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『其の拾六』
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まずは東方『青竜殿』――水沫と涅槃居士の場合、こうだ。
ユラユラと、いくつも宙に吊り下げられた油壷。床板で瞬く蝋燭の火。
そんな異様な部屋の中央で、端座瞑目する総髪の閹官《屍伽の牙奄斎》軍師……かたわらには、鉄製の大弓が置かれ、数百の矢が円陣を組んで刺さり、彼の周りを取り囲んでいる。
さらに四方の壁板には、梵字の陀羅尼経文が、隙なく緻密に書き綴られていた。水沫と涅槃居士の禍々しい来訪を受け、ようやく目を開けた牙奄斎は、艶然と微笑しうそぶいた。
「ようこそ、歓迎致しますよ。遠慮なく、お入りなさい」と、大胆にも手招きする軍師だ。
水沫と涅槃居士は一瞬、気を呑まれた。
〈私は愚鈍な軍師です。科挙に受かった兵法者も、これではまったくの役立たず。なんの値打ちもありません。盗賊【雷鳴】の名を背負い、一世一代の奇策をひねり出すはずが、結果は大戯け……よりによって大切な仲間に対し、『死ね』という軍略を下してしまった〉
〈突然、なにを云い出すか! お前さんは【雷鳴】の知恵袋! いつだって、お前さんの軍略がお陰で、儂らは窮地を乗り切って来られたんじゃ! 堂々と、胸を張ってよいぞ!〉
〈そうだぜ、牙奄斎! 深刻な顔して、一体どうしちまったんだ? 俺たちぁ、自ら喜んで、あんたの案に乗っかったんだ! 気に病むことなんて、なにひとつないじゃねぇかよ!〉
〈ワイら自慢の軍師が、そんな気弱な発言しちゃあ、悲しいぜ! しっかりしてくれや!〉
〈いいえ……私は、やはり天才などではない。軍師を名乗ることすら、おこがましいと思っているのです……此度の軍略で、皆を死地へと赴かせねばならない。私は罪深い人間です。それは今に始まったことではありませんが、この罪悪感だけは、たとえ地獄に千度逆落とされても、決して癒えないでしょう。私は自分を許せない……心底、恥ずかしい……〉
〈牙奄斎。もう自分を責めるな。誰も、お前を恨んだりしねぇよ。俺たちぁ、出会った当初から一蓮托生だ。沈没船でも、降りる心算は毛頭ないぜ。いや……むしろ、こんなろくでなしの俺たちに、生涯最期で最高の舞台を用意してくれたこと、心から感謝しているぜ〉
昨晩、皆のくれた優しい言葉が、走馬灯のように頭をよぎり、牙奄斎軍師を力づけた。
最早、恐れるものはなにもない。無論、死をも辞さぬ覚悟だ。牙奄斎は、微笑をたたえたまま、ゆっくりと立ち上がり、両手を広げた。
刺客二人は、いかにも怪訝な表情である。
此度は、さすがに警戒し、入口付近で足を止めた二人だが、お互いの顔を見合わせ、うなずいた。たとえ、どんな仕掛けがあるにせよ、相手は一人、こちらは不死身。
今更、なにをためらう必要があるだろうか。
二人は、そう思った。
「屍伽の牙奄斎! まずは無能な軍師の頭から、殺ぎ落としてやろう! いざ、覚悟!」
「命乞いに、耳は貸さぬぞ! 我らに楯突いた罪は重い! 死にざまで贖わせてやる!」
水沫と涅槃居士は武器をかまえ、一挙に牙奄斎の墓場『青竜殿』へと乱入した。この機を捉え、すかさず吊り縄を断ち切った牙奄斎。直後、ドドンと閉ざされた入口の鉄扉、響き渡る殺手の雄叫びと叫哭……『青竜殿』は水沫と涅槃居士、二人の墓場でもあったのだ。
次いで西方『白虎殿』――文殊丸と音耶の場合、こうだ。
真っ暗闇である。一寸先も見えぬほど、濃密で陰惨な闇に沈む室内だった。
