鬼凪座暗躍記

緑青あい

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『食女鬼・前編』

其の弐 ★

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ああ! そなたは……何者です! なんという無礼なふるまい! く、退がりなさい!」
 真っ赤な天狗面の怪士あやかしにおびえ、女御は身をすくめた。
 刺々しい声で、醜い闖入者ちんにゅうしゃを面罵する。朱牙天狗しゅがてんぐは、悲鳴を上げ、助けを呼ばんとする女の口をふさぎ、強引に組み臥してしまった。
 腰帯を乱暴に解き、襦裙じゅくんの裾を割った。
「ううんっ! ううっ……うぐぅ!」
 必死でもがく女の顔に、猛烈な恐怖と嫌悪感が見て取れた。
 しかし朱牙天狗は物ともせず、あくまで我欲を先行させた。まるで、なにかに憑かれたような……普段の生真面目な彼からは到底、考えられぬ暴挙であった。
 女は死に物狂いで抵抗し、朱牙天狗の面をはじき飛ばした。
「ううっ!?」
 醜悪きわまりない男の素顔に、女は震撼した。
 けれど最早、如何いかんともしがたかった。男の素顔が現れた途端、下半身をむき出された女は、彼の淫欲を容赦なく突きこまれてしまった。
 浅ましい交合の果て……朱牙天狗が、ようやく正気を取り戻した頃、すでに女は、あらがう気力すら失っていた。
 死んだように、ぐったりと項垂れ、落泪する女御を見て、朱牙天狗はおののいた。
「お、おおっ……信じられない! 何故、こんな……啊っ! 私は、なんということを!」
 夢から醒めた朱牙天狗は、動揺のあまり、寝台を無様に転げ落ちた。
 半裸のまま、必死で床板へ土下座した。女のすすり泣きが聞こえる。
 朱牙天狗は、己の犯した淫虐行為にうろたえ、打ちのめされ、ひたすら謝罪の言葉を繰り返した。
「す、すまぬ! どうか、許してくだされ! 私は、どうかしていた! 云いわけにしか聞こえぬだろうが、私は、私は……正気でなかったのだ!」
 醜い素顔を隠し、嗚咽する朱牙天狗だ。
【仙術修行】は、欲心との闘いだ。女との交合は、過酷な修行の歳月を一瞬で水泡に帰し、神通力のすべてを、完全に失わせてしまったわけだ。
 残る【鬼道術きどうじゅつ】と【体術たいじゅつ】だけでは、神聖な『加持祈祷』を行うことなど、到底できない。
 彼は、己の名誉とともに、骨身をけずった苦心惨憺の月日を、自ら捨て去ってしまった。
 しかも色香に迷った挙句、許しがたい女犯罪まで背負って……そんな朱牙天狗の命運も、今や風前の灯だ。女の大呼で、すぐに侍女や閹官えんかんが駆けつけ、狼藉者を捕縛するだろう。
 これまで、人々から尊崇の念を集めた夜仏山よぼとけやまの聖人は、唯一夜の過ちで地に堕ちたのだ。
「そなたが、夜仏山の《朱牙天狗》か! よくもわらわを、娼妓の如くあつかってくれたな! このままでは、帰さぬぞ……早う、立て!」
 衣ずれの音が近づいた。続いて、鞘をすべる刃の音。
 鞘は無造作に、床板へ投げ出される。
 朱牙天狗は、恥辱を受けた女が自らの手で、彼を成敗するのだと確信した。 
 己の如き醜悪な男に、強姦されたなど、誰にも知らせず闇に葬り去りたい悪夢だろう。尤もな判断だ。
 朱牙天狗は、怨嗟を孕んだ女声に従い、彼女の前へ立ち上がった。
 鋭い剣先を突きつけられても、微動だにせず、彼は覚悟を決めた。
「斯様な醜男が……あなたさまの如き天女を、穢し、辱めた以上、無傷で帰れるものとは、思っておりませぬ……あなたさまのお気がすむよう、存分に、成敗なさってください……私としても、これ以上、生き恥を晒したくはありません。今の私は、《朱牙天狗》などと尊ばれる、聖人ではない……ただの、薄汚い狼藉者です!」
 醜貌を泪で濡らし、嗚咽をこらえる朱牙天狗。
 忌まわしい女犯の破戒者となった以上、念仏を唱えることも許されない。
 冒涜行為である。
「妾の正体を、知った上での狼藉か!?」
 朱牙天狗は首を振った。己のような醜男に蹂躙されても、女は相変わらず美しかった。
「誰であろうと私には、どうでもよいことです。ただ、あなたさまの美しさに負けました」
 端整な白面はくめん、歳は三十二、三だろう。初心うぶな小娘にはない、臈長けた美しさであった。
 しどけなく解けた黒髪、鬱血跡の残る首筋、襦からのぞく丸い乳房、みみず腫れが淫猥な白脛、帯を引きずり、泪にうるんだ妖艶な瞳、血をしたたらす無防備な太股をチラつかせ、覚束ない足取りで接近する、伽羅香きゃらこうかんばしさ――朱牙天狗は、情欲の炎が、再び燃え上がるのを感じた。
 そんな己を心底、浅ましいと思った。
 だが予想に反し、女が取った言動は、醜悪な四十男には信じがたい、甘美な誘惑だった。
「そなたは、妾の奴隷じゃ……これからは、すべてに、従ってもらうぞ! 嫌とは決して云わさぬ! さぁ、早う、こちらへ……もう一度、ねやに入るのじゃ!」
 朱牙天狗は一瞬、我が耳を疑った。
 いや、あるいは忌まわしい淫行が為された寝台で、彼にとどめを刺す、という意味だろうか。とにかく、朱牙天狗は、女に従わざるを得なかった。
 蚊帳をめくり、そっと寝台へ仰臥する。すると女は、刀剣を投げ捨て、さらに残った衣を脱ぎ去り、まばゆいばかりの裸身を、朱牙天狗に見せつけたのだ。
「今更……妾をこばむことなど、許さぬ!」
 そう云うなり、彼女は朱牙天狗の体へ圧しかかって来た。まだ怒張したままの彼へ、馬乗りになり、激しく腰を揺さぶるのだ。朱牙天狗は驚倒し、慌てて女体を除けようとした。
 けれど女は断固として、それを許さない。
「そなた、一度限りの交合で倦むほど、妾はつまらぬ体であったと、そう云いたいのか!」
「とんでもない! ただ、私は……啊っ!」
 それ以上は云えなかった。快楽に溺れ、あえぎ声しか出ない。さらに、女の艶美な白面が近づき、朱牙天狗の唇をふさいだ。目をそむけたくなる醜男ぶおとこに、薄汚い襤褸蓬髪らんるほうはつの四十男に、天女が紅唇をかさね、激しく身もだえしている。彼の愛撫を、一心にもとめている。
 まさに甘美な夢であった。これが夢なら、二度と醒めて欲しくない。
 朱牙天狗は、そう思った。
「そなたは永劫、妾だけの物じゃ……よいな」
「はい、私は……あなたさまの、奴隷です……」
 その夜だけで、幾度もの交合を繰り返した男女は、明け方の曙光を、うとましく迎えた。
 朱牙天狗は、すっかり夢中になった。
 これが悲惨な悪夢の序幕になろうとは、この時の朱牙天狗に考える余裕など皆無だった。
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