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第19話 働けど働けど尚楽にならざる我が暮らしよ何とかなーあれっ
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「あれ、店長。おはようございます」板長が厨房に入って来るなり眼を丸くする。「びっくりしたあ。シャッター開いてるから」
「魚泥棒が来たとでも思った?」酒林は調理台に向かって包丁を振るいながら笑顔で答える。
「いや、そんな、はは」板長はスーパーの白いポリ袋を三つも提げて来ており、それらを別の調理台の上にどさどさと置きつつ苦笑する。「今日、燻蒸の予約日だったっけかなーとか思って」それから酒林の横に近づく。「お、鯛ですか」
「そ」酒林は頷く。魚をさばく手さばきは一糸も乱れず、板長が思わず見入ってしまうほど鮮やかだ。「歓迎会だからね」
「ああ、入社『めで鯛』っていう」
「いや」首を軽く振る。「『き鯛し鯛』って方」
「なるほど」板長はしみじみと頷く。「覚悟のほどを見せてもらおうか、と」
「まあ、取り敢えず普通に出社して普通に勤務してくれりゃ、良いんだけどね」
「それが一番難しいことなんですよねえ。特に若い者には」板長はまた苦笑する。
「普通、ってのがどこまでなのかの判断が、人それぞれだったりもするしね」魚はどんどんおろされてゆき、半透明の刺身が有田焼の皿の上に並べられてゆく。
「で、その鯛って、恵比寿さんが釣ってきた奴ですか?」板長は俎板の上の魚を指差して問う。
「――」酒林はにやり、と笑うがすぐには答えず「ざんねーん! これは市場で買って来たものなんですねー」とクイズ番組の司会者の口真似をする。
「あ、そうですか」板長は笑う。
「鹿島さんが地方に出張中だから今釣りとかできないのよ、彼」酒林は説明する。「また鯛釣れたつって酒呑んでまた“やらかし”たらコトだからさ」
鯛が釣れていなくとも恵比寿が今回“やらかし”た事について、未だ酒林は知らないのだった。そんな話をしている内に、鯛の活造りは完成し、皿の上から巨大なラップがかけられた。
「いやー、久しぶりに店長の仕事見させてもらいましたよ。お見事」板長が称賛する。
「ま、たまにはねー。基本はバイト並みだけど」酒林もまんざらではなさそうな顔をする。
「またー」板長は諌める。「そんなブラッキーな発言を」
「いんにゃー、うちの本業に比べたらこの世の企業すべて、ホワイトよ。真っ白け」
「いやいや」板長は苦笑するが――否定までは、できずにいた。
ブラック企業……といっていいものかどうか、だが確かに酒林の勤める“本業”の方では、話を聞く限りどうも新入社員の離職率が半端なく高いらしい。とはいえ具体的に何をする会社なのかまでは、長い付き合いにも関わらずいまだ聞いたことがないのだが。酒林はその辺りの事を、実に巧妙にかわすのだ。
「さてさて、あと魚何があるっけか」酒林は手早く調理器具を洗いながら明るく仕事を続ける。
◇◆◇
男は駅構内を、キャリーケースをごろごろと引きながら特段迷う風でもなくすたすた歩いて行く。やがて乗換え先の改札を、やはり迷いもなく抜け、キャリーケースを手に提げてエスカレータに乗る。ホームに上がってからもケースを手に提げたまま、先頭車両の一番前のドアが停まる位置まで、やはり迷いもなく歩く。
「歓迎会、か」歩きながら、独り呟く。「それにしても、相変わらず急に決まるよのう」と、そこで初めて男は足を止め視線を横に滑らせた。
視線の先にあるのは、自販機だ。男は目指す停止位置に着く前に、缶コーヒーを一本買った。
「晴天の霹靂(へきれき)たるレベルよの。いつもの事ではあるが」コーヒー缶を取り出しながら、また独り呟く。
それを持ち、キャリーケースはまた転がすことにして、漸く目的の先頭ドア停止位置に辿り着き、缶を開ける。くびくび、と二、三口飲む。ふう、と息をつく。
