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ひとたび恋してみてみれば7

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「自分らしさっていろいろあるからね。自分を出さない自分らしさか。そういうのもいいと思う。ごめんね、怒らせて」

 俺の憤慨に、伊崎姫子は頭を下げた。
 その謝罪の清々しさに、留飲が下がる。

「悪かったな、他人に寄り掛かる楽しみ方で。気色悪いか」
「ううん。そういうのも素敵。いろいろ喋らせて本当、ごめんね。許して」

 語るだけ語ったせいか、肩の力が抜けた。壁に凭れ、やや適当に語る俺に、伊崎姫子は手を顔の前で合わせて「ごめん」と謝罪をくれた。別に謝る程のことではないと思いつつも、少し苛立ってはいるので放置する。しばらく黙り、落ち着くまでの間、伊崎姫子のグラスをちびちびと呷る。

 ふとグラスの淵に唇の紅が見えて、その位置に何度か口元を持って行っていた自分に気付く。もうどうでもいいと、俺は気にせずビールを飲んでいく。一気に飲んだところで、置いたグラスの向こう側にあったのは、伊崎姫子の柔らかい笑顔だった。

 彼女は無言だった。黙ったまま、俺に笑い掛けていた。

「君に触発されたな。数年分の気持ちを吐きだした気分だ」
「あら、それは素敵ね」

 居酒屋で吐露した自分の気持ちが、目の前の女の子に受け止められている。唇の紅は果実のようで、案外いいんじゃないか、なんて気になってきた。何が変わったのか、化粧の濃さが悪くないのではと思えて来た。俺の気持ちだろうか、酔っているだけなのか。

 対面にある伊崎姫子の目をまともに見返していると、少し視線を外された。少し言葉が途切れ、二人黙った状態が続く。黙った状態は別に嫌な感じはしなかった。黙って飯を食いながら、伊崎姫子が烏龍茶を頼み、俺がビールを頼む。グラスが来て、今度は二人でグラスをぶつけ合う。

 完璧に二人の世界。

「今日はあなたに会えてよかった」
「俺もだよ」

 互いにそっぽを向く形で、視線を合わせずに言葉を紡ぐ。かなり照れくさい。伊崎姫子の視線を感じてみれば、ちらりと見つめ合っている。まるで昔から慣れ親しんだような感じになっている。何とも気安い感じに、俺らはたぶん、いい感じで。

「でも」

 今日は楽しかった。良い出会いだったな。そう思っていた俺に、伊崎姫子がやや高揚した口調で否定的な言葉を呟いた。でも? また何を言う気だお前。軽く身構えながら、伊崎姫子の言葉に気を引き締めて、待つこと数秒、彼女は静かに、

「ここで終わらせるとか言わないよね?」

 彼女はさらりと、俺の予想を裏切る言葉を吐きだした。

「いい出会いだった、で終わらさないよね?」

 俺の心を読んでいらっしゃる彼女に、俺の思考がまた停止する。何が言いたいんだろうか。少し悩んで、すぐに意味は理解できた。周囲には届かない小さな声で、語る彼女は少しばかり照れていた。
 頬が少し赤いのは酒のせいだろうか。

「どういう意味?」
「そのままの意味でしょう。お持ち帰らないの? もしかして彼女持ち?」

 即物的に問われ、俺は返答を考えて首を振る。今は割とフリーです、狙っていた子は居るけれど。もちろんそんなものを言葉にはせず、唇の端を持ち上げて態度で示す。伊崎姫子の笑みに強みが増した。あ、喜んでる。そんな風だった。

「姫子ちゃんをそういう対象で見てなかったんだけど」
「じゃあ、見て」

 空いた口が塞がらないとはこの事か。伊崎姫子がまるで俺を睨むかのような面持ちで見つめてきて、身を乗り出してくる。「そういう対象で、見て欲しいな」と呟いた彼女が、「口紅、落としてこようか?」とまで言ってきたので、どうしていいか。

