上 下
16 / 23

『其の拾六』

しおりを挟む
 まずは東方『青竜殿せいりゅうでん』――水沫みなわ涅槃居士ねはんこじの場合、こうだ。
 ユラユラと、いくつも宙に吊り下げられた油壷。床板で瞬く蝋燭ろうそくの火。
 そんな異様な部屋の中央で、端座瞑目たんざめいもくする総髪の閹官えんかん屍伽しとぎ牙奄斎がえんさい》軍師……かたわらには、鉄製の大弓が置かれ、数百の矢が円陣を組んで刺さり、彼の周りを取り囲んでいる。
 さらに四方の壁板には、梵字の陀羅尼経文だらにきょうもんが、隙なく緻密に書き綴られていた。水沫と涅槃居士の禍々しい来訪を受け、ようやく目を開けた牙奄斎は、艶然と微笑しうそぶいた。
「ようこそ、歓迎致しますよ。遠慮なく、お入りなさい」と、大胆にも手招きする軍師だ。
 水沫と涅槃居士は一瞬、気を呑まれた。
〈私は愚鈍な軍師です。科挙かきょに受かった兵法者も、これではまったくの役立たず。なんの値打ちもありません。盗賊【雷鳴レイション】の名を背負い、一世一代の奇策をひねり出すはずが、結果は大戯おおたわけ……よりによって大切な仲間に対し、『死ね』という軍略を下してしまった〉
〈突然、なにを云い出すか! お前さんは【雷鳴】の知恵袋! いつだって、お前さんの軍略がお陰で、わしらは窮地を乗り切って来られたんじゃ! 堂々と、胸を張ってよいぞ!〉
〈そうだぜ、牙奄斎! 深刻な顔して、一体どうしちまったんだ? 俺たちぁ、自ら喜んで、あんたの案に乗っかったんだ! 気に病むことなんて、なにひとつないじゃねぇかよ!〉
〈ワイら自慢の軍師が、そんな気弱な発言しちゃあ、悲しいぜ! しっかりしてくれや!〉
〈いいえ……私は、やはり天才などではない。軍師を名乗ることすら、おこがましいと思っているのです……此度の軍略で、皆を死地へと赴かせねばならない。私は罪深い人間です。それは今に始まったことではありませんが、この罪悪感だけは、たとえ地獄に千度逆落とされても、決して癒えないでしょう。私は自分を許せない……心底、恥ずかしい……〉
〈牙奄斎。もう自分を責めるな。誰も、お前を恨んだりしねぇよ。俺たちぁ、出会った当初から一蓮托生だ。沈没船でも、降りる心算つもりは毛頭ないぜ。いや……むしろ、こんなろくでなしの俺たちに、生涯最期で最高の舞台を用意してくれたこと、心から感謝しているぜ〉
 昨晩、皆のくれた優しい言葉が、走馬灯のように頭をよぎり、牙奄斎軍師を力づけた。
 最早、恐れるものはなにもない。無論、死をも辞さぬ覚悟だ。牙奄斎は、微笑をたたえたまま、ゆっくりと立ち上がり、両手を広げた。
 刺客二人は、いかにも怪訝な表情である。
 此度は、さすがに警戒し、入口付近で足を止めた二人だが、お互いの顔を見合わせ、うなずいた。たとえ、どんな仕掛けがあるにせよ、相手は一人、こちらは不死身。
 今更、なにをためらう必要があるだろうか。
 二人は、そう思った。
「屍伽の牙奄斎! まずは無能な軍師の頭から、殺ぎ落としてやろう! いざ、覚悟!」
「命乞いに、耳は貸さぬぞ! 我らに楯突いた罪は重い! 死にざまで贖わせてやる!」
 水沫と涅槃居士は武器をかまえ、一挙に牙奄斎の墓場『青竜殿』へと乱入した。この機を捉え、すかさず吊り縄を断ち切った牙奄斎。直後、ドドンと閉ざされた入口の鉄扉、響き渡る殺手さっての雄叫びと叫哭きょうこく……『青竜殿』は水沫と涅槃居士、二人の墓場でもあったのだ。


