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ヘンリエッタが傷付かなかったと、どうして誰も思わないのか。
泣いて泣いて泣き濡れた。
瞼が開かぬ程泣き明かして、泉が枯れるように涙は乾いた。きっとあの時、一生分の涙を流し尽くしたのだろう。何故ならあれからヘンリエッタは、一度だって泣いていない。大好きだった恋愛小説を読んでも流行りの舞台を観劇しても、感動も感激もちゃんと感じる事は出来るのに、ひと粒の涙も零れ落ちる事は無くなった。
心の何処かが欠けてしまって思うのは、元々自分とはそれほど面白みのある娘ではなかったのだろうと言うことだった。三つ年下の婚約者に、年齢よりも大人のハロルドは面白みも慈しみも、そうして愛情も感じる事が出来なかったのだろう。
二年のうちに涙はきちんと乾いてくれて、もう悲しみに泣くことは無いと思えた。そうして残る半年で学園を卒業するヘンリエッタには、まともな縁談が巡って来ることは無いのだと諦めがついた。
手に職を得るべきだと思い母に相談した際には、とんでも無いと止められた。
「でも、お母様。私きっと売れ残るわ。それは自信があるのよ。こんな行かず後家の姉が残っていては後を継ぐウィリアムの迷惑になってしまうわ。」
「ヘンリエッタ。貴女は行かず後家などではなくてよ。華の学園生なのよ。貴女の未来は明るいわ。」
「私にはそんな風には思えないわ。私の人生、最早夕暮れよ。秋の夕暮れ、釣瓶落としよ。黙っていては宵闇真っしぐらだわ。ガヴァネスは無理でも侍女なんてどうかしら。」
「駄目よ、駄目駄目。それに、伯爵家出身の貴女がなれる侍女なんて公爵家か侯爵家、それか王城勤めでしょう。お城にお勤めとなれば通いは無理よ。場合によっては王族にも近く侍る事もあるでしょう。それでも良いの?」
「あー、えーと、それは良くないかも。」
「貴女は何も案ずる事は無いわ。ウィリアムだって貴女を大切な姉だと思っているのよ。それに貴女は売れ残りません。きっちり完売するでしょう。」
「怪しい占い師みたいな事を仰らないで。」
「何も心配しないで、貴女はよく寝て食べて健やかにいるだけで、世界は貴女のために回ってくれるわ。」
「怪しいペテン師の台詞だわ。」
埒が明かない母との話しを切り上げた翌週に、あの腹立たしい文が届けられたのであった。
第二王子殿下とは因縁がある。
ヘンリエッタとの婚約を解消した後に、ハロルドは第二王子殿下の側近となった。そうしてその半年後、第二王子殿下はあの隣国第二王女と真逆の婚約を果たす。
ヘンリエッタからハロルドを奪った隣国王女をハロルドから奪った第二王子殿下。
弱肉強食、食物連鎖を絵に描いた様に、弱者はヘンリエッタでいい食い物にされた気分であった。
ハロルドの気持ちは解らない。彼とは道を違えたし二度と交わる事は無いと思っていた。
第二王子殿下だって、ハロルドとヘンリエッタの婚約は知っていた筈である。だから今回届いた文には『再婚約』だなんて巫山戯た文字が認められていたのだろう。
そんな事なら最初から、第二王子殿下が隣国第二王女殿下と婚約してくれたら良かったのだ。
そこまで考えて、ヘンリエッタは思い留まる。
そんな事になったとして、ハロルドが王女に心惹かれてしまうのは止められる訳ではなかったろう。そのまま婚姻を結んでも身体ばかりはヘンリエッタの下にあっても、その心は仕える主の妻の姿に恋い焦がれているのだとしたら、ヘンリエッタはその方が余程惨めで哀しい事だと思った。
だからこれで良かったのだ。
ハロルドとの婚約を解消して良かったのだ。
そう思ってこの二年、欠けた心を抱き締めて時が傷を癒すのを頼みに生きてきた。
全部今更なのだ。それを何故今になって第二王子殿下はハロルドとの再婚約を勧めるのか。
それは先日、隣国王女との婚姻の日取りが定まった事で、潰えた恋人達の縁を結んでやろうなどとお節介な勘違いをしているのだとしたら、一層修道院にでも駆け込んで、決して言うがままにはされるまいと思った。
それに、父も父である。
ハロルドが同じ事を引き起こさないと何故思うのか。
酒と金と女の癖は生涯治らぬ病であると、何処かの小説の台詞にあった。
全くもってそうである。
誠実で穏やかな婚約者だと信じたハロルドは、いとも容易く他に想いを移してしまった。そうしてそれは父も同じで、母を娶っておきながら別邸には長く付き合う愛人を囲っている。
ヘンリエッタが知らないと思ったのか。涙する母の背を幼い子供が見なかったと思うのか。
浮気者の父に浮気者の元婚約者の事を信じろと言われても、全然全く信じられない。
そこまで考えて、ああ、そうだ。父とハロルドでは違うのだと思い至った。
父は母から他所に愛を移したのかも知れない。
けれどもハロルドは、最初からヘンリエッタに愛など得ていなかったのかも知れない。未熟で幼い婚約者とは礼節をもって付き合ったのだろうが、彼の愛とは初めからヘンリエッタに向けられてはいなかったのではなかろうか。
そう思うと、ハロルドもまた、隣国王女に心を移された、同じ傷を持つ同士に違いないのだと思って、それもそれで泣けて来た。涙は一滴も零れる事はなかったけれど。