 とりあえず、気になっていたのはばれている。

 まさか女の子に持ち帰れなんて言われるとは思わなかった。全体未聞だ。いや軽い子には言われた事もある。でも相手は真面目子だ。

 さすがの俺も引くかもしれないそんな台詞だったが、しかし目の前の伊崎姫子が言うと、妙にしっくり来る感じだった。

 厚化粧で誤魔化していた心の美が、俺の心を掴んだのだ。
 違うか。

 俺も彼女の意見に賛成だから、それを嫌がってはいないだけなのだろう。ただ唐突だったので、少し躊躇気味なだけだ。何とも引っ張られる感じだ。

 男的に何かが負けているが、こういうのも彼女らしいと今なら思えた。たった数時間しか話をしていないのだが、案外彼女を知った気でいる。

「ねえ、外に出よう。二人でもっと話しましょう? このまま終わるなんて嫌よ」
「女の子にそう言われたのは初めてだよ」
「あら、それはそれは」

 伊崎姫子が苦笑を噛み殺す。さも当然とばかりに胸を張り、大きなそれがぼゆんと弛んだ。そして彼女が、やや卑しい笑みを浮かばせて告げた。

「とんだ屑の女ばかりに出会っていたのね」
「はい?」

 彼女はさらりと酷い事を言った。あまりの言葉に返す言葉がない。女の子はみんな可愛いと言ったのは誰だったか。伊崎姫子の語りには熱が入っている。頬も赤い。酒に酔っているからではたぶんない。

「こんな素敵な人を放っておくなんてありえないでしょう」

 さりげに褒められている。どストライクの直球だった。ちょっとではなくかなり褒められている。咄嗟に顔を背けて歪む唇を結ぶ。伊崎姫子が笑っている。酷くにやついた笑みが憎らしい。

「屑か」
「そうよ。今まで君が会ってきた他の女なんて屑よ」

 俺の失笑に、伊崎姫子が立ち上がらんと中腰になっていた。もう動くのか。周囲の何人かが俺らを注目しているが、そんなものはどうでもいい。伊崎姫子が俺に手を伸ばしてきて、立ち上がれと指示をしてくる。とりあえず従い、手を伸ばす。握手して、互いに立ち上がるのは共犯者故の同盟感。やばい、拒めない。

 伊崎姫子が幹事の真鍋さんに手のひらを立てて「ごめん」と口パクで謝罪した。俺はといえば隣の馬鹿男に「何だよ、持ち帰りか?」なんて茶化されるが無視。男側の幹事は俺らの状況を察したらしく、特に何も言いはしない。手を上げて「いってらっしゃい」を告げてくるあたり、さすがである。

「よかったね、私に出会えて」
「凄い言いようだな」
「ですよねー。酔ってるなー、私」

 伊崎姫子は行動が早かった。二人、あっという間に靴箱まで移動して、早々に居酒屋を出ようとしている。伊崎姫子が先にヒールを履き、俺が続く。支払いは済ませているので問題はない。語らいはのんびりと続き、二人で流れるように居酒屋を出る。

 夜の街は少し肌寒い。居酒屋を出ると人混みの流れがあり、その中に入る前に、伊崎姫子は俺の手を握ってきた。あっという間に、俺らの距離が近くなっていた。

「自信過剰だな。男漁りしまくってる女に見えるぞ」
「違うわよ。これでも純情で初心なんだから。男より服を取るくらいにね」

 そう語る彼女の手は俺の手を握り締めている。もちろん遠慮気味にだけれど、こういうのは、実は嫌いではないらしい。遠慮気味な女の子が好みのはずなんだが、そうでもないらしい。大発見だ。

「今はでも、服より君かな」

 咄嗟の台詞にしては酷く強い発言が俺の何かを刺激する。何気に人生の目標以上だと言われたのだ、悪い気などするはずもない。

 光栄を通り越して不安すらあるな。そこまでいい男ではないのだが、伊崎姫子には俺がどう映っているのやら。

《続く》
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