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『傷心』
其の五 ★
しおりを挟む東方持国区・弥陀門町で、最も高尚で、最も美形が多く、最も悪名高い遊郭『嫦娥大酒楼』は、西方広目区・大日門町の『金華楼』で、志学館同期生の酒宴が開かれていたのと同夜、ピンッと張りつめた緊迫感に満ちあふれていた。なにせ今宵、お忍びでここを来訪するのは、重鎮中の重鎮……【十二守宮太保】の一人『闈司・姑洗太保』職に就く、名門董家の家長《董朱薇》だからである。云うまでもなく、楚白の実父である。
生来女好きの朱薇は、忙しい公務の合間を縫っては、頻繁にここへ通って来ていた。
蠱惑的な麝香の匂いが漂い、珠簾が玲瓏な音色を奏で、絶世の美女が艶姿でお出迎え。
一見の客など鼻にもかけぬ、一流の美々しい花魁たちが、一斉に深々と頭を下げる。
いかめしい顔立ちに、やや恰幅のいい大男《朱薇》は、上機嫌で彼女たちの出迎えに頬をゆるめた。供の重臣たちも皆、麗美な遊女連に鼻の下を伸ばし、実に愉しげである。
唯一人、朱薇のかたわらに仕える、黒衣の武官を除いては……。
「朱薇さまぁ。お待ち致しておりましたわぁ」
「どうぞ、今宵はゆっくりと、くつろいでいってくださいねぇ」
「飛びきりの美人も入荷しましたし、よろしければ初物買いなど……ね?」
「ほら、あの娘ですよ。名前は《凮蘭》……美しいでしょう?」
「ささ、ご挨拶なさい、凮蘭」
遣り手婆に急かされ、凮蘭と呼ばれた色白の新入り遊女は、うやうやしく朱薇に一礼した。誘いこむような、妖艶な上目づかいで、朱薇の髭面を見、ニッコリと微笑みかける。
「ただいま、ご紹介に与かりました、凮蘭と申します。どうぞ、お見知りおきを」
朱薇は、凮蘭の美しさに、思わずホゥッとため息をつき、狐顔の女将に問いかけた。
「これは、これは……たしかに、美しいな。こんな別嬪、どこで見つけて来たのだ?」
「苦界に、身を沈めるような女……それは、云わずもがなでしょう」
「太保殿下ともあろう御方が、いささか無粋な質問でございますわ」
狐顔の女将と、遣り手婆は、凮蘭の美貌を見ては、ニヤリと口端をゆがめ、うそぶいた。
「それもそうだな。哈哈、儂としたことが、確かに無粋であった。凮蘭とやら、許せよ」
快活に笑う朱薇であったが、腹の中では無粋と呼ばれたことに、かなり憤っていた。
しかし、この場で、それを顔に出すほどの野暮でもない。それに朱薇には、すでにこれと決めた娼妓がいた。凮蘭の美しさに一瞬、気を取られそうになったが、視界の端に馴染みの花魁《月夜見太夫》の、可愛らしいふくれっ面を見つけ、すぐさま思いなおした。
「では、今宵は凮蘭を揚げて頂けるのですね?」と、狐顔の女将。
「啊、しかし、相手は儂ではないがな」
「え?」
女将は、何故か困惑した様子で、凮蘭の方を見た。
「喂、李蒐。お前も、たまには油をつけろ。儂が揚げ代は払うゆえ、初物を頂いておけ」
朱薇の唐突な提案に、女将も、遣り手婆も、凮蘭も、そして李蒐武官も、仰天した。
一人、月夜見太夫だけが、したり顔である。
「お、お待ちください、上! 私めは、その……女子は、どうも」
とくに李蒐は、他の重臣たちの羨望の眼差しにも気づかぬほど狼狽し、断ろうとした。
朱薇は、そんな眼帯武官の隻眼をのぞきこみ、からかうような調子で云った。
「なに? 陰間の方が、専門か?」
「とんでもない!」
「ならば、命令だ。この娘を抱け」
口元こそ笑っているが、最早、否とは云わせぬ眼力で、李蒐に迫る朱薇であった。
李蒐は、ついに観念し、主命に従うしかなかった。
「……承知、しました」
凮蘭もどこか浮かぬ顔で、それでも無理に微笑み、李蒐の手を引き、奥の間へ向かった。
「李蒐さまと申されましたか……災難でしたね。要らぬ女を押しつけられてしまって」
「それは、お互いにな。お前は初めから、太保殿下に目をつけていたのだろう?」
「べつに……そんなことは、ございませんわ。お客さまは皆、同じように大切です」
「空々しいな。だが、太保殿下の後添えに、などと考えているなら、無駄なこと。あの御方は生涯、本妻など娶らん。まぁ、体目当ての妾でよければ、座はありあまっているが」
李蒐の口調は、主人である朱薇のことを語る際、どこか蔑むような響きに変わっていた。