「まあ、それに対応し得る、我が支社の業務形態もまた如何、であるがの」
数分後に到着した電車――の、先頭車両の一番前側――に男は乗り込み、コーヒー缶を器用に口に銜えた状態で、運転席に一番近い網棚の上にキャリーケースを軽々と持ち上げて載せ、運転席に一番近い席に腰を下ろした。下ろす間際、ちらりとガラス越しに、これから向かう先の線路が前方にずっと伸びている様を視界に映す。他に乗客がいなければ、ずっと運転室のドアに張り付いて前方の景色を眺めていたいのだが、少なめとはいえ乗客もいるこの場では、大人しく常識ある行動を取ることに努めるのだった。
――まあ、精々歓迎してやるわ。新人ども。
コーヒーをちびりちびりと飲みながら、心の中でそっと呟く。
電車は、走り出した。窓の外の空は、青い。まことに晴天だ。だが今新入社員たちは、この空の色を見るでもなく、この足下遥か下で、この世のものとも思えぬ物や現象に出くわし、肝を冷やしているところなのだろう。
――無事に、来るがよい。歓迎会に。
空を眺めつつ、ふう、と小さく息をつく。
――お前たちの歓迎会であるのだからの。
五駅目で、男は電車を降りた。エスカレータで降り、通路を歩き改札口の方へ曲がったとたん「おう」と声を挙げる。
改札の向こうに、約束も期待もしていなかった“迎え”の者が、いたのだ。
「大山よ」歩きながら片手を挙げる。「すまんの」
「宗像(むなかた)さん」迎えの者も手を上げ笑顔を返す。「お疲れです」
「わざわざ来てくれたか」宗像は駅前に駐車されていた大山のセダンに荷物を載せ、自分も後部席に乗り込んだ。
「いやいや、こっちこそ急に呼んでしまってすいません」大山は車を滑るように走らせる。「グリーン車で来ました?」
「いや」宗像は笑った。「新幹線ではちと間に合わぬかと思うて、途中までは空を飛んで来たわ」
「あー、ですよねえ」大山は苦笑する。「俺もつい天津に『今日か明日、歓迎会やるから新人に都合聞いて来い』って言っちゃったけど、まさか新人が『今日がいい』なんて言うとは思わなくて」
「はははは」宗像は大笑いする。「ポジティブじゃの、此度の新人ども」
「そうすね」大山も笑う。「そんで空って、大丈夫でした? ぶつからなかったすか? 民間機とか」ハンドルを緩やかに切りつつ訊く。
「なんのこれしき」宗像は腕組みして身を反らせる。「如何に年を喰うたと言えど、さように低空飛行すべきほど体力落ちてはおらぬ」
「これは、失礼致しました」大山はすぐに詫びる。「天下の大軍神様に、大それたことを申し上げてしまいました」
「気にするな」宗像はそういうが、彼の中の自負心は疑いのないものであった。「しかし昨今は、宇宙ステーションの方に注意せねばならぬからの」指を空に向ける。
「ああそうか。NASAとかに見つかっても面倒ですしね」
そんな会話を続けながら、大山の車は会社の敷地内へと入っていく。彼らのいう『空を飛んで来た』とは、『宇宙を飛んで来た』という事のようだった。
「新人どもは今は地下に潜っとるのか」宗像はキャリーケースをトランクから引っ張り出しながら訊く。
「ああ、そうですね。後半部分をやってるのかな」大山はトランクのドアを閉めながら答える。
「後半部分とは」
「洞窟イベントの実技演習ですよ。開いた岩の中で、地球と対話する部分」
「おお」宗像は納得して頷く。「まさに命懸けておるところか」
「はは」大山は眉尻を下げる。「まあ、天津が付いてるから無事終わるでしょう」
◇◆◇
当の新人たちに『まさに命懸けている』という自覚は、無論のこと微塵もなかった。ただ彼らは、揃って“それ”を凝視していた。“それ”――否、“彼”を、だ。
「あれは……?」最初に茫然と口にしたのは、結城だった。
そこはエレベータホールからドアを開け洞窟内に入り込み、ほんの数メートルほど進んだ所だった。
