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『鬼戯子』
其の八
しおりを挟む天凱府の国政心臓部【劫初内】……その南方『離区』に建つ、刑部大臣《覚樹王》邸宅。
盂蘭盆明けの三更夜分。
手入れの往き届いた庭園の心字池に、精霊舟を流す人影があった。
石橋にかがみ、揺れる御灯明を儚げに見つめる人物は、元結髷に白髪も増えた初老の男。
大邸宅の主、《覚樹王》その人である。
「それで……無益な血は見ず、解決できたわけか。噂以上に、見事なお手並みだ。【鬼凪座】諸君。千那津には無論、なにも云わなかったろうな」
揺れる水面に目を向けたまま、覚樹王は背後の木陰に佇むもうひとつの人影へ質問した。
「あなたのご依頼通り、荒事は極力避けました。千那津殿にも、しゃべっちゃいませんぜ」
木陰から現れたのは、左半身が爛れた悪相琥珀眼の座長、《癋見の朴澣》である。
覚樹王は、ほっと安堵のため息をつき、朴澣を振り返った。職席上、常に厳格な面立ちを見せる大臣も、今宵ばかりは様相がちがった。しわ枯れた頬を、一筋の泪が伝っている。
「今更、手前勝手で勘当した娘に……恩着せがましく、父親面はしたくないからな」
「気にせずお逢いになればいいんですよ。千那津殿もきっと、喜んでくれるにちがいねぇ」
「妻を、差しおいてか? それはできん!」
覚樹王は声を荒げて、立ち上がった。朴澣は、老境に入った大臣の孤独な背中から、彼の痛惜に苦しむ胸の内を推し量り、つぶやいた。
「後悔……なさってるんでしょう?」
精霊舟を見送る覚樹王は、肩を震わせ、贖いきれぬ過去の愚かな罪業を、吐露し始めた。
「ああ、当然だ。儂は、千那津の恋路を断ち切った上、腹のヤヤ子を、堕胎せよと命じた。挙句、産むと云い張った娘を追い出し……妻は息を引き取る間際まで、娘と孫の身を案じておった。ともに暮らしたいと願う、あいつの訴えを退け、千那津と孫娘の元へ往くことすら禁じてしまった……そんな儂が妻を差しおき、どの面提げて千那津の元に逢いになど往ける……最も罪深きは、この儂かもしれん。玲凛の実父はここの園丁だった。千那津と恋仲になり、子供まで作った。あの若者は本気で千那津を愛しておったのに、儂は身分ちがいの婚姻関係を、断じて認めなかった。そして千那津の目前で、若者を斬り捨てた……玲凛の父親を、儂が殺したのだよ。当事、千那津には、宰相太子との婚約話が持ち上がっておってな、儂は嫌がる千那津を、太子の元へ嫁がせるため、あのような非道を……娘や孫の幸せではなく、己の野心を満たそうとした、愚かな父だった。それでも、世間知らずな娘のこと……一時は儂を恨んでも、すぐに子供を連れて舞い戻ると、たかをくくっておった。それがまちがいだった……意地を張る内、妻を失い一人になって、無性に寂しくなった。密偵を私用で動かし、娘と孫の住まいを探し出させた。やがて、弥陀門町支母末宿の裏長屋に、新たな夫と三人で暮らしていると知った。悩んだよ……呼び戻すべきか、こちらから逢いに往くべきか。一度は堕ろせと迫った孫娘にも、逢いたくてたまらなかった……半月ほど悩む内、手遅れになってしまった。例の〝忌地事件〟が起こったのだ……玲凛が殺されたと報告を受けて、儂は……妻の仏前で泣き明かした。なにもかも、遅すぎた……ばちが当たったのだと、そう思った。だが、管轄ちがいの上、鬼畜の仕業と断定されては、仇討ちも詮方ないとあきらめ……八年経った。但し千那津には相変わらず、密偵を張りつかせておいた。玲凛を殺した鬼業が娘にも障りはしないかと、それだけが気がかりだったのだ。そうして娘の近辺を見張る内、怪しい行商人の存在を知った。娘が夫の諒銑に、不貞と暴力で苦しめられていることも……さらに行商人の正体を探らせたところ、ついに恐ろしい真実へたどり着いた……かといってこれ以上、刑部省の密偵を私用で働かせるわけにはいかない。真犯人とおぼしき男が、すぐそばにいるというのに……確証もなく、千那津を傷つけたくなかった。だから、聖戒王家の鬼騒動で暗躍したらしい、と噂の……」
