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プロローグ 未知との遭遇
プロローグ 未知との遭遇(バイト帰りの男)
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「お疲れ様でーす」
「お疲れ様、毎日大変ね」
「貧乏してるんで。じゃ、俺はお先に帰らせてもらいます」
深夜零時。裏口の扉を開ける。シフトの時間が終わり、先に仕事を上がらせてもらう。さすがにこれ以上遅くなると、翌日の授業が辛いのだ。
事務所の裏通りは狭くて暗い。オカルトや怪談話は笑いながら聞くことのできる吉村でも、自然と足が速くなる。ゴミ箱やらダンボールやらの障害物を避けながら、喧騒のする表通りだけを目指して進む。
「あー、バイトめんどくさ。親の金で学校に行けるところはいいよなー」
ぼやきながら歩く。
その時、背後から声がした。
「そんなに他人が羨ましいか?」
辺りが急に静かになったような気がした。その男の声以外の音は、まったく聞こえない。
「俺もだ」
振り返ってまず目に入ったのは、首に当てられたナイフだった。そこからじわりじわりと全身に冷たい感覚が広がっていく。
いつの間に背後につかれたのか。気配が、微塵とも感じられなかった。そういうものには、わりと敏感なつもりでいたのに。
「あんた、名前は?」
頚動脈にピタリと横付けされた刃。その間、薄紙一枚ほどの隙間だけなのではないだろうか。これ以上、首をひねる勇気が吉村にはなかった。いつもそうだ。肝心なときになると呼吸が止まり、何も出来なくなる。
当然、後ろにいる相手の顔は見えない。ただ、自分より背が高いことは明らかだった。
抗ったところで、勝ち目はない。
唾を一飲みし、静かに唇を動かす。
「……よしむら、ともき」
「字は?」
「知るに生きるで、知生だよ」
「生きることを知る……いい名前じゃねえのよ」
軽い笑い声。次の瞬間、ナイフが動いた。首を裂かれる――。が、幸いなのか何なのか、それはなかった。左肩を引っ張られ、無理やり振り向かされる。ここに来てようやく男の全貌を見ることが出来た。
若い男だ。春には到底似合わない、黒いロングコートに、マフラーまで備えている。暗がりなうえ、サングラスをかけているため顔はほとんどわからない。上着のフードの合間から、伸びた前髪がばらばらと頬にあたっている。歯を剥いた凶暴な笑みは、吉村を凍りつかせるには十分過ぎた。
――人間じゃない。
たとえるなら、獲物に飢えた狼だ。
叫ぼうとした。が、喉がつっかかり、小さな声しか出ない。その無様な姿を見て、男の口が更に歪む。吉村の体は男の右腕にがっしりとつかまれ、身をよじることも出来ない。そんな気力もない。そして、刃が顔に近づいてきて――。
目の上が、焼けるように熱い。痛い。気色の悪い液体が、額から頬にかけて流れ落ちる。
「どうして」
唇が震える。うまく喋れていないことが、自分でもわかった。
「どうして、あんたは、こんなことをするんだよ」
左手に握られた、ナイフが動く。刃がわずかな光を反射した。吉村の体が強張る。
ナイフをしまうと、男は右手を離した。吉村の体に自由が戻る。
「決まっているだろ」
アンバランスに、軽快な口調だった。
身を翻すと、コートの裾が大きく揺れた。ポケットに手を入れ、慌てる様子もなく歩き出す。
「お前を愛しているからだ」
男の姿が見えなくなってもしばらく、吉村は動くことが出来なかった。
魂が枯渇するのではないかという勢いで、叫び声をあげる。その咆哮は、都会の喧騒にかき消されていく。
顔を、両手で覆う。
その額には、くっきりと、バツ印が刻み込まれていた。
この世にこんな理不尽があってよいのだろうか。
先日、自分の身に降りかかった出来事について、何度も何度も思考を巡らせる。
屋外では雨がどんよりとした湿気の膜を張っている。それは現在の吉村の心境が反映されたかのようだった。
額の傷が、うずいた。頭の中でミミズがのた打ち回っているような不快感が走る。
こんな目に遭わなければならないほどの過ちを、果たして自分は犯したのか。いったい、何がいけなかったのか。学校の禁止事項を破り深夜までアルバイトをしていたことか。それとも父親の意向を無視して家を出たことか。佐藤さんの後ろ姿をスマホの写真機能で隠し撮りしたことか。それを今日まで壁紙にしていたことがまずかったのか。……あの美脚はすばらしい……。
吉村は大きく首を振る。その程度のことで罰を与えられてたまるものか。
血反吐を吐く思いで働いて生活費を捻出してきた日々を、学業にも決して手を抜かなかったこの努力を、どこの誰に否定することができようか。
「それとも」
吉村はくしゃくしゃと前髪を押さえ、うなだれた。
事件のことを、話の種にしたことが悪かったのだろうか。だから、自分が被害者に? 面白半分に囃し立てたから――相手の気持ちを考えろと――天罰が下ったのか。
「高いお代が付いたもんだな」
生ぬるい空気とは対照的な、乾いた声で笑い出す。
――お前を愛しているからだ。
突然、体中に鳥肌が立つ。男にそんなことを言われても、薄ら寒いだけだ。いったい何のつもりでそんなことを言ったのか、深い意味はないと思いたいが、不穏なことばかり頭を渦巻く。自分はこれからどうしたらよいのか。
吉村の笑いは、最後には叫びに変わっていた。
「お疲れ様、毎日大変ね」
「貧乏してるんで。じゃ、俺はお先に帰らせてもらいます」
深夜零時。裏口の扉を開ける。シフトの時間が終わり、先に仕事を上がらせてもらう。さすがにこれ以上遅くなると、翌日の授業が辛いのだ。
事務所の裏通りは狭くて暗い。オカルトや怪談話は笑いながら聞くことのできる吉村でも、自然と足が速くなる。ゴミ箱やらダンボールやらの障害物を避けながら、喧騒のする表通りだけを目指して進む。
「あー、バイトめんどくさ。親の金で学校に行けるところはいいよなー」
ぼやきながら歩く。
その時、背後から声がした。
「そんなに他人が羨ましいか?」
辺りが急に静かになったような気がした。その男の声以外の音は、まったく聞こえない。
「俺もだ」
振り返ってまず目に入ったのは、首に当てられたナイフだった。そこからじわりじわりと全身に冷たい感覚が広がっていく。
いつの間に背後につかれたのか。気配が、微塵とも感じられなかった。そういうものには、わりと敏感なつもりでいたのに。
「あんた、名前は?」
頚動脈にピタリと横付けされた刃。その間、薄紙一枚ほどの隙間だけなのではないだろうか。これ以上、首をひねる勇気が吉村にはなかった。いつもそうだ。肝心なときになると呼吸が止まり、何も出来なくなる。
当然、後ろにいる相手の顔は見えない。ただ、自分より背が高いことは明らかだった。
抗ったところで、勝ち目はない。
唾を一飲みし、静かに唇を動かす。
「……よしむら、ともき」
「字は?」
「知るに生きるで、知生だよ」
「生きることを知る……いい名前じゃねえのよ」
軽い笑い声。次の瞬間、ナイフが動いた。首を裂かれる――。が、幸いなのか何なのか、それはなかった。左肩を引っ張られ、無理やり振り向かされる。ここに来てようやく男の全貌を見ることが出来た。
若い男だ。春には到底似合わない、黒いロングコートに、マフラーまで備えている。暗がりなうえ、サングラスをかけているため顔はほとんどわからない。上着のフードの合間から、伸びた前髪がばらばらと頬にあたっている。歯を剥いた凶暴な笑みは、吉村を凍りつかせるには十分過ぎた。
――人間じゃない。
たとえるなら、獲物に飢えた狼だ。
叫ぼうとした。が、喉がつっかかり、小さな声しか出ない。その無様な姿を見て、男の口が更に歪む。吉村の体は男の右腕にがっしりとつかまれ、身をよじることも出来ない。そんな気力もない。そして、刃が顔に近づいてきて――。
目の上が、焼けるように熱い。痛い。気色の悪い液体が、額から頬にかけて流れ落ちる。
「どうして」
唇が震える。うまく喋れていないことが、自分でもわかった。
「どうして、あんたは、こんなことをするんだよ」
左手に握られた、ナイフが動く。刃がわずかな光を反射した。吉村の体が強張る。
ナイフをしまうと、男は右手を離した。吉村の体に自由が戻る。
「決まっているだろ」
アンバランスに、軽快な口調だった。
身を翻すと、コートの裾が大きく揺れた。ポケットに手を入れ、慌てる様子もなく歩き出す。
「お前を愛しているからだ」
男の姿が見えなくなってもしばらく、吉村は動くことが出来なかった。
魂が枯渇するのではないかという勢いで、叫び声をあげる。その咆哮は、都会の喧騒にかき消されていく。
顔を、両手で覆う。
その額には、くっきりと、バツ印が刻み込まれていた。
この世にこんな理不尽があってよいのだろうか。
先日、自分の身に降りかかった出来事について、何度も何度も思考を巡らせる。
屋外では雨がどんよりとした湿気の膜を張っている。それは現在の吉村の心境が反映されたかのようだった。
額の傷が、うずいた。頭の中でミミズがのた打ち回っているような不快感が走る。
こんな目に遭わなければならないほどの過ちを、果たして自分は犯したのか。いったい、何がいけなかったのか。学校の禁止事項を破り深夜までアルバイトをしていたことか。それとも父親の意向を無視して家を出たことか。佐藤さんの後ろ姿をスマホの写真機能で隠し撮りしたことか。それを今日まで壁紙にしていたことがまずかったのか。……あの美脚はすばらしい……。
吉村は大きく首を振る。その程度のことで罰を与えられてたまるものか。
血反吐を吐く思いで働いて生活費を捻出してきた日々を、学業にも決して手を抜かなかったこの努力を、どこの誰に否定することができようか。
「それとも」
吉村はくしゃくしゃと前髪を押さえ、うなだれた。
事件のことを、話の種にしたことが悪かったのだろうか。だから、自分が被害者に? 面白半分に囃し立てたから――相手の気持ちを考えろと――天罰が下ったのか。
「高いお代が付いたもんだな」
生ぬるい空気とは対照的な、乾いた声で笑い出す。
――お前を愛しているからだ。
突然、体中に鳥肌が立つ。男にそんなことを言われても、薄ら寒いだけだ。いったい何のつもりでそんなことを言ったのか、深い意味はないと思いたいが、不穏なことばかり頭を渦巻く。自分はこれからどうしたらよいのか。
吉村の笑いは、最後には叫びに変わっていた。
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