“彼”は、結城らの進む方向、五メートルほど先に、佇んでいた。ぼんやりと、俯いている。眩しいライトの光が揺らめきながら近づいて来るにも関わらず、顔をこちらに挙げることも、腕で眼を覆うこともしない。
一行は、午前中に遭遇した土偶のおかげでさほど度肝を抜かれることはなかったが、土偶のときとはまた別の、不気味さ、警戒心、そして戦慄をそれぞれ心に抱かずにいられなかった。
「人間?」結城に続き口にしたのは、時中だった。
「社員の方でしょうか」本原も続ける。
「いや」天津も首を傾げる。「うちの社の者では、ないですね。誰だろう」
「えっ」結城が声を上げ、三人の新人は一斉に研修担当を振り向いた。「不法侵入者っすか」
「うーん」天津は尚訝りながらも、先に立ち“彼”に近づいていった。
新入社員たちは、そろそろとその後に続く。
「あれ」“彼”からほんの二メートルの位置まで来たところで、天津は声を挙げた。「泣いてる……?」
「えっ」すぐに結城が、天津の肩越しに首を伸ばして覗く。「あっほんとだ、泣いてる」
「泣いているな」時中も天津の横から上体を斜めに覗かせて言う。「何者なんだ」
「頬が涙で濡れています」本原も見たものを言葉で表現する。「哀しいのでしょうか」
「でもこんな洞窟の中で?」結城が疑問を口にする。「なんでまたわざわざこんな所に来てまで哀しんでるの? 彼」目の前の“彼”を指差す。
「借金を断られました」突然、その者は発言した。
何秒間か、沈黙が続く。
「借金?」最初に発言したのは、またしても結城だった。「ていうか、あなた誰?」
「――」男は、その時初めて一同に視線を向けた。それは、哀しげなというよりも、物憂げな、何かとてつもなく面倒な事情を抱えて悩んでいるような――要するに面倒臭そうな、厭世的な雰囲気を漂わせていた。「デモクラシイ思想のあまりの馬鹿さ加減にしてやられました」
「ああ」反応したのは天津だった。「わかった」
「えっ」結城が天津の横顔を見る。
「誰なんですか」時中も天津に問う。
「精霊?」本原が訊く。
「啄木ですね」天津は“彼”を見つめたまま、答えた。
「魚泥棒が来たとでも思った?」酒林は調理台に向かって包丁を振るいながら笑顔で答える。
「いや、そんな、はは」板長はスーパーの白いポリ袋を三つも提げて来ており、それらを別の調理台の上にどさどさと置きつつ苦笑する。「今日、燻蒸の予約日だったっけかなーとか思って」それから酒林の横に近づく。「お、鯛ですか」
「そ」酒林は頷く。魚をさばく手さばきは一糸も乱れず、板長が思わず見入ってしまうほど鮮やかだ。「歓迎会だからね」
「ああ、入社『めで鯛』っていう」
「いや」首を軽く振る。「『き鯛し鯛』って方」
「なるほど」板長はしみじみと頷く。「覚悟のほどを見せてもらおうか、と」
「まあ、取り敢えず普通に出社して普通に勤務してくれりゃ、良いんだけどね」
「それが一番難しいことなんですよねえ。特に若い者には」板長はまた苦笑する。
「普通、ってのがどこまでなのかの判断が、人それぞれだったりもするしね」魚はどんどんおろされてゆき、半透明の刺身が有田焼の皿の上に並べられてゆく。
「で、その鯛って、恵比寿さんが釣ってきた奴ですか?」板長は俎板の上の魚を指差して問う。
「――」酒林はにやり、と笑うがすぐには答えず「ざんねーん! これは市場で買って来たものなんですねー」とクイズ番組の司会者の口真似をする。
「あ、そうですか」板長は笑う。
「鹿島さんが地方に出張中だから今釣りとかできないのよ、彼」酒林は説明する。「また鯛釣れたつって酒呑んでまた“やらかし”たらコトだからさ」
鯛が釣れていなくとも恵比寿が今回“やらかし”た事について、未だ酒林は知らないのだった。そんな話をしている内に、鯛の活造りは完成し、皿の上から巨大なラップがかけられた。
