乙女日和

古葉レイ

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乙女日和39

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『黒崎先生なら、どんな書を書く?』

 ヒロの言葉が脳裏に過る。

「私に対する言葉なのか?」

 ふと感じた疑問を否定しようとするが、沸いた気持ちが拭えない。ヒロの瞳は力強くて、私に対する挑戦のようにさえ見えた。

「違う。書く側は、見る側を選ばない。でもあいつは、わざわざここに来て書いた? 先生に、師に見せたかった?」

 ヒロの書を前にすると、心がざわつく。彼女に見せる為に来たのだと思っていた。それもあるだろう、でも自分の家で書かなかったのだから、あるいは自分に見せたかったのかもしれない。

「私に、見せたかったのか」

 私はヒロが残した書を見る。店に戻り、新たな紙を手にする。墨をするのももどかしく、墨汁を硯に垂らし、ヒロが握っていた筆を取った。

 ふと書こうとして、けれど止めた手を、動かした。



   躰が一つに
    なりたがらないと、

   心は二つだから、
 
    理由を探して、
       好きじゃなくなる。
                 」

 書き終えた途端、嫌気が差した。

 心を込めて書いた書は、自分の内面を模していた。

「ち、嫌んなるな」

 お節介野郎、と言葉が零れた。

 弟子の書に感化されて書いた作品は、何かを宿していた。あいつはただ、今の気持ちを書にしろと言いたかっただけかもしれない。

 自分の書を見る。最後の方なんて弱々しい線で、情けなくなってくる。でもたぶん、それが今の気持ちなのだ。

「そういう事なんだな、ヒロ」

 また書から離れ、一人で紫煙を燻らせる。ヒロの書と、自分の書を見比べる。どちらも書いた本質は同じだ。
 どっちが先で、どっちに向かっているかだ。

「最近、シてないもんな。そりゃ、嫌おうともするか」

 想う人の顔を想像しながら、煙草を一本、早めに吸う。次いでする事は決まっている。心は既に求めている。

 好きになりたい。好きになって欲しい。
 今更だけれど、好きじゃなくなることが嫌だと思っていた自分が馬鹿みたいだ。

「人の心、動かしてんじゃねぇよガキが」

 煙草を揉み消し、携帯を手に取る。就業中だろうか。定時時間は超えている。それでも時間はまだ早いので、本来なら電話をすべきじゃない。でも、たまにはいいはずだ。

 私は構わず、相手を呼び出してコールした。

『やあ。君か。どうした?』

 十コール程で、相手は出た。
 相手は少し驚いていて、いざ繋げてみてから、何を話して良いかがわからず迷った。相手の呼吸が聞こえた。相手の甘い、息遣いがした。

「仕事中だった? ごめん。大した話じゃないんだけど」

 相手は何も言ってはこない。会議中だったかもしれない。お客さんの所だったりしたら申し訳なかったな。そう思ったが、気にするのを止めた。

「今、話したいんだ。いい?」
『いいよ。どうした?』

 私の願いに、旦那は柔らかい了承をくれた。

 やばい、ちょっと緊張してきた。

「あのさ、今度戻ってきたらさ」

 相手の笑顔を思い出す。目の前にあると気付かないけれど、私はあの人の笑顔が好きである。あの人が笑っていないところをあまり知らない。
 それ程に、私は彼に愛されている。

「ちょっと、私を可愛がってくんない? あー、大人的な方で」
『っ……おう?』

 明らかに相手は動揺していた。電話越しでも分かるその声色が、愉快で、少し気の毒だった。

『お酒とか、入ってる?』
「酔ってないよ。酒、嫌いだもん」

 電話の向こうで相手が驚いているのが解る。旦那の声が止まるまで、私はじっと、彼の声を聞き続ける。

「寂しいんだ」

 私の本心を、彼は黙って聞いている。私はたまらず、言葉を続けた。「声が聞きたかったんだ」と告げた私に、罪はないはずだ。

「ごめんね、仕事中に」
『いや。大丈夫』

 旦那は優しいのだ。改めて、彼の懐の深さを知る。私は強く、気持ちを込めた。

「あんたとしたいなって、思ってしょうがないんだ」

 私の独白に、彼は少し咳き込んでいた。それから小さな声で『俺も』と言ってくれただけで充分だった。

「悪かった。急に、変な事言って……切るね。邪魔して本当、ごめ」
『愛してるよ』

 久々に、気持ちの籠った声を聞いた気がする。
 私は、この声に惚れたんだ。忘れていた。目頭が熱くなり、手の甲で拭う。

「私もよ」

 自然と言葉が溢れ出た。教室に風は入り込み、二つの書を揺らす。
 二つの書を前にして、私は自らの気持ちを再確認した。

『今週末、帰るよ』
「でも仕事忙しいって言ってなかった?」
『帰るから。絶対。待ってて』

 旦那の声は真剣で、私は電話越しに頷いた。何度も「待ってるね」と告げた。

『仕事終わったら、後で電話する』
「うん。仕事、頑張ってね」
『ありがとう。愛してるよ』

 旦那からもう一度の愛の言葉を受けて、私は嫌々、電話を切った。


「……へへ」

 顔が、にやける。

「いかん、今から赴任先に乗り込みたくなってきたな」

 私はもう一枚、真っ白の半紙を前にした。心を鎮めなきゃいけない。週末までまだ時間がある。
 しかし、旦那としたくなってみると、それはもうとことんしたい。帰ってきてもキスくらいしかしていなかったから、余計だ。

「確率低いけど、子供、頑張ってみようかな。一パーセント以下つったって、千回もやれば出来る気がしてきた」

 沸き起こる気持ちが止まらない。感情が荒れ狂っている。静まれ、私の心よ。
 目の前の半紙に、筆を下ろす。文字を書き、気持ちを落ち着ける。

「ちくしょう、これが書の力か? それともあいつの心の、力か」

 目の前の二つの書は、出来栄えは私の方が良いだろう。けれどそれを描かせたのは他ならぬ弟子のヒロである。

 書に籠る魂は、弟子の作品の方が圧倒的に濃密だった。

 それが許せない。
 私もまだまだ、努力が足りないと痛感する。

「弟子に負けてられんな」

 私は言葉を零し、真っ白の半紙に、墨汁たっぷりの筆を下ろした。

<終わり>
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