 次いで西方『白虎殿びゃっこでん』――文殊丸もんじゅまる音耶おとやの場合、こうだ。
 真っ暗闇である。一寸先も見えぬほど、濃密で陰惨な闇に沈む室内だった。
 その中に二つだけ、炯々けいけいと瞬く光がある。
 それは、戸口で歩を止め、逡巡しゅんじゅんする敵方を、強烈に居すくめる、下下八げげはちの眼光であった。
 やがて、暗さに目がなれて来ると、下下八の不穏にして、どこか不自然な様相が、明らかとなった。浅黒い肌に、真っ白な死装束、腰帯に差したしきみ幣束へいそく、背には『悉皆成仏しっかいじょうぶつ』の血文字、六道銭ろくどうせんをつらねた額当ひたいあて……まさしく、死出しで道行みちゆきを表す亡者の有様だった。
「どうした、非人卑族ひにんひぞく! 盗賊崩れの爬虫類はちゅうるいもどきが! 浅知恵でなにを企んでいる!」
「そんなに死に急ぎたいなら、我ら【神籬森冥罰衆ひもろぎもりみょうばつしゅう】が喜んで、望みを叶えてやるぞ!」
 文殊丸と音耶の威喝にもひるまず、下下八はかすかに嗤った。
 そして、こうのたまった。
「正直云うと、俺は臆病者でねぇ。こうでもしなきゃ、死ぬ覚悟が決まらなかったのさ」
「なんだと?」
 胡乱うろんな眼差しで、卑族大男を見やる二人。こめかみに浮かぶ脂汗――小刻みに痙攣する四肢――焦点が合わず血走った目――口唇を伝う一筋の血滴――下下八は尋常でなかった。
『鬼憑き』染みてさえいた。
〈本当に、いいのか? 下下八〉
〈あなたも過去に見知っている通り、私の『屍毒針しどくばり』を使えば、あなたは正気でいられなくなるのですよ。いや、それどころか、人間以下の獣になってしまいます。無論、打たれれば助かりません。死にざまは、凄惨なものとなるでしょう……考えなおすなら、今の内です〉
〈下下八よ! なにもそこまでせんでも、化け物どもを倒す方法は、他にあるじゃろう!〉
〈そうだ、下下八! 莫迦ばかな料簡、起こすんじゃねぇぜ! ワイは……あんな悲惨な死に方、お前にさせたくねぇんだよ! 大切な仲間だからこそ……皆だって、そう思うだろ?〉
〈だがよぅ……今まで、地べたに這いつくばってでも、泥水をすすってでも、惨めにしぶとく生きて来たこの俺にゃあ、潔く捨身するなんて真似は、そう簡単にできっこねぇんだ。大事に至って生き恥晒すよりか、滅法暴れて一人でも地獄へ道連れにできりゃあ、それに越したことはねぇ……頼む、牙奄斎! 俺の最期の願いを、どうか叶えてやってくれ!〉
 束の間、仲間との思い出に浸っていた下下八だが、やがてゆっくりと己のうなじに、震える手を伸ばした。彼の頸椎けいついには、先端が赤い五寸ほどの鋭利な針が、突き刺さっていた。
「来いよ、地獄を見せてやる」
 侮蔑的な態度で、文殊丸と音耶を挑発する下下八。殺手二人は、険悪に眉根を寄せた。
 戸板で隙なく目張りがされて、真っ暗な部屋の中には、なんとも異様な感じが漂っていたが……今更、不死身の彼らに、なにを恐れることがあるだろうか。文殊丸と乙耶も、『青竜殿』の殺手二人同様、そう思いこんでしまったことが、そもそも悲劇の始まりだった。
「地獄を見るのは、貴様の方だ!」
「虫けらのように、叩き潰してる!」
 刺客二人は、威勢よく『白虎殿』内部へ斬りこんだ。その途端、襲い来る敵方に向けて、カッと目を見開いた下下八。彼の手から、鬼の屍毒を塗った五寸針が、床へ転がり落ちた。
シャアァァァァアァァァァァァアッ!』
 下下八の獣染みた慟哭がとどろき、断ち切られた吊り縄……『白虎殿』入口も、鉄扉で完全に封じられた。しこうして、視界の利かぬ闇舞台に、殺手二人の死声しせい血風けっぷうが吹き荒れた。