その中に二つだけ、炯々と瞬く光がある。
それは、戸口で歩を止め、逡巡する敵方を、強烈に居すくめる、下下八の眼光であった。
やがて、暗さに目がなれて来ると、下下八の不穏にして、どこか不自然な様相が、明らかとなった。浅黒い肌に、真っ白な死装束、腰帯に差した樒の幣束、背には『悉皆成仏』の血文字、六道銭をつらねた額当……まさしく、死出の道行を表す亡者の有様だった。
「どうした、非人卑族! 盗賊崩れの爬虫類もどきが! 浅知恵でなにを企んでいる!」
「そんなに死に急ぎたいなら、我ら【神籬森冥罰衆】が喜んで、望みを叶えてやるぞ!」
文殊丸と音耶の威喝にもひるまず、下下八は幽かに嗤った。
そして、こうのたまった。
「正直云うと、俺は臆病者でねぇ。こうでもしなきゃ、死ぬ覚悟が決まらなかったのさ」
「なんだと?」
胡乱な眼差しで、卑族大男を見やる二人。こめかみに浮かぶ脂汗――小刻みに痙攣する四肢――焦点が合わず血走った目――口唇を伝う一筋の血滴――下下八は尋常でなかった。
『鬼憑き』染みてさえいた。
〈本当に、いいのか? 下下八〉
〈あなたも過去に見知っている通り、私の『屍毒針』を使えば、あなたは正気でいられなくなるのですよ。いや、それどころか、人間以下の獣になってしまいます。無論、打たれれば助かりません。死にざまは、凄惨なものとなるでしょう……考えなおすなら、今の内です〉
〈下下八よ! なにもそこまでせんでも、化け物どもを倒す方法は、他にあるじゃろう!〉
〈そうだ、下下八! 莫迦な料簡、起こすんじゃねぇぜ! ワイは……あんな悲惨な死に方、お前にさせたくねぇんだよ! 大切な仲間だからこそ……皆だって、そう思うだろ?〉
〈だがよぅ……今まで、地べたに這いつくばってでも、泥水をすすってでも、惨めにしぶとく生きて来たこの俺にゃあ、潔く捨身するなんて真似は、そう簡単にできっこねぇんだ。大事に至って生き恥晒すよりか、滅法暴れて一人でも地獄へ道連れにできりゃあ、それに越したことはねぇ……頼む、牙奄斎! 俺の最期の願いを、どうか叶えてやってくれ!〉
束の間、仲間との思い出に浸っていた下下八だが、やがてゆっくりと己のうなじに、震える手を伸ばした。彼の頸椎には、先端が赤い五寸ほどの鋭利な針が、突き刺さっていた。
「来いよ、地獄を見せてやる」
侮蔑的な態度で、文殊丸と音耶を挑発する下下八。殺手二人は、険悪に眉根を寄せた。
戸板で隙なく目張りがされて、真っ暗な部屋の中には、なんとも異様な感じが漂っていたが……今更、不死身の彼らに、なにを恐れることがあるだろうか。文殊丸と乙耶も、『青竜殿』の殺手二人同様、そう思いこんでしまったことが、そもそも悲劇の始まりだった。
「地獄を見るのは、貴様の方だ!」
「虫けらのように、叩き潰して殺る!」
刺客二人は、威勢よく『白虎殿』内部へ斬りこんだ。その途端、襲い来る敵方に向けて、カッと目を見開いた下下八。彼の手から、鬼の屍毒を塗った五寸針が、床へ転がり落ちた。
『殺アァァァァアァァァァァァアッ!』
下下八の獣染みた慟哭がとどろき、断ち切られた吊り縄……『白虎殿』入口も、鉄扉で完全に封じられた。しこうして、視界の利かぬ闇舞台に、殺手二人の死声と血風が吹き荒れた。
さらに南方『朱雀殿』――孔雀太夫と漣の場合、こうだ。
そこは、まさに読んで字の如く、針の莚だった。
上下左右の壁、到るところから無数の刃が突出。部屋の中心点に向かって、鋭い切っ先を煌めかせていたのだ。丁度、海胆の表皮を、引っくり返したような形態だった。片角の【巫壬族】破戒僧は、そんな部屋の真ん中で、十文字槍の石突叩き、仁王立ちしている。
