の前の男に愛想を振り撒いているのだ。
「どうやら私、体調が優れない様です。失礼ながらこれにて退席させて頂きます。ダウンゼン伯爵ご令息様、どうぞこの後も御食事を楽しんで行かれて下さいませ。」
そのまま音を立てずに席を外し、ヘンリエッタは食堂の出口へ向かった。
姉上、とウィリアムが小さく囁く声以外は、何も聴こえなかった。執事と給仕が顔色を変えるも、掛ける言葉は思い付かなかった。
廊下に出ればブリジットが硬い表情で立っていた。足早に自室に戻るヘンリエッタの後を、ブリジットが追って来る。
「今夜出るわ。」
「お嬢様、」
「辻馬車をお願い。」
「なりませんっ、それだけはなりませんっ、」
「ここに居たくはないの。誰も知らない所へ行きたいの。全部捨ててしまいたいの。」
「私がお供を致します。お嬢様、私を置いて行かれるのですかっ、」
「貴女には夫がいるでしょう。家族がいるわ。」
「お嬢様様にもご家族様がおられます。」
「あれは家族なのかしら。知らない人達に思えたわ。」
自室の扉が見えて来て、ドアノブに手を掛けたところで徐ろにその手を後ろから伸びた手が覆う。大きな手の平が、すっぽりとヘンリエッタの手を包み込んだ。
「ヘンリエッタ、」
息を弾ませているのが背中でも解った。ここまで走って来たのか。速歩きとはいえ、令嬢のヘンリエッタの歩く速度に成人した男性が駆けねば追い付かないというのは、今さっきまであの晩餐の続きをしていたからだろう。
「ここは殿方のお入りになる部屋ではございません。お手をお離し下さい。」
背を向けたままそう言えば、
「話しがしたい」
と、ハロルドは整わぬ息のまま言った。
「お話しなら、しておられましたでしょう。」
両親と和やかな歓談をしていたではないか。
「お客様、お手を離して頂けないのなら、騎士を呼ばねばなりません。ブリジット。」
ブリジットに護衛を呼ぶ様、声を掛ける。
「私は君と会うために来たんだ。」
荒い息が漸く整ったハロルドは、頼む、とヘンリエッタの耳元で囁いた。懇願にも似た声音が耳の奥に響いて消えた。
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