凮蘭……いや、美貌の遊女になりすました《夜戯れの那咤霧》は、不可解そうに問うた。
「どういうことで、ございます?」
「これ以上は、娼妓相手に話すことでもない」
〈こいつ、惚れた女がいるな? それに、主人である董朱薇を、かなり嫌ってると見た! けど、所詮は男だ……朱薇に近づく好機は逃したが、こいつから寝物語に、色々と聞き出しておくか。そのために、あの狐女将と遣り手婆を、触覚術で篭絡し、ここへ乗りこんで来たんだからな。まずは、閨房に誘いこみ、夜叉面からもらった『惑乱香粉』で正気を失わせ、あとは上手く記憶操作して……へへ、いい夢を見させてやるぜ。惚けるほどなぁ〉
「そうですわね。ここは遊郭、あなたはお客さま。だったら、私たちがここですることは、ひとつですもの……さぁ、寝台へ。余計なおしゃべりはここまでにして、愉しみましょう」
天才女形を自負する那咤は、遊女凮蘭になりきり、早速、李蒐を褥へと誘った。
ところが、那咤の思惑は、そして高慢ともいえる自尊心は、呆気なく粉々にされた。
「初物とはいえ、やはり娼妓だな。手なれたものだ。しかし、俺はお前を抱く気はない」
「なんですって?」
凮蘭は目をむき、李蒐の顔を睨んだ。精悍な顔立ちをした三十路の武官は、隻眼に侮蔑の色さえ浮かべ、凮蘭の美貌を睨み返した。円卓のそばに佇んだまま、瓶子の酒を直呑みしながら、李蒐は、どこか遠い目をしてつぶやいた。心ここにあらず、といった感じで。
「俺の心には、ずっと、ある御方だけが住んでいる。ずっと、ずっと、前から……」
「奥方さま?」
〈……の、はずはねぇ。こいつの周辺も色々と調べたが、まだ独身だ。やっぱ、どっかに惚れた女がいて、そいつに操立てしてやがるんだなぁ。ふん、男のクセに、阿呆臭ぇぜ〉
だが、『奥方さま』と聞いた途端、李蒐の隻眼に、フッと暗い影がよぎった。
無論、那咤霧が、それを見落とすはずがなかった。真意を確かめるため、李蒐のそばに歩み寄り、凮蘭は彼の黒衣の袖口を引いた。李蒐は夢見心地で、奇妙なことをつぶやいた。
「奥方さま……そう、奥方さま。いや、ちがう! お前のような娼妓など、足元にも及ばぬ、可憐で、聡明で、美しい御方だ! 俺に気安く触れるな! 本気で、斬り殺すぞ!」
ところが次の瞬間には、突如として怒り狂い、凮蘭の手をぞんざいに払いのけたのだ。
これに那咤は憤慨した。そこで凮蘭は、酷く傷ついた様子で、さめざめと泣き出した。
「非道い……私だって、同じ女よ! そんな風に……それも、初めてのお客に、拒否されたら、私……私……うっ、うっ、あんまりだわ……最後の自負心まで、粉々にして……」
「泣くな……仕事なしで、給金がもらえるのだ。願ってもない幸運だろう?」
〈こいつ……どこまで、俺に恥をかかせる気だ! いっそ、殺してやりてぇぜ!〉
「嫌よ……女の気持ち、なにも判ってないんだから! 初物のクセに、客にこばまれたなんて、もし遊郭中に知れ渡ったら、私……いい笑い者だわ! 男一人満足させられないなんて、遊女としては失格だもの! 私が、どんな思いで、ここに身を預けてると思って」
「黙れ。もう、つまらん虚栄心や、くだらん身の上話も、聞きたくない。俺は往く。大体、あの下衆な男の命令だから、仕方なくついて来ただけで、俺は……遊女など言語道断だ」
李蒐は、もう我慢の限界だ、とばかりに、朱薇のことを『下衆な男』とまで云い放った。
しかしこのままでは、《凮蘭》は本当に、ただの役立たずになってしまう。那咤はもう、恥も外聞も捨て去り、部屋を出て往こうとする李蒐に、必死でしがみついていた。
「待って! もう、只でもかまわないの! 私を、抱いて! お願いよ、李蒐さま!」
刹那、頬を張られた。乾いた音がして、左頬がジンジンと痛む。那咤は呆然となった。
「くどいぞ。俺の心も体も、あの御方一人の物なのだ。お前になど、触れさせん」
辛辣にそう云い捨てると、李蒐は珠簾をむしるようにかき分け、ズンズンと回廊へ出て往ってしまった。部屋に一人、残された那咤は、怒り心頭で、ワナワナと満身を震わせた。
「あの野郎……この、天才女形の那咤霧さまが、ここまで下手に出てやったってのに、よくも袖にしやがったなぁ! 許せねぇ……絶対に弱みをにぎって、かしずかせてやるぜ!」
凮蘭としての演戯も忘れ、本気でいきり立つ那咤霧だった。