彼の佇むわずかな範囲しか、安全な足の踏み場はない。
下手な侵入を試みれば、たちまち刃の壁に刺し貫かれてしまう。
孔雀太夫と漣の腰も、さすがに引けた。
「ここは、お前さんがたのために用意した『死の遊戯場』じゃ。度胸があるなら、遊んで逝くがよい」と、邪悪な胴間声で、のたまう丹慙坊……彼の双眸には、かつてない闘志がみなぎっていた。満身は強靭な殺意で鎧われていた。
それも、殺手二人をひるませた原因だ。
〈丹慙坊、そこでなにしてるんだ?〉
〈少し黙っててくれ。読経しとる……色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、舎利子……えぇと、次はなんじゃったか喃。破戒してから、早十数年。般若心経たったの二百六十二字すら、思い出せんわい。まったく……儂は自分が情けない。せめて、お前さんたちの、つつがない成仏と、輪廻転生を願って、久しぶりに仏心を出してみたものの……いや、儂のような俗物に唱えられたんでは、経文が穢れると、天帝も怒っとるんじゃろうて。まぁな、それも当然か。しかし……罰当たりは承知の上じゃ! どうか愚僧、最期の頼みを聞いてくれ! 儂は地獄へ堕ちてもかまわん! その代わり、皆の成仏を……南無阿弥陀仏!〉
〈丹慙坊……お前、莫迦だなぁ。今になってそんなことされたら、泪が出て来ちまうよ〉
〈前にも云ったろ。俺たちぁ出会った時から一蓮托生。それは死後も変わるモンじゃねぇ。お前が地獄へ堕ちる時は、俺たちも一緒だぜ。空劫浄土なんざ真っ平御免こうむるね。今更、離れる心算はねぇからな。読経なんて性に合わねぇこたぁ、よしてくれよ、丹慙坊〉
〈御頭の云う通りですよ。私たちには、すでに地獄詣での覚悟は充分できています。あなた一人が罪を背負うことなどありません。これまで犯した悪行の数々も、皆で分け合うのです。そして恐れることなく、威厳を持って、ともに冥帝の前へ進みましょう。なんなら向こうで、獄卒鬼や亡者相手に、もう一暴れするのも……ふふ、悪くないかもしれませんね〉
昨夜、交わした仲間との会話が蘇り、丹慙坊を心強くした。
彼は今、決して一人ではないのだ。たとえ、神仏に見捨てられようとも、地獄に堕とされようとも、人生で最高の道行を手に入れた破戒僧は、己を誰よりも幸せ者だと思った。
しかし、相対する敵方は、そんな破戒僧の満足げな表情に腹を立て、憤激を露にした。
顔をしかめ、刺々しい舌鋒で、丹慙坊を罵倒する。
「死の遊戯場だと? ふん、小賢しい!」
「色々と趣向を凝らしてくれるな……だが、所詮は無駄な悪あがき! 斯様に見え透いた罠など、我ら二人だけで簡単に凌駕してくれるわ! 死にざまは、凄惨なものと覚悟しろ!」
孔雀太夫と漣も思った。
先の四人同様、下賤の盗賊風情が、いくら奇策を練ったところで、武運は必ず我らに味方すると……つまり、不死身であるがゆえの思い上がりが、彼らを死地へ追いこんだわけだ。
殺手二人は、思いきり床板を蹴り、迷わず丹慙坊の『死の遊戯場』へ、飛びこんだ。
この機を見計らい、十文字槍で吊り縄を切断した丹慙坊。
鉄扉は、またしても閉ざされた。
二度と開かぬ『死門』の向こう側で、繰り広げられる阿鼻叫喚の殺人遊戯。
破戒僧と殺手二人……互いの命を削り合う、壮絶な地獄が始まった。
そして北方『玄武殿』――飛天行者と忘八の場合、こうだ。
部屋中、縦横無尽に張り巡らされたのは、漆黒の縄。まるで蜘蛛の巣だ。
不気味に垂れ下がり、複雑にからみ合う黒縄地獄を造り出している張本人は、無論《夜晒し幻麼》である。謂わば、本体の蜘蛛、といったところか……ちなみに、これらの黒縄は、すべて死者の遺髪を縒り合わせ、鬼の腐血で固めた、縄術系【忌辮索】の集大成である。