「俺たち【鬼凪座】を雇ったワケですね。刑部大臣《覚樹王》ではなく、孫娘の仇を討ちたい祖父、そして娘に贖罪したい父親、いずれにせよ、あなた個人の依頼として、私金を投じた。まぁ、この手の汚穢仕事は、裏家業専門の俺たちにゃあ、打ってつけだ。いくら高家大臣職でも、役人に殺しまでは頼めませんからな、御老人」
覚樹王の長い告解に、終止符を打つかの如く、朴澣は吹かし続けた煙管の雁首で、パンと、石燈篭を叩いた。再度、振り向く覚樹王。朴澣の琥珀眼には、憤激が渦巻いていた。
「はっきり云わせてもらおう。あんたは金だけ出して、てめぇじゃ決して動かない朴念仁だ。娘が可愛きゃ、その足で逢いに往き、謝罪すべきだろ。孫娘が憐れなら、その手で犯人を捕らえ、仇討ちすべきだろ。後悔するのが趣味なら、俺たちぁなにも云わねぇが……こんな不快な仕事はなかったぜ、爺さん。葬式出す前に、意固地を治して、娘に詫びのひとつも入れとくこったなぁ。笙弥はいい男だ。諒銑たぁ雲泥の差だ。千那津さんに、惚れ抜いてる。今度こそ、まちがいねぇ。今から頑張りゃあ、ガキの二、三人だって作れるだろう。次に後悔するときゃあ、あんたの最期だぜ。覚樹王殿」
朴澣はそれだけ云うと、呆然自失で佇む覚樹王を池畔に残し、瞬く間に闇中へと消えた。
盂蘭盆翌々日の早朝、支母末宿『溝板界隈』裏長屋は、静まり返っていた。
どこの家々も、まだ深い眠りの中にある。
だが、千那津だけは一睡もできぬまま、褥に臥し、悩み煩っていた。
玲凛の不遇、夫・諒銑の許しがたい罪業、父王の至心、そして笙弥が見せた真摯な愛情。
『私は、あなたを監視する内……いつしか本気で、あなたを愛するようになっていました。玲凛ちゃんのこと、御亭主の件で、今はまだ、踏ん切りがつかないかもしれない……でも、私は待ちます。やがてあなたの心が癒え、私とともに生きて往く、いつかそう思える日が来るまで、私は、ずっと待ち続けますよ……千那津さん』
千那津の瞳から、また一粒の泪がこぼれた。
これが哀しみの泪なのか、悔しさの泪なのか、喜びの泪なのか、もう千那津自身、判らなくなってしまうほど、昨日から泣き続けだった。無明の苦しみの真っただ中、千那津の枕元には、父王が愛用していた手作りの袱紗もある。その時だ。
……鬼灯手鞠 カラコロ転ぶ
鬼寄せ神楽の 五墓日詣で……
千那津は、どこからともなく突然、流れて来た『鬼灯手鞠』に驚愕し、跳ね起きた。
寝巻き姿のまま、庭を走って、裏木戸をくぐり、家外へ飛び出す。
周囲は白一色、濃密な朝靄につつまれて、数歩先の視界すら覚束ない。それでも千那津は、唄声を頼りに手探りで、ようやく裏長屋入口の角に建つ、駄菓子屋までたどり着いた。
ここは去年、店を仕切る老夫婦が、相次いで病死してから、空き家になっている。
……鬼灯手鞠 カラコロ転ぶ
不如帰門を 転げて堕ちる……
白濁した空気に、じっと目をこらす千那津。
店仕舞いした駄菓子屋の前に、奇妙な二人組が佇んでいる。
巡礼姿の男たちである。唄っているのはその一方、二十三、四歳の青年で、所作や顔つきから察するに、知恵遅れのようだ。千那津は、恐る恐る巡礼二人に声をかけた。
「あの……こちらの店は去年、店仕舞いしておりますが……ここになにか、御用ですか?」
巡礼のもう一方、髭面老年のいかつい眼帯男は、千那津を一瞥し、素っ気なく答えた。
「知っておる。人伝に聞いたのじゃ。遅すぎたな……もう一年、早く判れば……ぼん、お前の実父母は、去年の暮れに死んだそうじゃ。可哀そうに喃。どこまでも不憫な子じゃよ」
巡礼の言葉に、千那津はハッと息を呑んだ。
忌地事件で玲凛を失ったのち、誰よりも千那津の身を案じ、親切に世話してくれた老夫婦である。哀しみを忘れるため一時転居し、数年後戻った際も、明るく迎え入れてくれた二人だった。ある日、子供好きの老爺から、泪まじりに聞かされた昔話を思い出したのだ。
『実はねぇ、千那津さん。儂ら夫婦にも、息子が一人おったのだよ。結婚して八年目、ようやく授かった子だ。知恵遅れだったが、その分、余計に可愛さが増してなぁ……妻と二人、大切に育てて往こうと心に誓った。それが十数年前……あの子が七つの誕生日だった。何者かに誘拐されてしまったのだ。すぐにお役人を呼び、親類縁者にも協力を仰いで方々探した。儂も妻も、必死で尋ね歩いた。結局、見つけられず……お役人は、身代金の要求もないことから、子のない夫婦にでもさらわれたのだろうと……捜索を打ち切ってしまったのだ。儂らはあきらめきれず、子供の集まる界隈を、あちこち捜し続けた。ついには古物商の仕事をやめ、子供の集まる駄菓子屋をここに開いたのだよ……こうして待っていれば、いつかあの子が、駄菓子を買いにやって来る。そう信じて妻と二人……だから、儂らは、大切な娘さんを亡くしたあなたの気持ちが、誰よりも判るつもりだ。駄菓子屋に来る、余所の子供らを見ると、儂らは少しずつだが、心が癒やされた……同じように、今はつらくとも必ず、あなたは立ちなおれる。千那津さんはまだ若いんだ。子供だってまた、作れるだろう……哈哈、余計なお世話だったかな、すまないね。なにせ儂ら夫婦は、もう年だ。あの子をあきらめたわけではないが、妻も儂も……いささか待ちくたびれてしまったよ』
数年前に聞いた話だが、千那津は鮮烈に覚えていた。
優しい老夫婦に、そんな哀しい過去があったとは……そして今、目前に佇む巡礼が連れて来た、《ぼん》と呼ばれる白痴青年こそ、老夫婦の息子だと、確信したのだ。
「失礼ですが、あなたたちはどこから……?」
はやる胸を抑えて、静かな口調で訊ねる千那津に、黙祷を捧げつつ老巡礼が答えた。
「八象聖地『坤乃宿』じゃよ。この《ぼん》は喃……十数年前、子のない夫婦に拉致されたものの、白痴と判るや放逐されたらしい。言葉が上手く話せぬゆえ、ここにたどり着くまで、随分と時間が経ってしまった……残念じゃよ」
網代笠の翳で、泪をぬぐう老巡礼。なにも判らぬ白痴の《ぼん》は、実の父母が長年暮らしたこの店から、なにかを感じ取ったのだろうか。
唐突にまた、鬼灯手鞠を口ずさみ始めた。
但し今度は、禁忌の禍唄でなく、正しい歌詞である。
……鬼灯手鞠 カラコロ転ぶ
天生夜神楽の 六施日詣で
とと様かか様 達者で御座れ
神饌五穀に 閼伽が良い
蜻蛉玉いっぱい 手鞠に詰めて
満ち月茅の輪に 放りましょ
鬼灯手鞠 カラコロ転ぶ
阿弥陀の神門を 転げて回る……
「とと様かか様、達者で御座れ……か。これこそ、子供らの願う至心なのじゃな。ぼん」
屈託なく笑う白痴青年の頭を、軽くなでてやる老巡礼。彼は、駄菓子屋に合掌を手向け、一礼すると、青年を促し、濃霧の中へ消え去ろうとする。
千那津は、感激に胸を揺り動かされた。今ようやく、老夫婦の悲願を叶え、父母の元へ戻って来た《ぼん》を、このままなにもせず、見送ることなど到底できなかった。
千那津は強い使命感に急かされて、老巡礼に追いすがった。かすれ声で叫ぶ。
「待ってください、巡礼さま! その子を、私に預けて頂けませんか!」
立ち止まり、振り返った老巡礼の胡乱な眼差しに対し、千那津は事情を説明し始めた。
「私は生前、こちらのご夫婦に、大変お世話になった者です! 葬儀の時には、ご夫婦の親類とも、顔見知りになっております! 皆さん、とてもよいかたで……その子のことも、いまだに案じておりました! ですから是非、その子を、引き合わせてあげたいんです!」
泪ぐんだ熱い瞳で、懸命に訴える千那津。
すると老巡礼、ニヤリと笑ってうなずいたのだ。
「その言葉が聞きたかったんだよ。ぼんのこと、あとはあんたにまかせたぜ。千那津さん」
千那津は、付け髭眼帯を外し、網代笠を上げた男の素顔に、愕然と瞠目した。
左半身が爛れた、悪相琥珀眼の若年である。
男は、ぼんを千那津の元へ残し、朝靄の中に姿を消した。
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