けれど、李蒐の態度には、不自然な点もあった。
「それにしても、あいつが云う、あの御方ってなぁ、誰なんだ……奴は独り身のはずだし、男のクセに、ああまでして、操立てすることもねぇはずだが……けど、奥方さまって言葉にだけは、過剰な反応を示してたな……奥方さま、奥方さま、水沫の方さま……まさか!」
那咤は、あることに思い至り、ハッと顔色を変えた。その時である。
「なにをブツブツ云ってんのよ。あんたが、新入りの凮蘭? へぇ……綺麗な顔してるクセに、まんまとお大尽客を、逃がしちまったワケ。嫌だぁ……最悪ぅ。このことが遊郭中に知れたら、それこそ、さっき、あんたが云ってた通り、いい笑い者になるわねぇ。くく」
珠簾が鳴り、衝立の向こうから、フイと姿を現したのは、『嫦娥大酒楼』の売れっ妓で、董朱薇のお気に入り娼妓《月夜見太夫》であった。可憐で美しい外見とは裏腹、かなりの性悪であることは、遊郭中の誰もが知るところだ。但し、今や女将と同等の権限を持つ最高級の太夫である彼女に、意見できる見世の者など一人もいないし、客はまんまと騙されているわけだが。那咤……いや、凮蘭は、慌てて体裁を取りつくろい、女声で問いかける。
「あなたは、確か……太保殿下の」
「月夜見太夫よ。殿下が湯殿に向かった間、あんたの仕事ぶりを、拝見させてもらおうと思ったんだけど、酷いもんねぇ。あんな手管じゃあ、男に逃げられて、当然だわぁ。くく」
部屋に、ズカズカと入って来た月夜見太夫を見て、那咤は思わず笑い出した。
飛んで火に入る夏の虫とは、まさにこのことだろう。
「ふっ……哈哈、哈哈哈哈哈」
「は? なにが可笑しいわけ? 笑いたいのは、こっちなんだけど?」
月夜見太夫は、怪訝そうに凮蘭を睨み、イラ立ちまぎれに彼女の肩を小突いた。
途端に、那咤は本性を現した。
「性悪な別嬪だな。笑い方も、グッと来るぜ。狡猾な根っこが、透けて見えてなぁ。なんにせよ、こいつぁ丁度いい具合だぜ。腹立ちまぎれに、お前の躰を使わせてもらおうかい」
ニヤリと嗤い、いつもの男声で、こう吐き捨てた凮蘭……いや、那咤霧。
「あ、あんた……その、声、まさか……ひぃっ!」
月夜見太夫は驚愕し、あとずさった。さらに那咤霧は、【穢忌族】特有の経文字を満身に浮き上がらせ、雄々しい男体を見せつけるように、華麗な襦裙をさっさと脱ぎ捨てた。
月夜見太夫は恐怖のあまり、最早、声も上げられない。
それをいいことに那咤霧は、ひるむ彼女へ一気に襲いかかった。
「俺の体伎で、お前を使い物にならなくして姦るよ……覚悟しな」
「や、やめっ……んんっ! んぐっ!」
閨房へ押し倒された月夜見太夫は、那咤霧の触覚術【狂れ刑部】の魔手で、呆気なく陥落させられた。唇を吸われ、助けをもとめることもできず、あっと云う間に衣裳をむしり取られ……あとはもう、那咤霧の意のままに動く、憐れな操り人形にすぎなかった。
遊女に化けた怪士の手に触れられるや、得も云われぬ快感の波が月夜見太夫を襲い、しなやかな裸身はゾクゾクと震え、男の怒張を突きこまれると同時、彼女は白目をむいた。
かつて、どんな客相手にも感じたことのない悦楽に呑まれ、完全に正気を失った。
無論、激しい攻めにあらがえず、あえぎ声をこらえることなど、到底できなかった。
「ひあぁあっ! あんっ、ああんっ! 善いっ……気持ちいいよぉおっ! もっと激しくしてぇ! いっそ、壊してぇえっ! ハァ、ハァ……死ぬぅ! ああぁぁぁぁぁぁあっ!」
月夜見太夫の、壮絶なまでの善がり声が、遊郭中にとどろき渡った。
これには、あちこちの部屋で、行為にふけっていた男客も、娼妓も、驚き呆れ……一時的に交合を中断してまで、思わず回廊に顔を出すほど、それは凄まじい絶頂の瞬間だった。
「凄い善がり声だな……誰だい?」
「啊、腰が抜けそうだぜ……ヤベ、勃っちまった!」
「あれって、月夜見太夫の声に似てるけど、まさかねぇ……」
「でもさ、あのあえぎ方は、本気だよ? 相手の客……相当な女泣かせだねぇ」
そんなことをささやき合いつつ、他の客たちも、娼妓たちも、ますます淫蕩な気分になり、その夜の『嫦娥大酒楼』は、これまでにないほど、大変な乱痴気騒ぎで盛り上がった。
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