車内

古葉レイ

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「日本人は英語なんて覚えなくても生きていけると思うな」
 薄暗い車内の助手席で、私は運動不足で華奢な腕を組み、小さく吐き捨てた。前方の信号が赤になり、流れるように車が止まる。母の数倍丁寧な運転をお尻と背中で感じながら、右を見る先にあるのは、大人の男の横顔だった。
「そんなに英語は嫌いか?」
「そもそも勉強が嫌い」
 私よりも多くの経験を経た英二さんは、子供の愚痴に失笑を零す。馬鹿にしているというより、面白がっているに違いない。
「塾も親に言われて仕方なく行くだけだもの」
 目の前の歩道を小学生の数人が歩いている。背中にある鞄は、彼らも塾に向かっているようだった。最近の子供は、勉強ばかりだ。彼をチラ見する先にあるのは、ハンドルに身を預けてこちらを凝視する英二さんの真顔だ。
「なに?」
「さくらは偉いなぁと思って」
 嫌々でもちゃんと行くのは偉い、と英二さんが関心して見せる。それが嬉しくて、ちゃんと通っていると知ったら、彼は笑うだろうか。
「勉強しろって言わないの?」
「するんだろう? 今から塾だし」
 車が緩やかに動き出す。私は週に三回、英二さんに送られ、塾へ通っているのだ。
「えいちゃんは英語わかるでしょ?」
「日常会話くらいならなんとか」
 私は過去に何度か、英二さんが外国人の通行人と会話をしている姿を目撃している。自分が出来なことが、軽々とできる姿は尊敬する。
「子供の頃から勉強家だったの?」
「さくら以上に勉強嫌いだったよ」
 くっくと笑いながら、英二さんが肩をすくめる。だった、を強調したあたり、今の話ではないらしい。
「今は?」
「嫌いではないな」
 英二さんが私を待っている間、車の中で参考書を眺めているのも知っている。何かの資格を取る、と笑いながら教えてくれたのは最近だ。
「仕事しながら勉強したの?」
「そうなるな。仕事終わってからとか、隙間時間とか」
 それを聞くだけで、私とは違うなぁと思ってしまう。私はたぶん、大人になっても勉強はしない。したくないと思うのだ。
 私の視線に気づいた英二さんが、「目的があったからな」と教えてくれた。
「電車待ちしてて、外国人の観光客らしい人に話しかけられてな? 答えられなかったわけよ」
 だから勉強し始めた、と彼は語る。何ともよくある話で、けれど本人がそれに直面した状況を想像してみたら、確かに彼なら、畜生と思うかもしれない。
 英二さんは結構、負けず嫌いである。
「それで?」
「それで」
 けれどそれだけで英会話を身に着けよう、なんて普通は思わない気がする。そう思っていたら、「さくらの見本にもなるかなぁ、って打診もあったけどな」と、笑った。彼は確かに、私の前でよく勉強をしていた。それを見ながら、じゃあ私もするかーってなったのは確かだ。なるほど、納得した。
「がんばる」
「がんばってる」
 私の一言を上書きするように英二さんが告げた。私は口を開こうとして、真剣な彼の視線に、慌てて目を背ける。何だか、照れる。
「さくらはもうがんばっている。だから無理せず、たまには休んだらどうだ?」
 そしてふと、英二さんは私に甘い言葉を漏らす。それは誘惑のような、甘い飴玉のような台詞だ。サボりたいと思う。だからでも、サボっていいと言われると、つい。
「受験生に塾サボれとか、よく言うね」
 私は反発してしまう。英二さんはきっと私のこの性格を知っていて、そんなことを言うのだ。私は頬を膨らませて、小さく「いじわる」と言ってやった。
 サボったとして、どこか連れて行ってくれるの? とか、お母さんにどう報告するの? とかいろいろなことが湧いてきて、少しだけわくわくした。
 今日も頑張ろう、そんな風に思えた。
「帰りもきてくれるんだよね?」
「9時だろ?」
 もちろんだろ、と英二さんが告げてくれる。私が塾の間、英二さんは喫茶店かどこかで勉強をするのだ。私と同じ時間に、一緒に、勉強をしてくれる。それがなんとも、活力になるのだ。
 車が停車し、塾の前に到着する。私は鞄を手に、英二さんを見る。「ありがとう」「いってらっしゃい」といつもの会話。ふと、疑問がわいた。
「えいちゃん、私が高校卒業するまでよく我慢できるね」
「今その話するか」
 去り際に聞いた素朴な疑問に、英二さんがようやく不満顔を見せた。私は唇の端を持ち上げて、笑う。英二さんの顎に手を伸ばして、顔をそっと、彼に寄せる。
「……さくら」
「じゃ、後で続きね。そろそろ限界でしょう、きみ」
 私は車のドアを閉める。頬が熱いし、心も苦しい。言ってやった。何度も何度も考えていた、私なりの挑戦状を、たたきつけてやった。

 受験生でも、恋はするのだ。
 応援してくれる人に、報いたいと思うのだ。
 だって彼は、私の。
 だって私は、彼の。

「……なんの続きだっての」
 ハンドルに頭を寄せながら、俺は静かに息を吐く。車内に漂うさくらの残り香に、油断すればあっという間にやましい気になってしまう雄の性は、まだ今のところ、あの馬鹿には気づかれていない、はずなのだが。

「自信ねー」
 俺は静かに、大人らしくもない弱音を、車内に零した。
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