幻麼は、度肝を抜かれ棒立ちの殺手二人に、激しい憤怒をつのらせ、眼光を煌めかせた。
その瞳は、泪で潤んでいるようにも見えた。
「へん! なにが不死身の殺手だ! 所詮は、神祇府の犬どもに操られる、憐れな傀儡兵じゃねぇか! おどれらは皆、犬のクソ以下だ! 捨駒にされた挙句、地獄で後悔しても遅いぜ! 尤も、釈迦の掌で踊らされてる猿真似人間に、ワイのありがたい忠告なんぞ、判ろうはずもねぇか! 哈哈! ホント憐れな連中だねぇ! だがよぅ……てめぇの命を危険に晒しもせず、大義名分をふるうなんざ、正義でもなんでもねぇや! 臆病者の卑劣漢がするこったぜ! ま、糸が切れるまで精々神祇府の云いなりに、あくせく働くがいいさ! 但し、裏切りの代償は高くつくからな! いや、神仏に代わって、ワイが黒縄地獄へ招待したるぜ!」と、思いつく限りの罵詈雑言を吐き散らしながら、両手で鞭をしごく幻麼。
彼の胸に今、去来するものとは――、
〈幻麼、お前さん……泣いとるのか?〉
〈一体どうしたってんだよ、幻麼! まさか今更、怖気づいたってワケでも、あるめぇ?〉
〈ド阿呆ぅ! このワイに限って、そんなワケねぇだろ! これはな……うれし泪だよぅ〉
〈うれし泪ぁ? なにをトチ狂ってやがる〉
〈だってよぅ……ワイは捨て子にされて以来、いつか路傍で、野垂れ死にするのが関の山と、そう思って生きて来た男だぜ。それが皆と出会って、ワイは生まれ変われたんだ。それだけじゃねぇ。こんな立派な最終舞台まで、用意してもらえた。誰に知られるでも、認められるでも、ほめられるでもねぇ。後世にまで名が残るような、死にざまじゃねぇだろう。けどワイは、本当に幸せだよぅ。どうせ死ぬなら、この面子で……うん、坊が以前、云った通りだ。うれしくて仕様がねぇんだ。これは、いつものイカサマなんかじゃねぇ。ワイの嘘偽りない至心なんだ。畜生、泪が止まらねぇや……へへ、莫迦だろ? 皆、笑ってくんなよぅ〉
〈幻麼……もう泣くな。お前は最高の仲間だったよ。俺たちも皆、お前と同じような境遇で生い立ち、そして運命的に出会った。悪業で結ばれた罪深い俺たちだが、誰も後悔はしてないぜ。だから幻麼……最期まで笑いながら、皆で一緒に逝こうじゃねぇか……なぁ〉
〈そうです、幻麼。あなたのことを、心から誇らしく思いますよ。私も、あなたと……そして皆と、こうしてともに逝ける名誉を、死んでも忘れません……ありがとうございました〉
仲間がくれた最高の言葉をバネに、幻麼はあらためて奮起した。
ウネウネとうごめく黒縄地獄の真ん中で、幻麼は最期の気焔を吐いた。
「さぁ、どうした! 虎の威を借るなんとやらめ! 爪の垢ほどでも度胸があるなら、疾く入って来いや! このワイが、できそこないの操り人形なんぞ、軽くひねり殺してやらぁ!」
これに、怒り心頭の飛天行者と忘八。到頭、冷静な判断力まで、失ってしまった。
その上、彼らもやはり、盗賊【雷鳴】個々の力を、見くびっていたのだ。
だからこそ【神籬森冥罰衆】は、墓穴を掘り、泥梨へ先走ったのだ。
「下郎の分際で、図に乗りおって! 只今の暴言、すぐに後悔させてやるぞ!」
「いかな奇策を弄したところで、貴様の敗北は最早、避けられん! 死ぬ前にも、篤と地獄を見て逝くがよい! まずは、その小面憎い滑稽顔を、死化粧に染め変えてやろうか!」
飛天行者と忘八は、ほぼ同時に幻麼の最期の砦『玄武殿』へ、勝鬨を上げて攻め入った。
