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『五悪趣面』
其の弐
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……此度の六斎日を持ちまして、我が主人の命日も十回忌を迎えます。生前一方ならぬ宿縁を頂戴致しました貴殿にも何卒、法要への御列席を賜りたく、いささか不調法とは思いつつも、筆を執らせて頂きました次第……
『急啓 允蕉慙殿……光陰矢の如しとは申しますが、巧みな妄語讒言を用い、我が主人を謂われなき罪に貶めましたる貴殿が、今や鬼憑き罪人をあぶり出す神祇大臣配下の六官吟味方として、御活躍されるさまを見るにつけ、世の無情を感じずにはいられません……』
髭面壮年の聖真如族文官は、板床に散乱する【玉佩五条】を慌てて回収しつつ、十年前の悪質な讒訴を思い返し、顔面蒼白となった。
『急啓 楊匡隼殿……光陰矢の如しとは申しますが、姦計を目論見て、我が主人の妻女に邪淫な不貞行為を働いた挙句、死地へと追いこみましたる貴殿が、今や中央判官所上位右判官として、采配をふるうさまを見るにつけ、世の無情を感じずにはいられません……』
三十なかばの劫貴族役人は、ほどけた元結髷をかきむしり、邪恋とからめ粗雑にあつかった、十年前の冤罪事件を思い起こし、震え始めた。
『急啓 火伏せの玄馬殿……光陰矢の如しとは申しますが、つまらぬ諍いから、冤罪で獄中にあった我が主人へ刃傷に及びましたる貴殿が、出牢後も相変わらず悪行三昧をかさねつつ、安穏と生き永らえるさまを見るにつけ、世の無情を感じずにはいられません……』
緋幣族博徒は、頬からしたたる鮮血に触発され、十年前の牢屋敷で、喧嘩のすえに及んだ流血沙汰を思い出し、噴き出す冷や汗で凍りついた。
『急啓 三界薬師の爾圭殿……光陰矢の如しとは申しますが、酒毒と慢心が祟り、牢屋敷詰典薬方にありながら泥酔状態で施術、我が主人を憤死させましたる貴殿が、後悔反省の色なく、自堕落な生活を送るさまを見るにつけ、世の無情を感じずにはいられません……』
元牢屋敷詰侍医だった掌酒族老爺は、割れた酒瓶から一口呑むや、十年前の酒毒泥酔による、過失施術へと思い当たり、嘔吐した。大好物の酒も、何故か酷い味がした。
「そんな! あの時の若い官吏は、まさか……あれが元で、死んだっていうの!?」
元女掏摸・狐火の真志保は、十年前に青年官吏の懐から掏った財布と、朝廷密使の請願文書に思いを廻らし、恐々と目を瞠った。閻魔大王にかぶせられた中将面は、まさにその時の被害者、青年官吏に生き写しだったのだ。
『いかにも……ようやく思い出したか、五悪党め! 貴様らは、互いの素性を知らず、なんの因果も持たぬと思っているようだが、十年前、我が主人の非業の死に、まったく別方向から関わった、いわば殺人共犯者なのだ! 図り合ったわけではない……だが貴様らは、寄ってたかって、我が主人を苦しめ、生き地獄を味わわせ、大切な者を奪い、最期には汚名を着せたまま、世間から葬り去った! 偸盗面の女掏摸、妄語面の欺瞞奸臣、邪淫面の欲心判官、殺生面の吸血凶徒、飲酒面の狂乱医師……まさに、〝五悪趣〟通りの人殺し! ゆえに今宵、貴様らをここへ召喚したのは、過去の罪業を断罪するため! 最早、どうあがいても、厳罰は必至と覚悟しろ!』
見る見る内に、鬼の形相へと変化する中将面は、口元を邪悪にゆがませ、血を吐き罵倒する。亡魄の怨嗟を宿した木造面は、大地を揺さぶる不気味な獣声で、五悪党を恫喝する。
