鬼凪座暗躍記

緑青あい

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『鬼憑き』

其の参

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――実は侍女たちが、とある客人伝いに聞いたあなたさまのことが、別邸の方で噂になっておりましてな。私も〝冥加神山みょうがしんざんの荒行者〟の偉大なる神通力の話は、聞き及んでおりましたゆえ、此度の下降を千載一遇の好機とばかり、いささか不調法とは思いましたが、お呼び立てした次第でございます。ところで、此度下降した理由ですが……ほぉ、お触れによる讖緯先見しんいせんけんで……なんと! それでは、験者げんじゃさまがたは我が娘のために、神山を下られたと……ああ、取り乱して申しわけない……いえ、心配無用です。身内の恥を二重に晒すようで、気が引けたのも事実……聖戒王せいかいおうの娘でありながら、鬼神を依せてしまった上、それを神祇官じんぎかんの家柄の者が誰一人救えぬなぞ、験者さまも内心は呆れ果てておられるのではないですかな? しかし、神祇大臣聖戒王じんぎだいじんせいかいおうであるがゆえの苦悩……どうか、お察しくだされ。神祇府少傳じんぎふしょうふ太鑑たいかん、官吏の中には、『百鬼狩り令』の急進派が多く、鬼憑おにつ忌諱者きいしゃへの処分を徹底しようとする動きが、ますます強まっているのです。連日連夜の議論のすえ、重臣高官の意見も固まりつつある……そんな中、統括する聖戒王の娘が〝鬼憑おにつき〟だと知られたら……立場上、我が娘だけに手心を加えるわけにはまいりません。この際、私一人の失脚ですむならたやすいのですが、場合によっては、我が手で娘を成敗せざるを得ない窮状……笑ってくだされ。己の娘可愛さに、聖戒王・唐久賀からくがは今宵、御法みのりを曲げて、大罪人に身を堕とす覚悟で、験者さまがたの功力くりきにおすがりしようと決めたのです……勿論、他の者はまったく関知せぬ秘事。ここにいる抹香宗まっこうしゅう一如衆いちにょしゅう】の舜啓僧正しゅんけいそうじょう、以下数名の腹心しかあずかり知らぬ密約。しかも娘は祝言前しゅうげんまえの大事な体……決して表沙汰にはできませぬ。そこで、どうか験者さま! 我が娘・美甘みかもを……霊験あらたかな天帝てんていの神通力で、鬼業きごうの呪縛から救ってやって頂けませぬか? これは神祇大臣聖戒王ではなく、一人の父親としての、心からの願い……この通り、何卒、娘をよろしくお頼み申し上げます!――

 三更夜分さんこうやぶん、人目を忍び猪牙船ちょきぶねで裏水門から劫初内ごうしょだいへ入った修験者二人。内舎人うどねり辻番つじばんの目をかいくぐり、御灯明篭みあかしかごが燃えさかる聖戒王家の荘厳そうごんな正門前を避け、森陰の参道を登り通されたのは、密やかで質素な山庵だった。そこで、息をひそめて待つこと二日。この間、抹香宗や神祇官太鑑が、まったく別の名目で動かされ、総出で《冥加天狗みょうがてんぐ》の身元や素行、神通力の真贋しんがんに対し徹底調査を行っていたのだ。当然ながら、朝廷側には秘密裏に。
 そうした結果、本物と認定された修験者二人。やっと聖戒王との謁見が許されたわけだ。
 そして聖戒王は、庵で対面した修験者二人に、まずは正直な事実を明かし、その懐疑心を詫びた。深沈として穏やかな、白髭仙人の如き聖戒王唐久賀。 
 泪ながらに切々と語る様子には、神祇大臣たる威厳より、父親の煩悶はんもんが強く漂い、修験者たちの心情へ訴えた。
 鬼灯夜満願ほおずきやまんがんまで、残り数時間。最期の宵闇が迫る。
 山中の清閑な庵に、冷たい夕風が吹きこんできた。
 遠く望める冥加神山の黒煙と、落日に染まる稜線が、悲愴なほどに美しい。
 嵐の前の静けさか……聖戒王の濡れた瞳を、一心に見すえていた寡頭聖人かとうしょうにんの隻眼が、キラリと光った。右の晴眼せいがんは王と同じく珍しい二重虹彩の黒瞳こくどうで、ふちが金環に煌めいている。
 膝を突き合わせ、相対する二人……聖戒王の心裏に、不可思議な感懐が黄泉還ってくる。
 寡頭のひじりは、なにを思っているのか、しばし沈黙が続く。
 やがて彼は、ゆっくりとうなずき、承知した。
「やってみましょう……十年かけた修行の功力が、些少でもお役に立てれば幸いです」
《冥加天狗》の力強い言葉を受けて、唐久賀の顔色が、ようやく明るさを取り戻した。