泣いて泣いて泣き濡れた。
瞼が開かぬ程泣き明かして、泉が枯れるように涙は乾いた。きっとあの時、一生分の涙を流し尽くしたのだろう。何故ならあれからヘンリエッタは、一度だって泣いていない。大好きだった恋愛小説を読んでも流行りの舞台を観劇しても、感動も感激もちゃんと感じる事は出来るのに、ひと粒の涙も零れ落ちる事は無くなった。
心の何処かが欠けてしまって思うのは、元々自分とはそれほど面白みのある娘ではなかったのだろうと言うことだった。三つ年下の婚約者に、年齢よりも大人のハロルドは面白みも慈しみも、そうして愛情も感じる事が出来なかったのだろう。
二年のうちに涙はきちんと乾いてくれて、もう悲しみに泣くことは無いと思えた。そうして残る半年で学園を卒業するヘンリエッタには、まともな縁談が巡って来ることは無いのだと諦めがついた。
手に職を得るべきだと思い母に相談した際には、とんでも無いと止められた。
「でも、お母様。私きっと売れ残るわ。それは自信があるのよ。こんな行かず後家の姉が残っていては後を継ぐウィリアムの迷惑になってしまうわ。」
「ヘンリエッタ。貴女は行かず後家などではなくてよ。華の学園生なのよ。貴女の未来は明るいわ。」
「私にはそんな風には思えないわ。私の人生、最早夕暮れよ。秋の夕暮れ、釣瓶落としよ。黙っていては宵闇真っしぐらだわ。ガヴァネスは無理でも侍女なんてどうかしら。」
「駄目よ、駄目駄目。それに、伯爵家出身の貴女がなれる侍女なんて公爵家か侯爵家、それか王城勤めでしょう。お城にお勤めとなれば通いは無理よ。場合によっては王族にも近く侍る事もあるでしょう。それでも良いの?」
「あー、えーと、それは良くないかも。」
「貴女は何も案ずる事は無いわ。ウィリアムだって貴女を大切な姉だと思っているのよ。それに貴女は売れ残りません。きっちり完売するでしょう。」
「怪しい占い師みたいな事を仰らないで。」
「何も心配しないで、貴女はよく寝て食べて健やかにいるだけで、世界は貴女のために回ってくれるわ。」
「怪しいペテン師の台詞だわ。」
埒が明かない母との話しを切り上げた翌週に、あの腹立たしい文が届けられたのであった。
第二王子殿下とは因縁がある。
ヘンリエッタとの婚約を解消した後に、ハロルドは第二王子殿下の側近となった。そうしてその半年後、第二王子殿下はあの隣国第二王女と真逆の婚約を果たす。
ヘンリエッタからハロルドを奪った隣国王女をハロルドから奪った第二王子殿下。
弱肉強食、食物連鎖を絵に描いた様に、弱者はヘンリエッタでいい食い物にされた気分であった。
ハロルドの気持ちは解らない。彼とは道を違えたし二度と交わる事は無いと思っていた。
第二王子殿下だって、ハロルドとヘンリエッタの婚約は知っていた筈である。だから今回届いた文には『再婚約』だなんて巫山戯た文字が認められていたのだろう。
そんな事なら最初から、第二王子殿下が隣国第二王女殿下と婚約してくれたら良かったのだ。
そこまで考えて、ヘンリエッタは思い留まる。
そんな事になったとして、ハロルドが王女に心惹かれてしまうのは止められる訳ではなかったろう。そのまま婚姻を結んでも身体ばかりはヘンリエッタの下にあっても、その心は仕える主の妻の姿に恋い焦がれているのだとしたら、ヘンリエッタはその方が余程惨めで哀しい事だと思った。
だからこれで良かったのだ。
ハロルドとの婚約を解消して良かったのだ。
そう思ってこの二年、欠けた心を抱き締めて時が傷を癒すのを頼みに生きてきた。
全部今更なのだ。それを何故今になって第二王子殿下はハロルドとの再婚約を勧めるのか。
それは先日、隣国王女との婚姻の日取りが定まった事で、潰えた恋人達の縁を結んでやろうなどとお節介な勘違いをしているのだとしたら、一層修道院にでも駆け込んで、決して言うがままにはされるまいと思った。
それに、父も父である。
ハロルドが同じ事を引き起こさないと何故思うのか。
酒と金と女の癖は生涯治らぬ病であると、何処かの小説の台詞にあった。
全くもってそうである。
誠実で穏やかな婚約者だと信じたハロルドは、いとも容易く他に想いを移してしまった。そうしてそれは父も同じで、母を娶っておきながら別邸には長く付き合う愛人を囲っている。
ヘンリエッタが知らないと思ったのか。涙する母の背を幼い子供が見なかったと思うのか。
浮気者の父に浮気者の元婚約者の事を信じろと言われても、全然全く信じられない。
そこまで考えて、ああ、そうだ。父とハロルドでは違うのだと思い至った。
父は母から他所に愛を移したのかも知れない。
けれどもハロルドは、最初からヘンリエッタに愛など得ていなかったのかも知れない。未熟で幼い婚約者とは礼節をもって付き合ったのだろうが、彼の愛とは初めからヘンリエッタに向けられてはいなかったのではなかろうか。
そう思うと、ハロルドもまた、隣国王女に心を移された、同じ傷を持つ同士に違いないのだと思って、それもそれで泣けて来た。涙は一滴も零れる事はなかったけれど。
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