とても信じがたい凶変を目前に、腰を抜かす五悪党……まるで、悪夢を見ているようだ。
かすかな地鳴り。
燃えさかる万灯。
揺れ動く須弥壇。
そして閻魔大王像は、メキメキと木片をはがし、ゆっくりと曲彔から腰を上げたのだ。
決して動くはずのない彫像が、太い腕を伸ばし、五悪党めがけて裁定の笏を振りかざす。
「ぎゃあああぁぁぁぁぁあっ!」
「ば、化け物だぁぁぁぁぁぁあっ!」
「ひいぃぃ! 助けてくれぇぇえっ!」
「嫌ああぁぁぁっ! 許してぇぇえっ!」
「待ってくれぇ! 死にたくないぃいっ!」
五悪党は板唐戸を打ち破り、命辛々閻魔堂の外に転がり出した。青年閻魔から逃れ、一心不乱に森陰へ遁走する。散り散りに、深山の闇夜へまぎれこんだ五人。濃霧に視界をさえぎられ、木々や草棘で手足を傷つけられても、息ができなくなるまで闇雲に走り続けた。
ついには方向感覚を失って、巨木の根元に倒れこんだ。
聖真如族の六官《允蕉慙》である。
四十がらみの髭面は、滂沱の冷や汗を垂らし、震える手で段平刀をにぎりしめる。恐々と辺りを見回すが、濃密な夜霧が一寸先をも目隠しし、禍々しい気配だけをひそめているようだ。不自然なほど静寂を満たした森が、より一層の閉塞感で、蕉慙の胸に迫って来る。
「嘘だ……俺は、悪夢を見ているのだ! こんなこと、あり得ない! 奴が……十年前に死んだ男が、今になって、俺を……クソッ!」
酸欠状態で朦朧とする蕉慙の頭へ、十年前の忌まわしい記憶が、鮮烈に黄泉還って来た。
中将面に似た青年閻魔の名は、《崔劉蝉》といった。蕉慙と同じ聖真如族出身で、当時は六官巡察使の役職に就いていた。若年ながら才気にあふれた正義漢は、次々と手柄を立て、輝かしい出世街道を邁進していた。ゆえに同役からは、常に羨望と嫉妬の眼差しを向けられていた。そんな彼を、蕉慙もこころよく思っていなかった。いや、それどころか、己より遅く官職に就いた若輩者のクセに、メキメキと頭角を表す劉蝉の存在が目障りでならなかった。高位天官配下として、劫初内の不正悪政を糺すため、査察を行う密偵職は、国家の重責を担い、公正謹厳な立場を全うせねばならず、決して失敗は許されない。
そんな劉蝉の失態を、蕉慙は内心、願ってやまなかった。
しかし、蕉慙の悪辣な期待を裏切り、劉蝉は常に賢く有能な男だった。
「だから俺は、奴が許せなかった! 自分より若く、出来のいい同役の存在を、なんとしても消し去りたかった! 奴を追い落とすための材料を、俺はいつも探していた! だが奴は真面目一本槍で、なかなかつけ入る隙がなかった! 十年前の、あの時までは……」
暗い濃霧の中で唯一人……蕉慙の意識は次第に遠のき、虚実の境目が崩れ、夢見心地のまま、取り止めのない独白をつぶやき始めていた。
――俺に絶好の機会が廻って来たのは、十年前……そう、弥陀門町で夏越の天神祭が始まった同日。あれは、暑いさかりの夜半だったな。いつも、憎らしいほど落ち着き払った劉蝉が、珍しく血相変えて、吟味方上役の屋敷へ駆けこむ姿を、俺は目撃したのだ。これは只事でないと直感した。丁度、隋申忠隊から預かった調書を、上役の元へ届ける途中だった俺は、奴に気づかれぬよう、急いで尾行した。平時の奴なら、俺の尾行に気づいたやもしれんが、あの時の奴は尋常でなかった。それもそのはず……ついに俺の念願叶って、奴は大失態を演じたのだからな! 俺が吟味方上役の居室脇で、聞き耳を立てているとも知らず、奴は己の不始末を、平身低頭で謝罪していたっけ……哈哈。