乙女日和

古葉レイ

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乙女日和17

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「何が言いたいんだ? あの人、結婚してるんだぞ? 何を嫉妬してんだ」
「だって、何か仲良いし」
「そりゃ付き合いはお前より長いしな」
「っ、あぅう」

 と言ったらしょげた。全く面倒な奴だ。
 客でもないのに店内をうろついていたヒミコだが、一応は品を物色していらっしゃるので出て行けとは言わない。

 この店は、硯や紙、筆に墨と様々な書道の道具が置かれている。店内は狭く窮屈で、万引きはきっとし易い。

 筆も高いものでは数万円もする。
 半紙にしても100枚で二千円するものまであるので、それを転売しようとする輩が居ないとも限らない。
 それでも滅多な事で万引きが起きないのは、地域の治安の問題か、あるいは店の雰囲気かもしれない。
 日があまり入らないように作られた店内だけれど、レジ前や入口付近は明るく、全体的に落ち着いた雰囲気である。

 俺にとって、家の次くらいに和む場所である。ついでに、勉強も捗る場所である。

「ヒロ君、私が居なかったら先生と付き合ってたかもね」
「お前いきなり何を言いやがる。既婚者だって言ったろうが」
「だって、何か不思議な感じするよ?」

 レジ前で勉強をしようとする俺を、ヒミコが邪魔して面倒臭い。乙女が謎の言葉を発してきて、どうしたものか。
 あまりの唐突な言葉に、俺の胃の奥がきゅうと音を立てる程に痛む。

「だって綺麗じゃない?」
「綺麗なら誰でも付き合うのか? 何でそうなる? お前の妄想癖は凄いな。相手は既婚者だと何度言わせる?」
「だってあの人の見る目、ヒロ君の事、男を見ているみたいだったよ」
「それこそ意味が解らん」

 ヒミコは常に本能で動く。だからだろう。

 よく見ていらっしゃる事だ。

 俺を男として見ている。それに対する反論を、俺はあえてしない。不満げなヒミコの頭を撫でてやり、「俺のバイトの邪魔をするな」と言ったら引き下がった。一応、彼女も真面目である。
 ふと先生の書いたであろう文字が書かれた半紙を見つけて、「これが、黒崎先生の字だ」と拾って見せてやるが、特に驚くそぶりはない。

「先生の字、綺麗だろ?」
「私はヒロ君の字の方が千倍好き」
「ありがとうよ」

 あんまり見た事もないくせに、と言いそうになって慌てて黙る。下手な事を言えば「じゃあ書け」と言われかねない。何となくだがヒミコの前で書道に向かう姿を見せた事がないし、今の所見せたいとも思っていない。

 俺は、半紙に筆を下ろす瞬間が好きだ。

 その瞬間、たぶん俺の頭の中からヒミコという存在は消える。俺の悩みであり日常であるその存在を消して在る、自らの姿を晒して良いのだろうか。
 そう思うから、俺は今だ文字に惚れてくれたヒミコに、書に向かう自らの姿を見せた事がない。
 そもそも最近、書道らしい事をしていない。

「もう帰れ。終わったら寄るから」
「わかった、先に帰るから……ちゃんと来てね?」

 俺に釘を刺すようにヒミコは告げ、俺の手に触れてくる。はいはいとあしらう俺に、ヒミコは満面の笑みを浮かばせているが、瞳は殺気に満ちていた。

「何ですか?」
「今度こそイかせたげる」

 ぐさと、二度目の直球に心臓が痛い。こいつの言動は本当に心臓に悪い。忘れていた事実を思い出し、鎌首を持ち上げそうになる自らの股間に苛立つ。この正直者め。

 どうやら保健室での無射精の件は、彼女にバレテいたらしい。

 ○○○

「先生、ばいばい!」
「気ぃつけて帰んなよー」

 最後の生徒と手を打ちあい、飛び跳ねる子供が店を後にする。それを見送り終えた黒崎先生は、首をごきごきと鳴らしながら店の中に戻ってきた。

 下駄がからんころんといい音を立てている。疲労の中に見える吐息が妙に切ない。相変わらず、動きの端々に色香が漂っている。

「ああ、終わった、終わった」
「お疲れ様です」

 早速煙草を吸い始める黒崎先生はいつもの事で、俺のバイトも一応完了という事になる。塾の時間は一時間半と十五分休憩、その後二回目の授業があり、これで後半が終わったところだ。

「じゃ、俺はそろそろ上がりますよ?」
「お茶してけ?」
「いや、今日は用事があるんで」
「まあ、待ちなよ」

 退散しようとしていた俺の手をわざとらしく掴んだ黒崎先生が、煙草を吹かしながら顎で俺を店の奥に招く。この人は、誰かに触れるのが大好きである。
 黒崎先生は、男女変わらず、誰かにボディータッチをするのが大好きだ。触れられる生徒はいつの間にかそれに慣れ、当たり前になる魔術である。

 黒崎先生が触れてくるのは割と良くある事だが、今日は手を掴まれたので要求度が高い。振り解くと拗ねそうだ。
 とりあえず、「帰りたいです」と要求してみたがスルーされた。

「いいじゃない? お茶くらい。お茶菓子もあるわよ。お婆ちゃんが老人会の旅行で買ってきたお饅頭」
「別に要らないです」
「何? 怖いの?」
「っ!?」

 きゅうと、何かが痛む言葉が黒崎先生から発せられる。挑発、である。
 酷く貶された感じがする。最近なりを潜めていた黒崎先生の、人を見下す態度を目の当たりにして、尻ごみする自分が居る。
 俺はこの人に憧れていて、同時にちょっと苦手である。

「ええ、怖いですが何か」
「ああそう。じゃあ、黙って上がれ」

 イエスと、はいを選択肢に出されて選べと言われたかのようだった。この人がこういう状態になっていると、迂闊に帰れない。前に一度、帰宅を強行したら、バイトだと言われてひたすらに字を書かされた。

 黒崎先生は、そんな大人げない人である。

 今も金は貰っているが、ひたすらに基本の文字を半日近く書かされ続けたのだ。あれは苛めだった。絶対に。

「じゃあ、少しだけ」

 俺は負けて、店の奥へと足を進めた。

「ヒロ君が二階で書道を習っていたのが昨日の事のようだよ」
「もう結構経ちますよ」

 出された珈琲を飲みながら、過去の話を零す。黒崎先生は俺から少し離れたところで、俺を見ながら珈琲を呑んでいる。先生はミルクたっぷりのカフェオレで、俺はブラックだ。どうでもいいが、先生は大の甘党である。

「みんな巣立っちゃったからなあ。習字なんて受験に関係ないとか言ってさ」
「まあ、本当の事ですから」

 最近は、書道は精神統一に良い、集中力が付くなどという理由で子供達の受講が増えているらしい。客が増えるのは良い事だ。
 先生も、寂しさが紛れるだろうから良い事だ。

「じゃあ何でヒロ君は続けたの?」

 黒崎先生に問われ、俺は答えに詰まる。精神統一、とでも言ってやろうか。

「好きだから」
「私が?」

 一言が、俺の胸を抉る。

 この直球人間が。
 俺の苦悩を観察するように、大人の女は笑みを噛み殺して紫煙を吐いた。

《続く》
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