37 / 125
『決別・後編』
其の七
しおりを挟む「きゃああぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあっ!」
突然、門司社全体にとどろいたのは、絹を引き裂く女の悲鳴だった。
『黒姫狂女』である。
「しまった! 彼女は……仲人長屋だ!」
回廊に出て、門下の副官へ指図する琉蹟と侠客たちは、斎庭を横切る怪しい巨影を、はっきりと目撃した。女の黒髪が、たな引いている。
『黒姫狂女』を我が妻にと、決意したばかりの痴八は、目の色変えて素っ飛び出した。
「黒姫天女さまぁ! 今往くぜぇ!」
次いで琉蹟、敦莫、瑞茅をかかえた凶賽親分が続き、血生臭い楼閣を脱出。
斎庭をひた走る。
「皆の衆……大変じゃよ! 怪士が、例の女子を無理やりに……うぬ、不覚じゃった!」
仲人長屋の玄関から、額を割られた庚仙和尚が、血まみれでフラフラと飛び出して来た。
琉蹟の指示で、隊員がすぐに看護する。
「門司さま! なんて非道いことを……許せない!」
瑞茅も、祖父のように慕う門司の災難で奮起し、気を引きしめた。
こんな非常時に、弱っているヒマはない。
瑞茅は、もろい心に喝を入れ、凶賽親分の支えを断った。自分の足で立つ。
「御老体、無理はいかん! どこへ往ったか、それだけ教えてくだされ!」と、諭す琉蹟。
「足跡を……たどってくだされ、早く……」
庚仙和尚の言葉にハッとして、琉蹟は隊員一同を後退させた。白銀の絨毯に目をこらし、唯一筋……門司社奥へ点々と続く深い足跡に気づいた。恐らくこれにまちがいないだろう。
「こっちだ!」
琉蹟に続いて、瑞茅と侠客三人も走り出す。
隊員は二手に分かれ、間隔を開けて追従する。一部は怪我人、庚仙和尚の元へ残った。
犯人が彼女の兄なら、と安心はできない。相手は狂った殺人鬼だ。早く彼女を取り戻さねば、皮膚病人との約束を反故にし、老体を哀しませる結果にも、つながりかねないのだ。
サク、サク、サク、サク、サク……と、闇深い社殿裏の山林を、追走する一行。
寂寞に尾を引く梟、根雪を踏む足音が、ヤケに耳障りだ。
しばらく進むと小さな滝が現れた。勢至菩薩を祀った石造りの祠もある。寒気ですべて凍りついている。犯人の足跡も、降り積もる雪にかき消され、そこから先は判然としない。
「畜生っ! どこへ往きやがったぁ!?」
周囲を見回す五人。
鬱蒼たる森、枝が振り払う雪垂、氷柱、白い吐息が視界をかすませる。瑞茅の顔色は、この場所にまつわる、忌まわしい記憶を思い起こし、すっかり青ざめていた。
「皆さん! ここから先は、危険です! 一旦、引き返しましょう!」と、震える声音で、瑞茅が提案するのと同時、痴八が大音声を放った。
「啊っ! 見ろ、あそこだ!」
痴八が指差した場所、白銀一色の冬景色に、異質な黒い物がひるがえっている。
それは、『黒姫狂女』がいつも着ている、喪服の切れ端だった。
「黒姫さま! 待ってな! 今、助けに往くぜ!」
痴八は、琉蹟や凶賽親分が止めるのも聞かず、無我夢中で木立の奥へ分け入った。途端に、門司から聞かされた二年前の情景が、幻影の如く心に迫り、瑞茅は金切り声で叫んだ。
「駄目だ、痴八さん! 往かないでぇぇっ!」
刹那、樹間から飛び出した五寸針が、痴八のうなじへ突き刺さるのを、琉蹟は確かに見た。門司社の神奈備は、そこで終点だ。小高い土手を上がれば、一寸先は断崖渓谷である。
「うっ!」と、短いうめき声を残し、前のめりに倒れる痴八。まさに一瞬の出来事だった。
瑞茅の警告は、ついに間に合わなかったのだ。
「嫌ああぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!」
「痴八ぃぃぃぃぃいっ!」
屍毒針を打たれた痴八の体は、まるで人形の如く、渓谷の谷川へと落下。
深奥な闇間に、呑みこまれて往った。
顔をおおって泣き崩れる瑞茅、呆然自失の凶賽、腰砕けの敦莫。
琉蹟が、針の出所を調べたが、すでに犯人の姿はなく……雪の上に喪服姿の『黒姫狂女』だけが、ぐったりと意識不明で横たわっていた。
三十日の晨明、一晩中降り続いた雪も小康状態で、冷たい風もやんだ。
しかし、勢至門の御会堂は、陰鬱な空気につつまれていた。
「隊員総出で、探しているのだがね……痴八殿の遺骸は、まだ、見つからぬそうだよ」
外から戻った琉蹟の報告に、兄弟分の敦莫はわなないた。
捜索に加わった侠客一家の仲間たちも、疲弊しきった表情で項垂れる。