なんと劉蝉の奴、劫初内にて潜入調査中だった《宮内大臣・光禄王》の密書を、こともあろうに天神祭の境内で、財布ごと掏られたって云うじゃないか! しかもその密書とは、上手く光禄王の信頼を得るために、六官巡察使の身分を明かした上で、逆に光禄王へ有利な情報を密告すると、六官に対する謀反、間諜行為の密約を記した物だった! 運が俺に向いて来たぞ! この機を利用せぬ手はない! 俺は早速、劉蝉謀殺の裏工作に着手した……『崔劉蝉は六官巡察使として、御上に仕える忠臣ぶりを見せておきながら、実は光禄王の差し向けた間諜だったのです』と、六官を統括する【禁裏近衛府】へ駆けこんで、高官のお歴々に讒訴したのだ! 効果はてき面! 劉蝉はあらぬ嫌疑をかけられ、ことの真偽が明らかにされるまで、拘禁される破目に! 奴は必死に無実を訴え続けたが、更迭された光禄王の証言や、思わぬところから現れた、例の密書が決定打となって……崔劉蝉の反逆罪は、いよいよ確実な物に! 面白いほど思惑通りだ! いや、それ以上の展開を見せて、奴は疑獄の罪をかぶせられた! まさにすべてが、俺に味方したのだ! 奴が六官から、大罪人に堕ちた途端、俺は偽証で得た信頼を最大限に活用し……哈哈! 今では、六官吟味方に昇級だ! 崔劉蝉が、牢内で死んだと聞かされたのは、随分とあとになってからだったな……だが、結局は身から出た錆だ! 大事な密書を掏られるなぞ、六官の恥晒しだ! 俺の讒言がなくても、奴は遠からず、重大な過失を犯していたはずだ! 俺のせいではない……直接、手をくだしたわけではないのだ! 俺を恨むのは、筋ちがいだぞ!――
『貴様の懺悔はそれで終わりか、允蕉慙』
突如、闇中から響いた、身の毛もよだつ獣声に、蕉慙は一瞬で夢から引き戻された。
すかさず抜刀した蕉慙は、凶刃を滅茶苦茶に振り回し、錯乱状態でわめき散らした。
「やめろぉぉ! 亡霊めぇぇ! そばに寄るなぁぁ! 俺が悪いんじゃなぁぁいぃぃ!」
燐光を放ち、夜霧に浮かび上がる青年面へ向けて、懸命に斬りかかる蕉慙。
劉蝉の面は、切っ先をかわし高らかに嗤い、闇中を円舞する。追いすがる蕉慙は、傀儡の如く延々と廻され続け、到頭力尽き、その場にくずおれた。
息も絶え絶え、高鳴る鼓動は破裂しそうな勢いだ。すだく鬼火にも危機感をつのらせて、振り払おうと頑張るが、なえた腕はまったく自由が利かない。それどころか、蕉慙が伸ばした右掌は、逆に火の玉をつかみ取り、激烈な閃光をほとばしらせた。
「ひぃぃっ!」と、火傷に悶絶し、地面でもみ消す蕉慙だったが、焦げて血のにじむ右掌を開いて絶句。誇り高き聖真如族の『唵』字が、『嘘』の血文字に、書き換えられていた。
そんな蕉慙に追い討ちをかけて、飛来した劉蝉面。
いきなり蕉慙の顔へ張りつき、引きはがせなくなってしまったのだ。仇敵の白面にさえぎられ、声はおろか、呼吸すらままならぬ蕉慙は、面をつかんで七転八倒する。
『貴様の悪意に満ちた讒言が、私を生き地獄へと貶めたのだ! 己の嫉妬心と出世欲のため、他者を滅ぼす奸賊め! 貴様の腐った心根と所業には、まさに五悪趣《妄語》の鬼面が似合いだな……見ろ、己の醜悪な顔を!』
辛辣な糾弾におびえつつ、やっと劉蝉面をはぎ取った蕉慙は、忌々しい白面を叩き割る。
しかし蕉慙は、顔面が焼け爛れるような激痛に襲われ、恐る恐る己の顔へと手を触れた。
内側へ彎曲した二本角、いびつな鷲鼻、不気味な複眼、玉虫色の鮫肌、赤黒二枚舌のうごめく嘴……いつの間にか己の顔が、醜悪な《妄語鬼面》に変貌していると気づき、蕉慙の心はついに崩壊した。
「ぎゃああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあっ!」
『急啓 允蕉慙殿……光陰矢の如しとは申しますが、巧みな妄語讒言を用い、我が主人を謂われなき罪に貶めましたる貴殿が、今や鬼憑き罪人をあぶり出す神祇大臣配下の六官吟味方として、御活躍されるさまを見るにつけ、世の無情を感じずにはいられません……』
髭面壮年の聖真如族文官は、板床に散乱する【玉佩五条】を慌てて回収しつつ、十年前の悪質な讒訴を思い返し、顔面蒼白となった。
『急啓 楊匡隼殿……光陰矢の如しとは申しますが、姦計を目論見て、我が主人の妻女に邪淫な不貞行為を働いた挙句、死地へと追いこみましたる貴殿が、今や中央判官所上位右判官として、采配をふるうさまを見るにつけ、世の無情を感じずにはいられません……』
三十なかばの劫貴族役人は、ほどけた元結髷をかきむしり、邪恋とからめ粗雑にあつかった、十年前の冤罪事件を思い起こし、震え始めた。
『急啓 火伏せの玄馬殿……光陰矢の如しとは申しますが、つまらぬ諍いから、冤罪で獄中にあった我が主人へ刃傷に及びましたる貴殿が、出牢後も相変わらず悪行三昧をかさねつつ、安穏と生き永らえるさまを見るにつけ、世の無情を感じずにはいられません……』
緋幣族博徒は、頬からしたたる鮮血に触発され、十年前の牢屋敷で、喧嘩のすえに及んだ流血沙汰を思い出し、噴き出す冷や汗で凍りついた。
『急啓 三界薬師の爾圭殿……光陰矢の如しとは申しますが、酒毒と慢心が祟り、牢屋敷詰典薬方にありながら泥酔状態で施術、我が主人を憤死させましたる貴殿が、後悔反省の色なく、自堕落な生活を送るさまを見るにつけ、世の無情を感じずにはいられません……』
元牢屋敷詰侍医だった掌酒族老爺は、割れた酒瓶から一口呑むや、十年前の酒毒泥酔による、過失施術へと思い当たり、嘔吐した。大好物の酒も、何故か酷い味がした。
「そんな! あの時の若い官吏は、まさか……あれが元で、死んだっていうの!?」
元女掏摸・狐火の真志保は、十年前に青年官吏の懐から掏った財布と、朝廷密使の請願文書に思いを廻らし、恐々と目を瞠った。閻魔大王にかぶせられた中将面は、まさにその時の被害者、青年官吏に生き写しだったのだ。
『いかにも……ようやく思い出したか、五悪党め! 貴様らは、互いの素性を知らず、なんの因果も持たぬと思っているようだが、十年前、我が主人の非業の死に、まったく別方向から関わった、いわば殺人共犯者なのだ! 図り合ったわけではない……だが貴様らは、寄ってたかって、我が主人を苦しめ、生き地獄を味わわせ、大切な者を奪い、最期には汚名を着せたまま、世間から葬り去った! 偸盗面の女掏摸、妄語面の欺瞞奸臣、邪淫面の欲心判官、殺生面の吸血凶徒、飲酒面の狂乱医師……まさに、〝五悪趣〟通りの人殺し! ゆえに今宵、貴様らをここへ召喚したのは、過去の罪業を断罪するため! 最早、どうあがいても、厳罰は必至と覚悟しろ!』
見る見る内に、鬼の形相へと変化する中将面は、口元を邪悪にゆがませ、血を吐き罵倒する。亡魄の怨嗟を宿した木造面は、大地を揺さぶる不気味な獣声で、五悪党を恫喝する。
とても信じがたい凶変を目前に、腰を抜かす五悪党……まるで、悪夢を見ているようだ。
かすかな地鳴り。
燃えさかる万灯。
揺れ動く須弥壇。
そして閻魔大王像は、メキメキと木片をはがし、ゆっくりと曲彔から腰を上げたのだ。