途端に鉄扉が落ち、脱出口は閉ざされる。そして、小さな世界は一気に暗転……そこから、三人の荒々しい怒号が、完全に聞こえなくなるまで、そう長い時間はかからなかった。
ユラユラと、いくつも宙に吊り下げられた油壷。床板で瞬く蝋燭の火。
そんな異様な部屋の中央で、端座瞑目する総髪の閹官《屍伽の牙奄斎》軍師……かたわらには、鉄製の大弓が置かれ、数百の矢が円陣を組んで刺さり、彼の周りを取り囲んでいる。
さらに四方の壁板には、梵字の陀羅尼経文が、隙なく緻密に書き綴られていた。水沫と涅槃居士の禍々しい来訪を受け、ようやく目を開けた牙奄斎は、艶然と微笑しうそぶいた。
「ようこそ、歓迎致しますよ。遠慮なく、お入りなさい」と、大胆にも手招きする軍師だ。
水沫と涅槃居士は一瞬、気を呑まれた。
〈私は愚鈍な軍師です。科挙に受かった兵法者も、これではまったくの役立たず。なんの値打ちもありません。盗賊【雷鳴】の名を背負い、一世一代の奇策をひねり出すはずが、結果は大戯け……よりによって大切な仲間に対し、『死ね』という軍略を下してしまった〉
〈突然、なにを云い出すか! お前さんは【雷鳴】の知恵袋! いつだって、お前さんの軍略がお陰で、儂らは窮地を乗り切って来られたんじゃ! 堂々と、胸を張ってよいぞ!〉
〈そうだぜ、牙奄斎! 深刻な顔して、一体どうしちまったんだ? 俺たちぁ、自ら喜んで、あんたの案に乗っかったんだ! 気に病むことなんて、なにひとつないじゃねぇかよ!〉
〈ワイら自慢の軍師が、そんな気弱な発言しちゃあ、悲しいぜ! しっかりしてくれや!〉
〈いいえ……私は、やはり天才などではない。軍師を名乗ることすら、おこがましいと思っているのです……此度の軍略で、皆を死地へと赴かせねばならない。私は罪深い人間です。それは今に始まったことではありませんが、この罪悪感だけは、たとえ地獄に千度逆落とされても、決して癒えないでしょう。私は自分を許せない……心底、恥ずかしい……〉
〈牙奄斎。もう自分を責めるな。誰も、お前を恨んだりしねぇよ。俺たちぁ、出会った当初から一蓮托生だ。沈没船でも、降りる心算は毛頭ないぜ。いや……むしろ、こんなろくでなしの俺たちに、生涯最期で最高の舞台を用意してくれたこと、心から感謝しているぜ〉
昨晩、皆のくれた優しい言葉が、走馬灯のように頭をよぎり、牙奄斎軍師を力づけた。
最早、恐れるものはなにもない。無論、死をも辞さぬ覚悟だ。牙奄斎は、微笑をたたえたまま、ゆっくりと立ち上がり、両手を広げた。
刺客二人は、いかにも怪訝な表情である。
此度は、さすがに警戒し、入口付近で足を止めた二人だが、お互いの顔を見合わせ、うなずいた。たとえ、どんな仕掛けがあるにせよ、相手は一人、こちらは不死身。
今更、なにをためらう必要があるだろうか。
二人は、そう思った。
「屍伽の牙奄斎! まずは無能な軍師の頭から、殺ぎ落としてやろう! いざ、覚悟!」
「命乞いに、耳は貸さぬぞ! 我らに楯突いた罪は重い! 死にざまで贖わせてやる!」
水沫と涅槃居士は武器をかまえ、一挙に牙奄斎の墓場『青竜殿』へと乱入した。この機を捉え、すかさず吊り縄を断ち切った牙奄斎。直後、ドドンと閉ざされた入口の鉄扉、響き渡る殺手の雄叫びと叫哭……『青竜殿』は水沫と涅槃居士、二人の墓場でもあったのだ。
次いで西方『白虎殿』――文殊丸と音耶の場合、こうだ。
真っ暗闇である。一寸先も見えぬほど、濃密で陰惨な闇に沈む室内だった。
その中に二つだけ、炯々と瞬く光がある。
それは、戸口で歩を止め、逡巡する敵方を、強烈に居すくめる、下下八の眼光であった。