 そこからは着々と準備が進み、初更しょこうには、美甘姫が暮らす奥向きの離宮へと案内された。
 しかし、同行するはずの聖戒王は、間が悪く訪れた賓客の接待で、一刻遅れることとなった。大湖を渡らねば往き着けぬ、姫君の離宮へ小船で進む一行は、船頭と抹香宗三十三衆派の中でも、重鎮ぞろいの【一如衆】をたばねる僧兵団長・舜啓僧正、彼の侍従僧二人。
 そして、修験者たちである。
 兜巾ときんの長身僧は《天幻坊てんげんぼう》、片足引き寡頭聖人は《雅奄居士がえんこじ》と名乗った。かたくなに頭巾を取らぬわけは、苦行のすえ負った火傷やけどの悪相を人目に晒したくないためだと語った。
 暗い湖面にユラユラと漂い浮く玻璃玉はりだまの光。
 白い睡蓮の上を群れ飛ぶ蛍。水尾みおを引く七宝魚しっぽうぎょ
 遠くぼんやりと仄霞む社殿の御灯明。
 それらすべてが、この世とあの世の境目を思わせるような、夢幻世界を創り出していた。
 やがて小船は、中洲に建つ朱塗りの大社殿へとたどり着き、修験者二人は、いよいよ世間から隔絶された、不可思議な異空間へいざなわれた。そんな一行を出迎えたのは、みやび水干姿すいかんすがた閹官えんかん、凛々しい長袍姿ちょうほうすがたの武官、頭に灯篭とうろうを載せた白装束の女官たちである。
 煌々と燃える灯明の篝火かがりびがはぜ、蜻蛉玉とんぼだま珠簾たますだれが、夜風に玲瓏れいろうな音色を奏でる。
 殿中を満たす物憂げな沈水香ちんすいこう。黒光りする鶯張うぐいすばり回廊。
 中庭には、多彩な花弁を散らせた小さな泉水が、静謐せいひつなおもてを湛えている。
 灯篭女官の案内で、姫君の待つ奥まった寝殿しんでんへ、静々と向かう一行……その時だった。
 渡殿わたどのの奥から悲鳴が上がり、侍女たちが足音高く、こちらへ逃げて来たのは。
 舜啓坊が侍女の一人を慌てて捕まえ、厳しく詰問する。
「はしたない! これは一体なんの騒ぎだ!」
「姫さま、いつもの悪巫山戯わるふざけにございます!」
 直後、腹心には毎度の、しかし修験者たちには初めての、瞠目どうもくすべき美甘姫狂態を見せつけられることとなった。全身にみのをまとった灰まみれ家臣が、獣じみた四足でドタドタ駆けるその背後。追いすがり、金平糖こんペいとうをぶつけては「鬼は外ぉ!」と、奇声を発する娘。
 煌びやかな金銀総刺繍きんぎんそうししゅう朱綸子襦裙しゅりんずじゅくんを、しどけなく着崩し、高家上臈こうけじょうろうの血統にもかかわらず、髪は耳の横だけ長く垂らし、おかっぱ頭に、ばっさり切り落としてしまっている。
 だが、都人の噂以上に、白肌の嬋娟せんけんたる美貌が神々しい少女。
 それが、《美甘姫みかもひめ》だった。
 童女のようにつたない足運びで、裾を散らしては走り来る、あまりに美しい乙女の放埓三昧ほうらつざんまい。さすがの修験者たちも目を奪われ、唖然竦然。舜啓坊は怒り心頭。
 丁度、目前まで駆けて来た無様な蓑家臣を、鬼の形相で大喝した。
「このれ者! 恥を知れぇ!」
 灰と蓑で視界が覚束ない家臣は、突然の大音声だいおんじょうに驚倒し、勢いあまって泉水へ落下した。
 これに、ケタケタと癇声かんごえで笑い狂う姫。
 泉から必死で這い上がろうとする家臣の頭を、榊の幣帛へいはくでもって、激しく殴打し始めた。
「姫さま! 降参ですじゃあ! 何卒、ご勘弁をぉ!」と、巨漢の髭面家臣が濡鼠ぬれねずみで叫ぶ。
 それでもなお、幣帛を振り上げる美甘姫。