決して動くはずのない彫像が、太い腕を伸ばし、五悪党めがけて裁定の笏を振りかざす。
「ぎゃあああぁぁぁぁぁあっ!」
「ば、化け物だぁぁぁぁぁぁあっ!」
「ひいぃぃ! 助けてくれぇぇえっ!」
「嫌ああぁぁぁっ! 許してぇぇえっ!」
「待ってくれぇ! 死にたくないぃいっ!」
五悪党は板唐戸を打ち破り、命辛々閻魔堂の外に転がり出した。青年閻魔から逃れ、一心不乱に森陰へ遁走する。散り散りに、深山の闇夜へまぎれこんだ五人。濃霧に視界をさえぎられ、木々や草棘で手足を傷つけられても、息ができなくなるまで闇雲に走り続けた。
ついには方向感覚を失って、巨木の根元に倒れこんだ。
聖真如族の六官《允蕉慙》である。
四十がらみの髭面は、滂沱の冷や汗を垂らし、震える手で段平刀をにぎりしめる。恐々と辺りを見回すが、濃密な夜霧が一寸先をも目隠しし、禍々しい気配だけをひそめているようだ。不自然なほど静寂を満たした森が、より一層の閉塞感で、蕉慙の胸に迫って来る。
「嘘だ……俺は、悪夢を見ているのだ! こんなこと、あり得ない! 奴が……十年前に死んだ男が、今になって、俺を……クソッ!」
酸欠状態で朦朧とする蕉慙の頭へ、十年前の忌まわしい記憶が、鮮烈に黄泉還って来た。
中将面に似た青年閻魔の名は、《崔劉蝉》といった。蕉慙と同じ聖真如族出身で、当時は六官巡察使の役職に就いていた。若年ながら才気にあふれた正義漢は、次々と手柄を立て、輝かしい出世街道を邁進していた。ゆえに同役からは、常に羨望と嫉妬の眼差しを向けられていた。そんな彼を、蕉慙もこころよく思っていなかった。いや、それどころか、己より遅く官職に就いた若輩者のクセに、メキメキと頭角を表す劉蝉の存在が目障りでならなかった。高位天官配下として、劫初内の不正悪政を糺すため、査察を行う密偵職は、国家の重責を担い、公正謹厳な立場を全うせねばならず、決して失敗は許されない。
そんな劉蝉の失態を、蕉慙は内心、願ってやまなかった。
しかし、蕉慙の悪辣な期待を裏切り、劉蝉は常に賢く有能な男だった。
「だから俺は、奴が許せなかった! 自分より若く、出来のいい同役の存在を、なんとしても消し去りたかった! 奴を追い落とすための材料を、俺はいつも探していた! だが奴は真面目一本槍で、なかなかつけ入る隙がなかった! 十年前の、あの時までは……」
暗い濃霧の中で唯一人……蕉慙の意識は次第に遠のき、虚実の境目が崩れ、夢見心地のまま、取り止めのない独白をつぶやき始めていた。
――俺に絶好の機会が廻って来たのは、十年前……そう、弥陀門町で夏越の天神祭が始まった同日。あれは、暑いさかりの夜半だったな。いつも、憎らしいほど落ち着き払った劉蝉が、珍しく血相変えて、吟味方上役の屋敷へ駆けこむ姿を、俺は目撃したのだ。これは只事でないと直感した。丁度、隋申忠隊から預かった調書を、上役の元へ届ける途中だった俺は、奴に気づかれぬよう、急いで尾行した。平時の奴なら、俺の尾行に気づいたやもしれんが、あの時の奴は尋常でなかった。それもそのはず……ついに俺の念願叶って、奴は大失態を演じたのだからな! 俺が吟味方上役の居室脇で、聞き耳を立てているとも知らず、奴は己の不始末を、平身低頭で謝罪していたっけ……哈哈。なんと劉蝉の奴、劫初内にて潜入調査中だった《宮内大臣・光禄王》の密書を、こともあろうに天神祭の境内で、財布ごと掏られたって云うじゃないか! しかもその密書とは、上手く光禄王の信頼を得るために、六官巡察使の身分を明かした上で、逆に光禄王へ有利な情報を密告すると、六官に対する謀反、間諜行為の密約を記した物だった! 