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第29話
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オリュクスは久し振りの疾走に、文字通り我を忘れていた。
アフリカの大地と違い、氷は足の爪で掴みにくい──そう思ったのは走り始めの何分、いや何秒かの間だけで、その後はすっかり慣れてしまった。氷の上で走るコツは、前足を振り出すたび、そして後ろ足を蹴り上げるたび身についてゆき、一個めの氷を駆け抜ける頃には、もうそこは彼の『よく通る道』の一つと化していたのだ。
レイヴンがそうしてくれたおかげで、というのはオリュクスの知らぬところではあったが、寒くもなく、走るのにちょうどいい、快適な気温、気候だと感じられた。
二個目の氷を駆け抜ける。
氷は分厚く、中には山のように海上に聳え立つものもある。オリュクスはいろんな形の氷の上を走り、コツを掴み、どんどんスピードアップしていった。
「あはははははは」大声で笑う。
笑いながら全速力で走るのは、本当に久し振りだ。
サバンナもよかったが、ここも楽しい!
そして三個目の氷を駆け抜け──ようとした時、それはそこにいた。
「うわっ!」オリュクスは叫び、爪を氷に突き立て全身全霊をかけて減速、停止した。
そこには、生きものがいた。氷の上に、寝そべっている。
ゆっくりと顔をこちらに向けたその生きものは、今までに見たことのない形をしていた。
強いていうなら、カバに似ているか──しかしカバよりは大分細い体躯をしている。
それに顔は、カバとはまったく似ておらず、今までに見た中では、そう──イヌ科に少し似ている。目鼻口の位置なんかが──でも耳はない。いやどこかにあるのかも知れないが、イヌ科のように三角形で頭上に突き立ってはいない。頭はつるんとしている。
イヌ科だったら、レイヴンが大変なんだよな──
そんなことをふと思った時、
「オキアミ?」
その生きものはだし抜けにそう言った。
「え?」オリュクスは氷に爪を突き立てたまま、目を丸くした。「なに?」
「オキアミ食べにきたの?」生きものもまた目をくりくりとまん丸に見開き、もう一度声をかけてきた。「この下にいるよ。いっぱい」
「なにが?」オリュクスは相変わらず、相手の言う意味がわからずにいた。
「オキアミ」生きものはその単語を三度目に言った。
「オキアミ」オリュクスはなんとかそれを復唱し「って、なに?」と質問した。
「──」生きものは黙って自分の体の下にある氷を見下ろした。
「?」オリュクスは不思議に思い、自分もそれに倣って爪を立てている氷を見下ろした。「──あ」
氷の下、海の中に、たくさんの小さなものがうごめき、ひしめき合っている。なんだろう、虫? 大きさはオリュクスの前足で踏むとちょうどぴったり隠れそうなくらいで、端っこがなんだかとげとげしている。
「うひゃあ」オリュクスは感嘆の声を挙げた。「いっぱいいる! なんだこれ」
「オキアミ」カバとイヌ科に似た生きものはその単語を四度目に言った。「食べる?」
「えっ」オリュクスはびっくりして相手を見、また氷の下の、オキアミというらしい小さな生きもの群を見下ろした。「どうやって食べるの?」
「えとね」カバとイヌ科に似た生きものは少しだけ間を置き「ざばんって行って、あーってやって、ぶしゅーってして、ごくんってするの」と説明した。
「──」哀しいことにオリュクスにはまったく理解できなかった。
「オリュクス!」その時、レイヴンの声がやっと追いついてきたのだった。「待ちたまえよ、君!」
「レイヴン」オリュクスは、一刻も早く今見聞きした最新情報を伝えたくなった、だがレイヴンはこの見知らぬイヌ科を見てもどうもならないだろうか?
「ああ、やっと追いついた」レイヴンはずいぶんと疲れているようだった。「あれ、ああ、どうもこんにちは」そしてすぐにオリュクスの前に寝そべっている生きものの存在に気づく。「カニクイアザラシさん」
「オキアミ?」カニクイアザラシと呼ばれた生きものはレイヴンに対しても同じ単語を言った。彼に取ってはその単語が挨拶なのかも知れない。
「オキア、あ、いえ我々はただの通りすがりです」不思議なことにレイヴンには、その挨拶が通じたようだった。「オキアミを食べに来たわけではないんですよ」
「──」カニクイアザラシはじっとレイヴンを見上げたまま、特になにも言わなかった。
「ねえレイヴン」オリュクスは訊いた。「彼はイヌ科じゃないの? 大丈夫?」
「え」レイヴンは一瞬きょとんとしたが、すぐに「ああ、ははは。彼はアザラシ科だよ、まあイヌと同じ食肉目だけどね──ぼくのことを心配してくれたのかい、オリュクス?」と笑う。
「うん」オリュクスは頷く。「大丈夫なら、よかった」それから改めてカニクイアザラシに振り向く。「はじめまして。ぼくはオリュクス」
「オキアミ食べないの?」カニクイアザラシは問うてきた。
そんなに──オリュクスの心の中に、ふっと暖かい灯のようなものが現れた。「そんなにおいしいの? オキアミって」
「──」それまでずっと寝そべっていたカニクイアザラシは、オリュクスの問いを聞いたとたんがばっと身を起こした。「うん!」大きく叫ぶ。「おいしい!」
「へえー」オリュクスの目にも灯が現れる。
「いや」レイヴンの心中には闇が訪れた。「オリュクス、君は」
「こっち!」カニクイアザラシは言ったかと思うとざばんと海中に飛び降りた。
「やめなさい!」レイヴンの制止の叫びは、南極の海の上に躍り出たオリュクスの背に掴みかかったが、カニクイアザラシの半分ほどにも満たないその体を支え持ち上げることはできなかった。
アフリカの大地と違い、氷は足の爪で掴みにくい──そう思ったのは走り始めの何分、いや何秒かの間だけで、その後はすっかり慣れてしまった。氷の上で走るコツは、前足を振り出すたび、そして後ろ足を蹴り上げるたび身についてゆき、一個めの氷を駆け抜ける頃には、もうそこは彼の『よく通る道』の一つと化していたのだ。
レイヴンがそうしてくれたおかげで、というのはオリュクスの知らぬところではあったが、寒くもなく、走るのにちょうどいい、快適な気温、気候だと感じられた。
二個目の氷を駆け抜ける。
氷は分厚く、中には山のように海上に聳え立つものもある。オリュクスはいろんな形の氷の上を走り、コツを掴み、どんどんスピードアップしていった。
「あはははははは」大声で笑う。
笑いながら全速力で走るのは、本当に久し振りだ。
サバンナもよかったが、ここも楽しい!