 見かねた舜啓坊が、語気を荒げて諌言かんげんした。
「姫さま! お戯れがすぎますぞ! 斯様に不埒なおふるまい、父君が目にしたら、どんなに嘆かれることか! ご酔狂も好い加減になさい!」
 ところが美甘姫、舜啓の激昂など意に介さず、口をとがらせては無邪気にのたまう始末。
「なにを怒る、舜啓。わらわは鬼退治をして、御殿を住みやすくしたまでじゃ。どうじゃ、秦少保しんしょうほう。そちは鬼であろう? 相違あるまいのう?」
 これに、息も絶え絶えの家臣は、疲弊しきった表情で苦笑いするのみだ。
 横で始終を観察していた修験者二人は、顔を見合わせ長嘆息ちょうたんそく。そんな二人にようやく気づいた美甘姫は、幣帛の榊葉を無造作に千切りながら、寡頭僧へと歩み寄った。
 頬当口巾ほおあてこうきんからのぞく糜爛びらんした悪相を見つめ、姫は大きな黒瞳を異様に輝かせた。
「おぉ! お前のことは覚えておるぞ……わらわが冥府をさまよった際、現れた閻魔に瓜二つ! いいや、お前に相違ない! 久方ぶりじゃのう! お前は、枯枝の腕を鞭の如く伸ばし、わらわを捕縛しては、断罪した……覚えておろう? つい先だってのことじゃ! そうか……ようやっと、わらわのたまを迎えに来たか……待ちかねたぞ!」
 目縁まぶちをほんのり朱に染め、誘うような上目遣いで、寡頭僧に悪戯っぽく微笑む美甘姫だ。
 鬼狂おにぶやまいさえなければ、これほど魅力的な美姫びきもあるまい。姫君の端整な顔立ちと、問題の左掌ひだりてのひらに見え隠れする【卍巴鬼業印まんじどもえきごういん】を見比べつつ、惜しむらく思う修験者二人だった。
「姫さま、また埒もないことを! このかたたちは、姫さまの病をお見舞いに、わざわざ遠方から来てくださった、えらいお坊さまですぞ! それを閻魔だなどと……申しわけありません、御聖人。たわいもない夢の話でございますよ。しかし、ただいまご覧頂いた通り、傍仕えも散々振り回され、ホトホト手を焼いている次第……」
 舜啓坊は長嘆息しつつ、姫には小言をさし、修験者たちには注進も怠らない。
「姫さま。左手を見せて頂けますかな?」
 寡頭の雅奄居士は美甘姫の左手を取り、丹念に掌の卍巴印と、朱に染まる爪を確認した。
 雅奄居士の顔色が、にわかにかきくもる。
「舜啓殿、ご覧なさい。忌諱印きいいんは紅く、爪先は朱。これは姫君に憑いた鬼の禍力かりきの程度を表すもので、朱色は鬼神級の上忌色じょうきしょく……しかもすでに右手の十指まで、爪が鬼業に穢されている……忌々しき窮状だ! 舜啓殿! 最早、猶予はありませぬぞ! 聖戒王君のご到着を待つ間も惜しいほど、ことは切迫しておる!」
「な、なんですと!?」
 聖人の鬼気迫る眼光に、驚き戸惑う舜啓坊。
 さらに天幻坊が、不安をあおり云いつのる。
「いざ、ご祈祷の準備を! お頼み申しておいた護摩壇ごまだん七神木しちしんぼく護摩木ごまぎ五彩色ごさいしきの顔料、紅米べにごめなど諸々、すべてご用意頂けましたな!」
「はっ、はい! それはもう、奥の霊廟に抜かりなく……しかし御坊ごぼう、今しばらく……」
「それでは姫君、参りましょうか。舜啓殿! 案内あないを!」と、美甘姫の手を引き、声を荒げる修験者たち。彼らの迫力に圧された舜啓坊は、やむなく足早に、霊廟へと先導せざるを得なくなった。
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