やがて、暗さに目がなれて来ると、下下八の不穏にして、どこか不自然な様相が、明らかとなった。浅黒い肌に、真っ白な死装束、腰帯に差した樒の幣束、背には『悉皆成仏』の血文字、六道銭をつらねた額当……まさしく、死出の道行を表す亡者の有様だった。
「どうした、非人卑族! 盗賊崩れの爬虫類もどきが! 浅知恵でなにを企んでいる!」
「そんなに死に急ぎたいなら、我ら【神籬森冥罰衆】が喜んで、望みを叶えてやるぞ!」
文殊丸と音耶の威喝にもひるまず、下下八は幽かに嗤った。
そして、こうのたまった。
「正直云うと、俺は臆病者でねぇ。こうでもしなきゃ、死ぬ覚悟が決まらなかったのさ」
「なんだと?」
胡乱な眼差しで、卑族大男を見やる二人。こめかみに浮かぶ脂汗――小刻みに痙攣する四肢――焦点が合わず血走った目――口唇を伝う一筋の血滴――下下八は尋常でなかった。
『鬼憑き』染みてさえいた。
〈本当に、いいのか? 下下八〉
〈あなたも過去に見知っている通り、私の『屍毒針』を使えば、あなたは正気でいられなくなるのですよ。いや、それどころか、人間以下の獣になってしまいます。無論、打たれれば助かりません。死にざまは、凄惨なものとなるでしょう……考えなおすなら、今の内です〉
〈下下八よ! なにもそこまでせんでも、化け物どもを倒す方法は、他にあるじゃろう!〉
〈そうだ、下下八! 莫迦な料簡、起こすんじゃねぇぜ! ワイは……あんな悲惨な死に方、お前にさせたくねぇんだよ! 大切な仲間だからこそ……皆だって、そう思うだろ?〉
〈だがよぅ……今まで、地べたに這いつくばってでも、泥水をすすってでも、惨めにしぶとく生きて来たこの俺にゃあ、潔く捨身するなんて真似は、そう簡単にできっこねぇんだ。大事に至って生き恥晒すよりか、滅法暴れて一人でも地獄へ道連れにできりゃあ、それに越したことはねぇ……頼む、牙奄斎! 俺の最期の願いを、どうか叶えてやってくれ!〉
束の間、仲間との思い出に浸っていた下下八だが、やがてゆっくりと己のうなじに、震える手を伸ばした。彼の頸椎には、先端が赤い五寸ほどの鋭利な針が、突き刺さっていた。
「来いよ、地獄を見せてやる」
侮蔑的な態度で、文殊丸と音耶を挑発する下下八。殺手二人は、険悪に眉根を寄せた。
戸板で隙なく目張りがされて、真っ暗な部屋の中には、なんとも異様な感じが漂っていたが……今更、不死身の彼らに、なにを恐れることがあるだろうか。文殊丸と乙耶も、『青竜殿』の殺手二人同様、そう思いこんでしまったことが、そもそも悲劇の始まりだった。
「地獄を見るのは、貴様の方だ!」
「虫けらのように、叩き潰して殺る!」
刺客二人は、威勢よく『白虎殿』内部へ斬りこんだ。その途端、襲い来る敵方に向けて、カッと目を見開いた下下八。彼の手から、鬼の屍毒を塗った五寸針が、床へ転がり落ちた。
『殺アァァァァアァァァァァァアッ!』
下下八の獣染みた慟哭がとどろき、断ち切られた吊り縄……『白虎殿』入口も、鉄扉で完全に封じられた。しこうして、視界の利かぬ闇舞台に、殺手二人の死声と血風が吹き荒れた。
さらに南方『朱雀殿』――孔雀太夫と漣の場合、こうだ。
そこは、まさに読んで字の如く、針の莚だった。
上下左右の壁、到るところから無数の刃が突出。部屋の中心点に向かって、鋭い切っ先を煌めかせていたのだ。丁度、海胆の表皮を、引っくり返したような形態だった。片角の【巫壬族】破戒僧は、そんな部屋の真ん中で、十文字槍の石突叩き、仁王立ちしている。
彼の佇むわずかな範囲しか、安全な足の踏み場はない。
下手な侵入を試みれば、たちまち刃の壁に刺し貫かれてしまう。
孔雀太夫と漣の腰も、さすがに引けた。