「いやー、久しぶりに店長の仕事見させてもらいましたよ。お見事」板長が称賛する。
「ま、たまにはねー。基本はバイト並みだけど」酒林もまんざらではなさそうな顔をする。
「またー」板長は諌める。「そんなブラッキーな発言を」
「いんにゃー、うちの本業に比べたらこの世の企業すべて、ホワイトよ。真っ白け」
「いやいや」板長は苦笑するが――否定までは、できずにいた。
ブラック企業……といっていいものかどうか、だが確かに酒林の勤める“本業”の方では、話を聞く限りどうも新入社員の離職率が半端なく高いらしい。とはいえ具体的に何をする会社なのかまでは、長い付き合いにも関わらずいまだ聞いたことがないのだが。酒林はその辺りの事を、実に巧妙にかわすのだ。
「さてさて、あと魚何があるっけか」酒林は手早く調理器具を洗いながら明るく仕事を続ける。
◇◆◇
男は駅構内を、キャリーケースをごろごろと引きながら特段迷う風でもなくすたすた歩いて行く。やがて乗換え先の改札を、やはり迷いもなく抜け、キャリーケースを手に提げてエスカレータに乗る。ホームに上がってからもケースを手に提げたまま、先頭車両の一番前のドアが停まる位置まで、やはり迷いもなく歩く。
「歓迎会、か」歩きながら、独り呟く。「それにしても、相変わらず急に決まるよのう」と、そこで初めて男は足を止め視線を横に滑らせた。
視線の先にあるのは、自販機だ。男は目指す停止位置に着く前に、缶コーヒーを一本買った。
「晴天の霹靂(へきれき)たるレベルよの。いつもの事ではあるが」コーヒー缶を取り出しながら、また独り呟く。
それを持ち、キャリーケースはまた転がすことにして、漸く目的の先頭ドア停止位置に辿り着き、缶を開ける。くびくび、と二、三口飲む。ふう、と息をつく。
「まあ、それに対応し得る、我が支社の業務形態もまた如何、であるがの」
数分後に到着した電車――の、先頭車両の一番前側――に男は乗り込み、コーヒー缶を器用に口に銜えた状態で、運転席に一番近い網棚の上にキャリーケースを軽々と持ち上げて載せ、運転席に一番近い席に腰を下ろした。下ろす間際、ちらりとガラス越しに、これから向かう先の線路が前方にずっと伸びている様を視界に映す。他に乗客がいなければ、ずっと運転室のドアに張り付いて前方の景色を眺めていたいのだが、少なめとはいえ乗客もいるこの場では、大人しく常識ある行動を取ることに努めるのだった。
――まあ、精々歓迎してやるわ。新人ども。
コーヒーをちびりちびりと飲みながら、心の中でそっと呟く。
電車は、走り出した。窓の外の空は、青い。まことに晴天だ。だが今新入社員たちは、この空の色を見るでもなく、この足下遥か下で、この世のものとも思えぬ物や現象に出くわし、肝を冷やしているところなのだろう。
――無事に、来るがよい。歓迎会に。
空を眺めつつ、ふう、と小さく息をつく。
――お前たちの歓迎会であるのだからの。
五駅目で、男は電車を降りた。エスカレータで降り、通路を歩き改札口の方へ曲がったとたん「おう」と声を挙げる。
改札の向こうに、約束も期待もしていなかった“迎え”の者が、いたのだ。
「大山よ」歩きながら片手を挙げる。「すまんの」
「宗像(むなかた)さん」迎えの者も手を上げ笑顔を返す。「お疲れです」
「わざわざ来てくれたか」宗像は駅前に駐車されていた大山のセダンに荷物を載せ、自分も後部席に乗り込んだ。
「いやいや、こっちこそ急に呼んでしまってすいません」大山は車を滑るように走らせる。「グリーン車で来ました?」
「いや」宗像は笑った。「新幹線ではちと間に合わぬかと思うて、途中までは空を飛んで来たわ」
「あー、ですよねえ」大山は苦笑する。「俺もつい天津に『今日か明日、歓迎会やるから新人に都合聞いて来い』って言っちゃったけど、まさか新人が『今日がいい』なんて言うとは思わなくて」
「はははは」宗像は大笑いする。「ポジティブじゃの、此度の新人ども」