瑞茅は、先刻からふさぎこみ、一言も口を利いていない。
『黒姫狂女』は、高熱に浮かされ意識不明。聞きこみもままならず、犯人捜査は頓挫した。
庚仙和尚は、出血のワリに意外と軽症ですんだが、大事を取って奥の典薬廟で休んでいる。
「残念だよ……」と、長嘆息する琉蹟に怒り、籐椅子を倒して立ち上がったのは凶賽だ。
「遺骸、だと!? 巫山戯たこと、抜かすなぁ! 痴八は、そう簡単に、くたばるような奴じゃねぇよ! なにしろ阿呆で、頑丈さだけが取り得みてぇな奴だからなぁ! 奴は絶対に生きてる! きっと、もうじき……無事に帰って来るさ!」
逆立つ赤毛に憤怒相は、不動明王のようだった。凶賽親分の豪語に、手下連中も一縷の希望をつないだ。
しかし、琉蹟の返答は無情だ。
「そう信じたいのは、判るが……君たちも見ただろう? 痴八殿は滑落前、確かに屍毒針を刺されている。とても助かるとは思えない」
「じゃっかぁしいわい! この唐変木が! てめぇ、痴八をそんなに殺してぇのかよぉ!」
「そうではない! しかし、厳寒の谷川へ落ち、かなりの時間も経ている以上、皆さんには、最悪の結果も考慮に入れておいて欲しいのだ! 決して、楽観視はできぬと……」
「黙れ、こん畜生! 痴八が死ぬもんかよ! 役人どもは、しっかり捜索してんのか!? いや、やっぱこいつらに、まかせちゃおけねぇ! 俺がじきじきに痴八を探しに往くぜ!」
「痴八は俺の兄弟分だ! 親分! 俺もお供しますぜ!」と、凶賽に続き、敦莫も戸口へ向かう。
これを阻む琉蹟。副官や侠客一家も交え、いよいよ殴り合いの大喧嘩に発展する寸前で、泪目の瑞茅が、ようやく重い口を開いた。
「兄は……あそこから落ちて死んだのです!」
すると、男たちのいさかいが、ピタリとやんだ。顔面蒼白で、ワナワナと痛ましいほどに震えながら、やっと言葉をつむぎ出した瑞茅である。
凶賽も、前任門附人《宗瑞樹》が、あの場所で転落死した二年前の哀しい経緯は知っていた。
ゆえに痴八が、無傷で戻る確率など皆無に等しいことも、実は重々承知していたのだ。
「瑞茅の旦那……大丈夫かい」
己の苦悩を脇に除け、あくまで瑞茅を気づかってくれる凶賽の優しさに、彼は号泣した。
「凶賽親分、すまない! 痴八さんが、あんなことになったのも……全部、私のせいだ!」
瑞茅は激情をこらえきれず、床板に突っ伏した。
悲痛な声を上げ、身をよじって慟哭する。
今まで凶事の連続に、必死で張りつめていた糸が切れ、瑞茅の心はくじけてしまった。
最早、崩壊寸前だった。凶賽も琉蹟も、侠客一同も、慰める言葉が見つからない。
ところが、そんな弱々しい瑞茅に落胆し、大喝する者が現れた。
勢至門司、庚仙和尚である。
「泣くな、瑞茅! 斯様にヤワな心根で、兄上の跡目を継ぐなど、もってのほか! 職務への冒涜も、はなはだしいぞ! つらい、怖い、哀しいだけなら、尻尾を巻いて逃げ出すがよい! しかし、少しでも悔しいと思う気持ちがあるなら、痴八のためにも、自分の力で立ち上がれ! お前がここへ赴任した日、儂に見せた熱意、正義感と気概! あの負けじ魂を、もう一度見せてみよ! 泣くのは、すべてが決着したあとじゃ!」
勢至門を長年、取り仕切る門司、庚仙和尚の、愛情を含む叱咤激励であった。
包帯巻きの額に血をにじませ、自身も深傷を負いながら、懸命に諭す門司の心情は、瑞茅だけでなく、皆の心を打った。
瑞茅は懸命に嗚咽をこらえ、泪をぬぐい、門司の期待に応えるべく立ち上がった。
「よろしい! では琉蹟殿、あとはおまかせ致しますぞ」と、庚仙和尚は力強く微笑んだ。
琉蹟は、門司に至心をこめて一礼した。
「瑞茅殿、あなたは素晴らしい上役にめぐまれましたね」と、瑞茅を振り返る。
瑞茅も心機一転、琉蹟の視線をまっすぐ受け止め、うなずいた。
「今宵こそ、本当の勝負です。犯人は必ずや、ここへ現れるでしょう。あなたには、もう一度、囮になってもらいますよ。よろしいか、瑞茅殿」
「はい!」
琉蹟の提言に、瑞茅はしかと返答した。その眼差しには、今や勇気が満ちあふれていた。
門司の金言で、迷いや畏怖心が吹っ切れたのだろう。
こうなっては、凶賽とて最早、差し出口ははさめない。
むしろ、凛と佇む瑞茅の決心を、誇らしくさえ思う侠客たちだった。
0
お気に入りに追加
7
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる