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『鬼戯子』
其の弐
しおりを挟む「あんたって、ホント非道い人……」
「あぁん? なんか云ったか?」
如意輪門町笆宿の遊郭は、東方持国区でも名高い悪所。
盂蘭盆の初日にもかかわらず、大勢の色客と艶やかな遊女の駆け引きで、にぎわいを見せていた。中でも高尚な老舗『桂華満堂』は、別嬪ぞろいで酒肴も絶品と評判だった。
そんな桂華満堂の伽羅香漂う上客間、天蓋におおわれた寝台で、情交を終えたばかりの女郎が馴染みの客に、気だるい声で話しかけた。
「非道い人だって云ったのよ。最初の晩のこと、あんた覚えてないの? この綺麗な顔と上品な喝食姿に、すっかり騙されちゃったわ。あんたったら……おびえる私を、力尽くで手込めにしたじゃない」
まだ年若い女郎は、寝台敷布にうつ伏せたまま、横目で男を睨んだ。前髪をゆるく束ねた喝食髪の青年は、確かに驚くほど美しい顔立ちをしていた。だがさらに驚くのは、彼の全身にくまなく彫られた、不気味な経文の数々だった。
「莫迦、女郎相手に手込めもクソもあるかよ! お前は、男と寝るのが商売だろ? 俺が【穢忌族】だからこばむなんてなぁ、可笑しいぜ!」
男は鼻で笑い、枕元の瓶子から直接酒をあおった。相娼にも口うつしで呑ませてやる。
今では彼女も、嫌がる素振りなどまったく見せない。
男の正体は、《夜戯れの那咤霧》である。
女郎の名は《沙耶》といった。十八歳。
別嬪ぞろいの『桂華満堂』でも一、二を争う人気女郎で【掌酒族】の両親が借金だけ残し、病死したあとに、ここへ売り飛ばされたのだ。もう苦界での生活は、四年目になる。
「莫迦は、あんたよ。穢忌族だってバレたら、大変な騒ぎになるわ。他の娼妓なら若衆を呼んで、あんたを叩き出してたはずよ。だって呪われた忌諱族の男に、誰が好きこのんで身を差し出すモンですか。他の男なら、もっと簡単に受け容れられたんでしょうけど……嫌ンなっちゃう! 今じゃ逆なのよ。あんた以外の男に、抱かれるのがつらい……まさか、あんたったら、私に呪いをかけたんじゃないでしょうね? いいえ……そうとしか思えないわ! だから、非道い人だって云ったのよ!」
沙耶の瞳には、うっすらと泪が浮かんでいた。掌酒族の女性は『泪麻』と蔑称されるが、それには理由がある。彼女たちの泪は、特殊な催淫効果と依存性を含んでいる。
遊郭側が沙耶を破格の高値で買い取ったのも、この麻薬作用を有す泪の効能が、客寄せに最大限利用できると計算したからだった。しかし沙耶のわずかな誇りは、店側の意向に反し、どんな惨い仕打ちにも堪え、決して泪を見せなかった。
那咤霧は、そんな沙耶が初めて泪を見せた相手だった。
だが那咤霧は、彼女の泪麻にまったく興味を示さず、恋心に震える沙耶の裸身を優しくつつみこみ、そっと耳元へささやいたのだ。
「泣くんじゃねぇよ、沙耶。約束しただろ? 今日はきっちり身請け金、そろえて来たぜ」
「「「來來來來……得了!!」」」
盂蘭盆の二日目、観音門町春米宿の賭場は、今日も大盛況だった。
高家官吏の白亜邸宅が並ぶ目抜き通りの真下に、戦中の地下壕を再利用して作られた秘密の社交場は、高官の口添えと、立地条件にめぐまれたお陰で、判官所の厳しい捜査を、いつも巧妙にまぬがれていた。
「クソッたれ! また、無卦の大凶『鬼』が出やがった! 今夜は、ツイてねぇぜ!」
回転する六角駒が、カラカラと音を立て、勝敗を決める【磊磊】賭博だ。
派手な牡丹の刺繡をほどこした半被に、七宝つなぎの裾細袴が、いかにも遊び人といった感じの風来坊は、蜂房の如く細密に区切られた十二運『無卦』枠から、己の琥珀玉をつまみ出し、自棄酒をあおった。血気さかんで勝気な十八も、さすがに次の勝負は降りた。
負けがこんで、借金はかさむ一方だ。
「ちょいと、紫瑛哥さん。そろそろ潮時だよ。今日はもうお帰ンなさい。これまでの借金を清算してからねぇ。ささ、こちらへおいでまし」
薄暗い石造りの賭場を仕切る強面の顔役が、大の字に倒れた《鬼布施の紫瑛》を、威圧的な眼光でのぞきこんだ。彼の背筋を悪寒が走る。
「やぁ、顔役の親爺さん。いつも、すまねぇな。またスッちまって……その、清算は、次回に持ち越しってことにゃあ……ならねぇよなぁ」
四半時ほどのち、賭場の顔役連中の手で、用水路に叩き出された紫瑛は、満身創痍だった。苛烈な鉄拳制裁を加えられ、衣服はボロボロ。顔も体もアザだらけで、前歯は折られ、片目は開かず、おびただしい鼻血を噴いていた。
「この穀潰しがぁ! 二度と来んじゃねぇ!」
屈強な顔役どもは、ボロ布の如く打ち捨てた紫瑛に、イラ立ちを唾棄すると、用水路脇の隠し通路から、元の賭場へと戻って往った。
「痛ててっ……あん畜生ども! 情け知らずの腐れ外道め! この借りは、いつか必ず」
紫瑛は鼻血をぬぐって口をすすぎ、重い体と濡れ衣を引きずり渾身の力で立ち上がった。
そんな時である。用水路の高い石垣上から、フラフラの紫瑛に、声をかける者があった。
「喂、そこにいるのは……鵬紫瑛君じゃないか? そうだろう? 一体どうしたんだ!」
紫瑛は、声の主を振り仰いだが、月灯りの逆光で相手の顔がよく見えない。
石垣にもたれ、くずおれた紫瑛を案じ、声の主は汚濁いちじるしい膝下の水路まで、石段を伝って降りて来てくれた。
「酷くやられたねぇ! でもまさか、こんなところで君と再会するとは……僕だよ。宋家の笙瑞だ。幼馴染みの顔を、忘れはしないだろ?」
月光に照らされた元結髷の官吏風青年は、仄かな白檀香を発していた。【檀族】らしい。
紫瑛は突然現れた男の顔に、幼馴染みの面影を見つけ、打擲で腫れた瞼を愕然と瞠った。
「宋笙瑞だって!? 嘘だろ……本当に、お前かよ! 哈哈哈ァ、懐かしいや! その身形、見ちがえたぜ! 出世したんだなぁ、笙瑞!」
紫瑛は喜び勇んで立ち上がり、覚束ない足取りで、竹馬の友《宋笙瑞》へと歩み寄る。
「その怪我、大丈夫なのか? さぁ、僕の肩につかまって。とにかくここを離れよう。君の家は……確か、弥陀門町支母末宿の、榊璽通り西だったよね。近くまで送って往くよ」
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「相変わらずだな、笙瑞……気弱なお人好しだったけど、皆に好かれてた。今も、そうなんだろうな。俺はダメさ。親父にそむいて放蕩三昧……お陰で勘当中の身だ。折角だが送ってもらうワケにゃあ、いかねぇよ。俺にだって意地がある。今更あの家には帰れねぇ」
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穏やかな口調でそう云い、笙瑞は紫瑛に微笑みかける。笙瑞の無邪気な笑顔と、八年ぶりに出逢えたことを、紫瑛は悲喜こもごも、複雑な心情で受け容れた。
「巫山戯るな! 贅沢な暮らしができるのは、誰のお陰だと思ってるんだ! 無能な莫迦女がえらそうに、俺と別れて、どうやって生きてく気だ! 身売りでもするってのか!」
豪奢な調度品に囲まれた広間の床は、倒れた円卓椅子、食器類を散乱させていた。そこへ容赦なく叩きつけられた若い女は、怒り狂う男の殴打を浴びつつ、なおも必死で訴えた。
「お願いです、別れてください! もうこれ以上、堪えられません! どんなに貧しくたってかまわない……私は、自由になりたいんです! きゃあぁっ……やめてぇぇぇえっ!」
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「俺は絶対、別れんぞ! 燕家の体面を、お前のような莫迦女に傷つけられてたまるか! お前は死ぬまで飼い殺しだ! 判ったら二度と刃向かうなよ! 早くここを片づけとけ!」
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結婚して二年。夫と相愛で、彼女が幸せだったのは、最初の半年だけだった。
産後間もなく母が死に、下位左判官だった父と二人で、慎ましく生活して来た佳苗。
その父も、上司右判官だった夫の父に請われ、彼女を燕家に嫁がせたあと、儚くなった。
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気位ばかり高く、体面ばかり気にし、横暴な夫と陰湿な姑にさいなまれ続けた佳苗。