「ここは、お前さんがたのために用意した『死の遊戯場』じゃ。度胸があるなら、遊んで逝くがよい」と、邪悪な胴間声で、のたまう丹慙坊……彼の双眸には、かつてない闘志がみなぎっていた。満身は強靭な殺意で鎧われていた。
それも、殺手二人をひるませた原因だ。
〈丹慙坊、そこでなにしてるんだ?〉
〈少し黙っててくれ。読経しとる……色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、舎利子……えぇと、次はなんじゃったか喃。破戒してから、早十数年。般若心経たったの二百六十二字すら、思い出せんわい。まったく……儂は自分が情けない。せめて、お前さんたちの、つつがない成仏と、輪廻転生を願って、久しぶりに仏心を出してみたものの……いや、儂のような俗物に唱えられたんでは、経文が穢れると、天帝も怒っとるんじゃろうて。まぁな、それも当然か。しかし……罰当たりは承知の上じゃ! どうか愚僧、最期の頼みを聞いてくれ! 儂は地獄へ堕ちてもかまわん! その代わり、皆の成仏を……南無阿弥陀仏!〉
〈丹慙坊……お前、莫迦だなぁ。今になってそんなことされたら、泪が出て来ちまうよ〉
〈前にも云ったろ。俺たちぁ出会った時から一蓮托生。それは死後も変わるモンじゃねぇ。お前が地獄へ堕ちる時は、俺たちも一緒だぜ。空劫浄土なんざ真っ平御免こうむるね。今更、離れる心算はねぇからな。読経なんて性に合わねぇこたぁ、よしてくれよ、丹慙坊〉
〈御頭の云う通りですよ。私たちには、すでに地獄詣での覚悟は充分できています。あなた一人が罪を背負うことなどありません。これまで犯した悪行の数々も、皆で分け合うのです。そして恐れることなく、威厳を持って、ともに冥帝の前へ進みましょう。なんなら向こうで、獄卒鬼や亡者相手に、もう一暴れするのも……ふふ、悪くないかもしれませんね〉
昨夜、交わした仲間との会話が蘇り、丹慙坊を心強くした。
彼は今、決して一人ではないのだ。たとえ、神仏に見捨てられようとも、地獄に堕とされようとも、人生で最高の道行を手に入れた破戒僧は、己を誰よりも幸せ者だと思った。
しかし、相対する敵方は、そんな破戒僧の満足げな表情に腹を立て、憤激を露にした。
顔をしかめ、刺々しい舌鋒で、丹慙坊を罵倒する。
「死の遊戯場だと? ふん、小賢しい!」
「色々と趣向を凝らしてくれるな……だが、所詮は無駄な悪あがき! 斯様に見え透いた罠など、我ら二人だけで簡単に凌駕してくれるわ! 死にざまは、凄惨なものと覚悟しろ!」
孔雀太夫と漣も思った。
先の四人同様、下賤の盗賊風情が、いくら奇策を練ったところで、武運は必ず我らに味方すると……つまり、不死身であるがゆえの思い上がりが、彼らを死地へ追いこんだわけだ。
殺手二人は、思いきり床板を蹴り、迷わず丹慙坊の『死の遊戯場』へ、飛びこんだ。
この機を見計らい、十文字槍で吊り縄を切断した丹慙坊。
鉄扉は、またしても閉ざされた。
二度と開かぬ『死門』の向こう側で、繰り広げられる阿鼻叫喚の殺人遊戯。
破戒僧と殺手二人……互いの命を削り合う、壮絶な地獄が始まった。
そして北方『玄武殿』――飛天行者と忘八の場合、こうだ。
部屋中、縦横無尽に張り巡らされたのは、漆黒の縄。まるで蜘蛛の巣だ。
不気味に垂れ下がり、複雑にからみ合う黒縄地獄を造り出している張本人は、無論《夜晒し幻麼》である。謂わば、本体の蜘蛛、といったところか……ちなみに、これらの黒縄は、すべて死者の遺髪を縒り合わせ、鬼の腐血で固めた、縄術系【忌辮索】の集大成である。
幻麼は、度肝を抜かれ棒立ちの殺手二人に、激しい憤怒をつのらせ、眼光を煌めかせた。