「そうすね」大山も笑う。「そんで空って、大丈夫でした? ぶつからなかったすか? 民間機とか」ハンドルを緩やかに切りつつ訊く。
「なんのこれしき」宗像は腕組みして身を反らせる。「如何に年を喰うたと言えど、さように低空飛行すべきほど体力落ちてはおらぬ」
「これは、失礼致しました」大山はすぐに詫びる。「天下の大軍神様に、大それたことを申し上げてしまいました」
「気にするな」宗像はそういうが、彼の中の自負心は疑いのないものであった。「しかし昨今は、宇宙ステーションの方に注意せねばならぬからの」指を空に向ける。
「ああそうか。NASAとかに見つかっても面倒ですしね」
そんな会話を続けながら、大山の車は会社の敷地内へと入っていく。彼らのいう『空を飛んで来た』とは、『宇宙を飛んで来た』という事のようだった。
「新人どもは今は地下に潜っとるのか」宗像はキャリーケースをトランクから引っ張り出しながら訊く。
「ああ、そうですね。後半部分をやってるのかな」大山はトランクのドアを閉めながら答える。
「後半部分とは」
「洞窟イベントの実技演習ですよ。開いた岩の中で、地球と対話する部分」
「おお」宗像は納得して頷く。「まさに命懸けておるところか」
「はは」大山は眉尻を下げる。「まあ、天津が付いてるから無事終わるでしょう」
◇◆◇
当の新人たちに『まさに命懸けている』という自覚は、無論のこと微塵もなかった。ただ彼らは、揃って“それ”を凝視していた。“それ”――否、“彼”を、だ。
「あれは……?」最初に茫然と口にしたのは、結城だった。
そこはエレベータホールからドアを開け洞窟内に入り込み、ほんの数メートルほど進んだ所だった。
“彼”は、結城らの進む方向、五メートルほど先に、佇んでいた。ぼんやりと、俯いている。眩しいライトの光が揺らめきながら近づいて来るにも関わらず、顔をこちらに挙げることも、腕で眼を覆うこともしない。
一行は、午前中に遭遇した土偶のおかげでさほど度肝を抜かれることはなかったが、土偶のときとはまた別の、不気味さ、警戒心、そして戦慄をそれぞれ心に抱かずにいられなかった。
「人間?」結城に続き口にしたのは、時中だった。
「社員の方でしょうか」本原も続ける。
「いや」天津も首を傾げる。「うちの社の者では、ないですね。誰だろう」
「えっ」結城が声を上げ、三人の新人は一斉に研修担当を振り向いた。「不法侵入者っすか」
「うーん」天津は尚訝りながらも、先に立ち“彼”に近づいていった。
新入社員たちは、そろそろとその後に続く。
「あれ」“彼”からほんの二メートルの位置まで来たところで、天津は声を挙げた。「泣いてる……?」
「えっ」すぐに結城が、天津の肩越しに首を伸ばして覗く。「あっほんとだ、泣いてる」
「泣いているな」時中も天津の横から上体を斜めに覗かせて言う。「何者なんだ」
「頬が涙で濡れています」本原も見たものを言葉で表現する。「哀しいのでしょうか」
「でもこんな洞窟の中で?」結城が疑問を口にする。「なんでまたわざわざこんな所に来てまで哀しんでるの? 彼」目の前の“彼”を指差す。
「借金を断られました」突然、その者は発言した。
何秒間か、沈黙が続く。
「借金?」最初に発言したのは、またしても結城だった。「ていうか、あなた誰?」
「――」男は、その時初めて一同に視線を向けた。それは、哀しげなというよりも、物憂げな、何かとてつもなく面倒な事情を抱えて悩んでいるような――要するに面倒臭そうな、厭世的な雰囲気を漂わせていた。「デモクラシイ思想のあまりの馬鹿さ加減にしてやられました」
「ああ」反応したのは天津だった。「わかった」
「えっ」結城が天津の横顔を見る。
「誰なんですか」時中も天津に問う。
「精霊?」本原が訊く。
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