これから先も、地獄のような日々が続くのかと思うと、佳苗は絶望のあまり『死』さえ考えてしまう。苦悩にやつれ、疲れきった佳苗は時折、八年前の忌まわしい〝殺人事件〟を思い起こす。今現在、自分を襲う不幸は遠い昔、幼馴染みの少女を襲った、鬼業と怨念に起因している。何故だか、そう思えてならないのだ。
「玲ちゃん……助けてあげられなくて、ごめんね。八年前の忌地で……本当は、私が犠牲になっていれば、よかったんだわ……」
その時である。佳苗は蹴られた腹部に猛烈な痛苦を感じ、うずくまった。
悪寒とめまいで、すこぶる気分が悪い。
吐き気と動悸が治まらず、佳苗の弱った体に、あらゆる倦怠感が圧しかかる。佳苗は到頭、床板に突っ伏して、ワナワナと全身を痙攣させ始めた。胸がつかえて息苦しい。さすがの性悪姑も、嫁がおびただしく吐血した途端、顔面蒼白で奥座敷から飛び出して来た。
「翠鶴! 翠鶴! 早く来ておくれぇ! 佳苗の様子が、おかしいんだよぉ! もしかすると、腹にヤヤ子が……啊! 大変だ! すぐに、医者を呼んどくれぇ! 翠鶴ぅ!」
母親の絶叫で、居室から駆け出した翠鶴は、苦しげにうめく佳苗の惨状に、慄然と凍りついた。多量の下血までしている。これは尋常でない。
「佳苗! しっかりしろ! だ、誰か! 取り急ぎ、秀堰先生を呼びに往ってくれ!」
逼迫した翠鶴の声に応じ、【宅守/下僕】が裸足で、夜更けの町に飛び出して往った。
代々燕家の侍医を勤める、良生庵の秀堰医師ならば、佳苗の全身に残る折檻の痕も、金次第で目をつむってくれる。勿論、医術の腕は折紙つきだ。
ところが、勢いよく表へ駆け出した宅守は、中々戻って来ない。良生庵まで歩いても五分の距離なのに、妙である。佳苗の病状は、刻々と悪化して往く。
するとようやく、息せききらした宅守が、正門から駆けこんで来た。
その上、彼が連れて来たのは秀堰侍医ではなく、見たこともない眼帯髭面の、いささか胡乱な老医師であった。宅守は、あえぎながら、こう伝えた。
「良生庵の、秀堰先生は……今日は、お仲間内での茶会だそうで、お留守でした……それであちこちの治療院を、回ったものの……何故か先生がたは皆、ご不在で……そうしたところへ、こちらの寂螺先生が……私の、かかりつけのお医者さまですが……腕は確かです」
「失礼! ことは一刻を争うようだ!」と、宅守の言葉が終わらぬ内に、白髪の隻眼老医師《寂螺》は、佳苗の病状を看取って、ズカズカと上がり框に乗りこんで来た。
翠鶴は、怪しい医者に妻が触れられることをこばみ、さえぎろうとした。しかし、老医師の鋭く威圧的な眼光が、かたわらで文句を云う姑にも、邪魔はさせなかった。
「なんということだ! これは酷い! まちがいなく、流産の兆候だな! このままでは、妻女は間もなく死ぬぞ! 疾く、退がりなさい!」
寂螺医師の厳しい叱責に気圧され、翠鶴と姑は佳苗から手を放し、恐々と後ずさった。
「紺慈、手を貸さんか! ここでは治療もままならん! 儂の療養所まで運ぶぞ!」
老医師に呼ばれた宅守は、主人の顔色をうかがいつつ、勝手口の板戸で急ぎ担架をこしらえた。成す術もなく呆然と佇む姑と息子を押しのけて、寂螺医師と宅守は、悶絶する佳苗を担架に載せた。騒ぎに驚いて、別棟から馳せ参じた家臣や侍女が見守る中、観音門町発知神宿の荘厳な燕家正門から、堂々と妻女を連れ去ろうとする寂螺医師に宅守《紺慈》。
「ま、待て! 家内に勝手は許さんぞ! 俺も一緒に往く! お前たちも、ついて来い!」
翠鶴は、いきなり現れた寂螺医師を訝しみ、寝巻き姿のまま、彼らのあとを追った。
他の宅守二人も同行する。
姑は放心して座りこみ、夜の町へ消え往く一行を、家臣ともども不安そうに見送った。
運ばれる担架の上、苦痛に顔をゆがめる佳苗は、遠のく意識の境目で、かすかに夫・翠鶴の、壮絶な悲鳴を聞いたような気がした。
これが、盂蘭盆三日目の、三更夜間である。
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