運が俺に向いて来たぞ! この機を利用せぬ手はない! 俺は早速、劉蝉謀殺の裏工作に着手した……『崔劉蝉は六官巡察使として、御上に仕える忠臣ぶりを見せておきながら、実は光禄王の差し向けた間諜だったのです』と、六官を統括する【禁裏近衛府】へ駆けこんで、高官のお歴々に讒訴したのだ! 効果はてき面! 劉蝉はあらぬ嫌疑をかけられ、ことの真偽が明らかにされるまで、拘禁される破目に! 奴は必死に無実を訴え続けたが、更迭された光禄王の証言や、思わぬところから現れた、例の密書が決定打となって……崔劉蝉の反逆罪は、いよいよ確実な物に! 面白いほど思惑通りだ! いや、それ以上の展開を見せて、奴は疑獄の罪をかぶせられた! まさにすべてが、俺に味方したのだ! 奴が六官から、大罪人に堕ちた途端、俺は偽証で得た信頼を最大限に活用し……哈哈! 今では、六官吟味方に昇級だ! 崔劉蝉が、牢内で死んだと聞かされたのは、随分とあとになってからだったな……だが、結局は身から出た錆だ! 大事な密書を掏られるなぞ、六官の恥晒しだ! 俺の讒言がなくても、奴は遠からず、重大な過失を犯していたはずだ! 俺のせいではない……直接、手をくだしたわけではないのだ! 俺を恨むのは、筋ちがいだぞ!――
『貴様の懺悔はそれで終わりか、允蕉慙』
突如、闇中から響いた、身の毛もよだつ獣声に、蕉慙は一瞬で夢から引き戻された。
すかさず抜刀した蕉慙は、凶刃を滅茶苦茶に振り回し、錯乱状態でわめき散らした。
「やめろぉぉ! 亡霊めぇぇ! そばに寄るなぁぁ! 俺が悪いんじゃなぁぁいぃぃ!」
燐光を放ち、夜霧に浮かび上がる青年面へ向けて、懸命に斬りかかる蕉慙。
劉蝉の面は、切っ先をかわし高らかに嗤い、闇中を円舞する。追いすがる蕉慙は、傀儡の如く延々と廻され続け、到頭力尽き、その場にくずおれた。
息も絶え絶え、高鳴る鼓動は破裂しそうな勢いだ。すだく鬼火にも危機感をつのらせて、振り払おうと頑張るが、なえた腕はまったく自由が利かない。それどころか、蕉慙が伸ばした右掌は、逆に火の玉をつかみ取り、激烈な閃光をほとばしらせた。
「ひぃぃっ!」と、火傷に悶絶し、地面でもみ消す蕉慙だったが、焦げて血のにじむ右掌を開いて絶句。誇り高き聖真如族の『唵』字が、『嘘』の血文字に、書き換えられていた。
そんな蕉慙に追い討ちをかけて、飛来した劉蝉面。
いきなり蕉慙の顔へ張りつき、引きはがせなくなってしまったのだ。仇敵の白面にさえぎられ、声はおろか、呼吸すらままならぬ蕉慙は、面をつかんで七転八倒する。
『貴様の悪意に満ちた讒言が、私を生き地獄へと貶めたのだ! 己の嫉妬心と出世欲のため、他者を滅ぼす奸賊め! 貴様の腐った心根と所業には、まさに五悪趣《妄語》の鬼面が似合いだな……見ろ、己の醜悪な顔を!』
辛辣な糾弾におびえつつ、やっと劉蝉面をはぎ取った蕉慙は、忌々しい白面を叩き割る。
しかし蕉慙は、顔面が焼け爛れるような激痛に襲われ、恐る恐る己の顔へと手を触れた。
内側へ彎曲した二本角、いびつな鷲鼻、不気味な複眼、玉虫色の鮫肌、赤黒二枚舌のうごめく嘴……いつの間にか己の顔が、醜悪な《妄語鬼面》に変貌していると気づき、蕉慙の心はついに崩壊した。
「ぎゃああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁあっ!」
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