鬼凪座暗躍記

緑青あい

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『闇舞台』

其の九

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 運命の鬼灯夜ほおずきや四更しこう。天に昇るは深紅の十六夜月。
 迦楼羅かるら、最期の嫁入り支度は、つつがなく進んだ。今宵まで再三再四、舞踏を丹念に復習さらった迦楼羅は、白粉で痣を消し、唇に紅を引いただけで、有終の美を際立たせた。
 いつもの白装束ではなく、綺羅びやかな瓔珞ようらく、真っ赤な明衣あかはの衣裳を着せてやりながら、三楽師もさすがに「惜しい」と、思いなおしていた。どうせこれで最期なら、と三楽師は神楽舞台へ連れ出す前、代わる代わる迦楼羅を抱いた。
 迦楼羅はもう抵抗しなかった。早くこの地獄から解放されること、優しかった夜守爺やすじいの元へ逝けることのみを救いに、じっと堪えていた。
 やがて、黒衣の式服姿で身を整えた三楽師に、裏山を越えた泉水の釣舞台つりぶたいへと導かれた迦楼羅は、太鼓橋手前で十望つづもちに念を押された。
「迦楼羅! 今度、舞踏をしくじったら、お前の命はないものと、覚悟してかかれよ!」
 迦楼羅は無言でうなずいた。
 たとえ、まちがえずとも、彼女の命は今宵限り。重々悟っていた。
 これから召喚する鬼畜は五匹。すでに九匹の限度を越えている。
 しかも今宵の衣裳、光明真言こうみょうしんごん綴りの白装束ではない。最高級品だが、単なる深紅の明衣である。ゆえに呼び出した瞬間、迦楼羅は舞台上で、喰い殺される運命なのだ。
 篝火かがりびに吸い寄せられた毒蛾が、燐光をくゆらせている。
 迦楼羅はその脇を通り、釣舞台へと進んだ。正中しょうなかに着き、三楽師の舞楽を待つ。
「始めるぞ」
 瑞寵ずいちょう鞨鼓フーグゥが高らかに叩音こうおんを上げ、続いて十望の琵琶ピーパ恕雲斎じょうんさいションが、不穏当な旋律をつむぎ出す。迦楼羅は、全身の痛苦を忘れ、一心不乱に舞い始めた。【鬼帰拍子ききびょうし】である。

 ……吾弐真丹儘音萎靡照霊日あにまにままねいびでひび
   如去声聞にょこしょうもんの言霊に
   降伏験者こうぶくげんざ魄呼たまよばい
   鬼の血神酒ちみき舎利しゃり供養
   吾弐真丹儘音萎靡照霊日……

 勇壮に踏み鳴らされる鴬張うぐいすばりの床板、麗艶にひるがえる深紅の明衣、白い細腕が虚空を切って、金銀珊瑚さんごの瓔珞を、シャラシャラと煌めかせる。迦楼羅の、命を賭した最終舞台は、見る者すべてを圧倒させる気魄で、満ちあふれていた。三楽師も、思わず見惚れてしまい、大事な【鬼帰拍子】演奏が、おろそかになりそうだった。
――不可抗力とはいえ、私の舞踏が鬼畜を呼び寄せ、多くの人命を奪った事実に変わりない。罪深い女の最期は、鬼畜の餌にされるのがお似合いなのよ。罰が当たったのだわ。賞賛を浴びて、好い気になって、武悪ぶあく座長にも逆らってばかりいた。私のせいで、夜守爺まで死なせてしまった。でも今宵で、すべてが終わる……だから、どうか許して――
 迦楼羅の胸に去来する悲壮感が、古典舞楽【明衣舞あかはまい】の女主人公と、一体化していた。
 婚礼当夜、夫を罠にはめ、殺害した悪大臣《朱漠王すばくおう》の元へ、正体隠して嫁いだ若妻。
 祝宴の最中、亡夫の仇討ちを果たし、己も追いつめられて自害する、という悲劇である。
 本来、音曲地方おんきょくじかたが演奏するのは、婚礼祝歌『九献くこん言寿ことほぎ』なのだが……何故か鬼寄せ神楽の呪曲【鬼帰拍子】と、迦楼羅の凄絶な明衣舞は、不思議なほど、からみ合い相容れる。

 ……吾弐真丹儘音萎靡照霊日
   黄泉路参りの六斎日ろくさいび
   不如帰門かえらずもんを開く通夜
   火焔太鼓かえんだいこで鬼帰拍子
   吾弐真丹儘音萎靡照霊日……

 赤い婚礼衣装をまとった花嫁が、死地へ赴く意思表示の樒葉しきみばで口を閉ざし、勇壮な剣舞を演じる明衣舞台は、今……迦楼羅の哀しい人生を投影する、唯一無二の独壇場であった。
 夜天の鬼灯だけが、ここで行われた悪事をすべて知っている。
 だが、月になにができようか。
 迦楼羅の足さばきが、床板に描き出す【卍巴印まんじどもえいん】は、禍々しい鬼業きごうの象徴。
 鬼畜到来の時期は近い。呪楽師三人の演奏にも、一層禍力かりきがこもる。
 そして、ついにその時はやって来た。
 朱色に変じた卍巴模様から、濛々もうもうと噴き上がる黒煙、瘴気しょうきの渦に、迦楼羅は呑みこまれ、呪楽師三人の視界から消えた。これまでの低級邪鬼召喚場面とは、明らかにちがう光景だ。
 息を詰める三人。地鳴りが釣舞台を揺るがし、青白い鬼火が飛びかい、結界壇線や幣帛五色札へいはくごしきふだへ点火、一気に燃え尽きてしまった。三楽師も狼狽し、楽器を取り落とす始末だ。
おい! これは……なんだか、まずいぞ!」
「いつもと、ちがう……こんなこと、初めてだ!」
「迦楼羅の奴、どんな鬼畜を召喚したんだ!?」
 瘴気渦巻く釣舞台を恐々と見つめ、桟敷さじきから立ち上がった十望、恕雲斎、瑞寵の脅威。
 濃密な黒煙が消散した直後、露となった舞台上の様相に、呪楽師三人は仰天した。
 正中に佇む明衣妓あかはぎを取り囲み、登場したのは奇異な怪士あやかし五人組……不気味な鬼面で素顔を伏せた一同、体つきこそ人間らしいが、いずれも獰悪どうあくで、凄まじい鬼業を孕んでいた。
泥梨五殺鬼ないりごさつき……招請に応じて参上した』
 二重に響く獣声じゅうせいが確かに言葉を発し、三楽師をまたまた震撼させた。彼らの鬼道術きどうじゅつで今まで召喚可能だった邪鬼は、言葉を解すほどの知能を持たぬ低級の鬼畜ばかりだったのだ。
 正中で棒立ちの迦楼羅は、凶悪な気配を肌で感じつつ、顔を両手でおおい、ワナワナと震えていた。逃げ出したい気持ちを懸命に抑え、死の恐怖と闘っている。
 贖罪のため、迦楼羅は元より落命覚悟で、最終舞台に臨んだのだ。
「な、泥梨五殺鬼だと……!? お、お前たち! 低級の邪鬼では、ないな!?」と、強烈な禍力で、心身を圧迫されながら、十望が恐る恐る訊ねた。【泥梨五殺鬼】……継半纏つぎはんてん癋見面べしみめん、赤毛道服の小獅子面こじしめん喝食かっしき姿の般若面はんにゃめん直綴じきとつ僧衣の一角仙人面いっかくせんにんめん、獣毛巨体の顰面しかみめんは、すでに逃げ腰の呪楽師三人を嘲嗤い、侮蔑気味にのたまった。
哈哈哈ハハハ……いかにも、我らは泥梨【五悪趣地獄ごあくしゅじごく】を司る獄卒鬼。己らがごとき虫けらが、我らを傀儡かいらいにして操ろうなぞとは、笑止千万!』
 ユラリ陽炎のような殺気を立ち昇らせ、三楽師を恫喝する鬼神級の怪士ども。
 足がすくんで動けない迦楼羅のそばを、朱色の影が交錯する。
『身のほど知らずな愚案は即刻、捨てるべきだ。依頼内容も承知しておる。ゆえに我らを畏れ敬えば、そなたの切なる悲願、【泥梨五殺鬼】が必ず叶えてくれようぞ……迦楼羅!』
 五殺鬼の誰かに肩をつかまれた迦楼羅は、ビクッと全身を強張らせた。勿論、夜間の迦楼羅に、相手の顔は見えない。だが泥梨五殺鬼は、確かに彼女の名を呼んだのだ。
 これに三楽師の顔色が変わった。
 彼らにしてみればまったく思いがけない、まさに震天動地しんてんどうちの急展開である。
「なんだと……今、なんと……!?」
 五寸針と呪縛糸を手に、凍りつく三楽師へ、喝食姿の般若面が黒縄こくじょうをふるって発奮した。
「だからぁ、迦楼羅の望み通り、てめぇらクズどもを、ぶっ殺しに来てやったんだよぅ!」
 鋭く空を裂き、しなる黒縄が、三楽師の手を打撃、武器と五寸針を泉水へ払い落とした。
「迦楼羅、ここを一歩も動くなよ!」
 舞台中央でくずおれた迦楼羅が、最後に聞いたのは……呪楽師三人のけたたましい悲鳴と、耳をつんざく破砕音、力強い男たちの気合一声だった。
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