その瞳は、泪で潤んでいるようにも見えた。
「へん! なにが不死身の殺手だ! 所詮は、神祇府の犬どもに操られる、憐れな傀儡兵じゃねぇか! おどれらは皆、犬のクソ以下だ! 捨駒にされた挙句、地獄で後悔しても遅いぜ! 尤も、釈迦の掌で踊らされてる猿真似人間に、ワイのありがたい忠告なんぞ、判ろうはずもねぇか! 哈哈! ホント憐れな連中だねぇ! だがよぅ……てめぇの命を危険に晒しもせず、大義名分をふるうなんざ、正義でもなんでもねぇや! 臆病者の卑劣漢がするこったぜ! ま、糸が切れるまで精々神祇府の云いなりに、あくせく働くがいいさ! 但し、裏切りの代償は高くつくからな! いや、神仏に代わって、ワイが黒縄地獄へ招待したるぜ!」と、思いつく限りの罵詈雑言を吐き散らしながら、両手で鞭をしごく幻麼。
彼の胸に今、去来するものとは――、
〈幻麼、お前さん……泣いとるのか?〉
〈一体どうしたってんだよ、幻麼! まさか今更、怖気づいたってワケでも、あるめぇ?〉
〈ド阿呆ぅ! このワイに限って、そんなワケねぇだろ! これはな……うれし泪だよぅ〉
〈うれし泪ぁ? なにをトチ狂ってやがる〉
〈だってよぅ……ワイは捨て子にされて以来、いつか路傍で、野垂れ死にするのが関の山と、そう思って生きて来た男だぜ。それが皆と出会って、ワイは生まれ変われたんだ。それだけじゃねぇ。こんな立派な最終舞台まで、用意してもらえた。誰に知られるでも、認められるでも、ほめられるでもねぇ。後世にまで名が残るような、死にざまじゃねぇだろう。けどワイは、本当に幸せだよぅ。どうせ死ぬなら、この面子で……うん、坊が以前、云った通りだ。うれしくて仕様がねぇんだ。これは、いつものイカサマなんかじゃねぇ。ワイの嘘偽りない至心なんだ。畜生、泪が止まらねぇや……へへ、莫迦だろ? 皆、笑ってくんなよぅ〉
〈幻麼……もう泣くな。お前は最高の仲間だったよ。俺たちも皆、お前と同じような境遇で生い立ち、そして運命的に出会った。悪業で結ばれた罪深い俺たちだが、誰も後悔はしてないぜ。だから幻麼……最期まで笑いながら、皆で一緒に逝こうじゃねぇか……なぁ〉
〈そうです、幻麼。あなたのことを、心から誇らしく思いますよ。私も、あなたと……そして皆と、こうしてともに逝ける名誉を、死んでも忘れません……ありがとうございました〉
仲間がくれた最高の言葉をバネに、幻麼はあらためて奮起した。
ウネウネとうごめく黒縄地獄の真ん中で、幻麼は最期の気焔を吐いた。
「さぁ、どうした! 虎の威を借るなんとやらめ! 爪の垢ほどでも度胸があるなら、疾く入って来いや! このワイが、できそこないの操り人形なんぞ、軽くひねり殺してやらぁ!」
これに、怒り心頭の飛天行者と忘八。到頭、冷静な判断力まで、失ってしまった。
その上、彼らもやはり、盗賊【雷鳴】個々の力を、見くびっていたのだ。
だからこそ【神籬森冥罰衆】は、墓穴を掘り、泥梨へ先走ったのだ。
「下郎の分際で、図に乗りおって! 只今の暴言、すぐに後悔させてやるぞ!」
「いかな奇策を弄したところで、貴様の敗北は最早、避けられん! 死ぬ前にも、篤と地獄を見て逝くがよい! まずは、その小面憎い滑稽顔を、死化粧に染め変えてやろうか!」
飛天行者と忘八は、ほぼ同時に幻麼の最期の砦『玄武殿』へ、勝鬨を上げて攻め入った。
途端に鉄扉が落ち、脱出口は閉ざされる。そして、小さな世界は一気に暗転……そこから、三人の荒々しい怒号が、完全に聞こえなくなるまで、そう長い時間はかからなかった。
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