そして三個目の氷を駆け抜け──ようとした時、それはそこにいた。
「うわっ!」オリュクスは叫び、爪を氷に突き立て全身全霊をかけて減速、停止した。
そこには、生きものがいた。氷の上に、寝そべっている。
ゆっくりと顔をこちらに向けたその生きものは、今までに見たことのない形をしていた。
強いていうなら、カバに似ているか──しかしカバよりは大分細い体躯をしている。
それに顔は、カバとはまったく似ておらず、今までに見た中では、そう──イヌ科に少し似ている。目鼻口の位置なんかが──でも耳はない。いやどこかにあるのかも知れないが、イヌ科のように三角形で頭上に突き立ってはいない。頭はつるんとしている。
イヌ科だったら、レイヴンが大変なんだよな──
そんなことをふと思った時、
「オキアミ?」
その生きものはだし抜けにそう言った。
「え?」オリュクスは氷に爪を突き立てたまま、目を丸くした。「なに?」
「オキアミ食べにきたの?」生きものもまた目をくりくりとまん丸に見開き、もう一度声をかけてきた。「この下にいるよ。いっぱい」
「なにが?」オリュクスは相変わらず、相手の言う意味がわからずにいた。
「オキアミ」生きものはその単語を三度目に言った。
「オキアミ」オリュクスはなんとかそれを復唱し「って、なに?」と質問した。
「──」生きものは黙って自分の体の下にある氷を見下ろした。
「?」オリュクスは不思議に思い、自分もそれに倣って爪を立てている氷を見下ろした。「──あ」
氷の下、海の中に、たくさんの小さなものがうごめき、ひしめき合っている。なんだろう、虫? 大きさはオリュクスの前足で踏むとちょうどぴったり隠れそうなくらいで、端っこがなんだかとげとげしている。
「うひゃあ」オリュクスは感嘆の声を挙げた。「いっぱいいる! なんだこれ」
「オキアミ」カバとイヌ科に似た生きものはその単語を四度目に言った。「食べる?」
「えっ」オリュクスはびっくりして相手を見、また氷の下の、オキアミというらしい小さな生きもの群を見下ろした。「どうやって食べるの?」
「えとね」カバとイヌ科に似た生きものは少しだけ間を置き「ざばんって行って、あーってやって、ぶしゅーってして、ごくんってするの」と説明した。
「──」哀しいことにオリュクスにはまったく理解できなかった。
「オリュクス!」その時、レイヴンの声がやっと追いついてきたのだった。「待ちたまえよ、君!」
「レイヴン」オリュクスは、一刻も早く今見聞きした最新情報を伝えたくなった、だがレイヴンはこの見知らぬイヌ科を見てもどうもならないだろうか?
「ああ、やっと追いついた」レイヴンはずいぶんと疲れているようだった。「あれ、ああ、どうもこんにちは」そしてすぐにオリュクスの前に寝そべっている生きものの存在に気づく。「カニクイアザラシさん」
「オキアミ?」カニクイアザラシと呼ばれた生きものはレイヴンに対しても同じ単語を言った。彼に取ってはその単語が挨拶なのかも知れない。
「オキア、あ、いえ我々はただの通りすがりです」不思議なことにレイヴンには、その挨拶が通じたようだった。「オキアミを食べに来たわけではないんですよ」
「──」カニクイアザラシはじっとレイヴンを見上げたまま、特になにも言わなかった。
「ねえレイヴン」オリュクスは訊いた。「彼はイヌ科じゃないの? 大丈夫?」
「え」レイヴンは一瞬きょとんとしたが、すぐに「ああ、ははは。彼はアザラシ科だよ、まあイヌと同じ食肉目だけどね──ぼくのことを心配してくれたのかい、オリュクス?」と笑う。
「うん」オリュクスは頷く。「大丈夫なら、よかった」それから改めてカニクイアザラシに振り向く。「はじめまして。ぼくはオリュクス」
「オキアミ食べないの?」カニクイアザラシは問うてきた。
そんなに──オリュクスの心の中に、ふっと暖かい灯のようなものが現れた。「そんなにおいしいの? オキアミって」
「──」それまでずっと寝そべっていたカニクイアザラシは、オリュクスの問いを聞いたとたんがばっと身を起こした。「うん!」大きく叫ぶ。「おいしい!」
「へえー」オリュクスの目にも灯が現れる。
「いや」レイヴンの心中には闇が訪れた。「オリュクス、君は」
「こっち!」カニクイアザラシは言ったかと思うとざばんと海中に飛び降りた。
「やめなさい!」レイヴンの制止の叫びは、南極の海の上に躍り出たオリュクスの背に掴みかかったが、カニクイアザラシの半分ほどにも満たないその体を支え持ち上げることはできなかった。
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