 さらに南方『朱雀殿すざくでん』――孔雀太夫くじゃくだゆうれんの場合、こうだ。
 そこは、まさに読んで字の如く、針のむしろだった。
 上下左右の壁、到るところから無数の刃が突出。部屋の中心点に向かって、鋭い切っ先を煌めかせていたのだ。丁度、海胆うにの表皮を、引っくり返したような形態だった。片角の【巫壬族かんなぎみずのえぞく】破戒僧は、そんな部屋の真ん中で、十文字槍じゅうもんじやりの石突叩き、仁王立ちしている。
 彼の佇むわずかな範囲しか、安全な足の踏み場はない。
 下手な侵入を試みれば、たちまち刃の壁に刺し貫かれてしまう。
 孔雀太夫と漣の腰も、さすがに引けた。
「ここは、お前さんがたのために用意した『死の遊戯場』じゃ。度胸があるなら、遊んで逝くがよい」と、邪悪な胴間声で、のたまう丹慙坊たんざんぼう……彼の双眸そうぼうには、かつてない闘志がみなぎっていた。満身は強靭な殺意でよろわれていた。
 それも、殺手二人をひるませた原因だ。
〈丹慙坊、そこでなにしてるんだ?〉
〈少し黙っててくれ。読経しとる……色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、舎利子……えぇと、次はなんじゃったかのう。破戒してから、早十数年。般若心経たったの二百六十二字すら、思い出せんわい。まったく……わしは自分が情けない。せめて、お前さんたちの、つつがない成仏と、輪廻転生を願って、久しぶりに仏心を出してみたものの……いや、儂のような俗物に唱えられたんでは、経文が穢れると、天帝てんていも怒っとるんじゃろうて。まぁな、それも当然か。しかし……罰当たりは承知の上じゃ! どうか愚僧、最期の頼みを聞いてくれ! 儂は地獄へ堕ちてもかまわん! その代わり、皆の成仏を……南無阿弥陀仏!〉
〈丹慙坊……お前、莫迦だなぁ。今になってそんなことされたら、泪が出て来ちまうよ〉
〈前にも云ったろ。俺たちぁ出会った時から一蓮托生。それは死後も変わるモンじゃねぇ。お前が地獄へ堕ちる時は、俺たちも一緒だぜ。空劫浄土くうこうじょうどなんざ真っ平御免こうむるね。今更、離れる心算はねぇからな。読経なんて性に合わねぇこたぁ、よしてくれよ、丹慙坊〉
〈御頭の云う通りですよ。私たちには、すでに地獄詣での覚悟は充分できています。あなた一人が罪を背負うことなどありません。これまで犯した悪行の数々も、皆で分け合うのです。そして恐れることなく、威厳を持って、ともに冥帝めいていの前へ進みましょう。なんなら向こうで、獄卒鬼ごくそつきや亡者相手に、もう一暴れするのも……ふふ、悪くないかもしれませんね〉
 昨夜、交わした仲間との会話が蘇り、丹慙坊を心強くした。
 彼は今、決して一人ではないのだ。たとえ、神仏に見捨てられようとも、地獄に堕とされようとも、人生で最高の道行を手に入れた破戒僧は、己を誰よりも幸せ者だと思った。
 しかし、相対する敵方は、そんな破戒僧の満足げな表情に腹を立て、憤激を露にした。
 顔をしかめ、刺々しい舌鋒ぜっぽうで、丹慙坊を罵倒する。
「死の遊戯場だと? ふん、小賢しい!」
「色々と趣向を凝らしてくれるな……だが、所詮は無駄な悪あがき! 斯様に見え透いた罠など、我ら二人だけで簡単に凌駕してくれるわ! 死にざまは、凄惨なものと覚悟しろ!」
 孔雀太夫と漣も思った。
 先の四人同様、下賤の盗賊風情ふぜいが、いくら奇策を練ったところで、武運は必ず我らに味方すると……つまり、不死身であるがゆえの思い上がりが、彼らを死地へ追いこんだわけだ。
 殺手二人は、思いきり床板を蹴り、迷わず丹慙坊の『死の遊戯場』へ、飛びこんだ。
 この機を見計らい、十文字槍で吊り縄を切断した丹慙坊。
 鉄扉は、またしても閉ざされた。
 二度と開かぬ『死門しもん』の向こう側で、繰り広げられる阿鼻叫喚の殺人遊戯。
 破戒僧と殺手二人……互いの命を削り合う、壮絶な地獄が始まった。


 そして北方『玄武殿げんぶでん』――飛天行者ひてんぎょうじゃ忘八わんぱの場合、こうだ。
 部屋中、縦横無尽に張り巡らされたのは、漆黒の縄。まるで蜘蛛の巣だ。
 不気味に垂れ下がり、複雑にからみ合う黒縄地獄こくじょうじごくを造り出している張本人は、無論《夜晒よざら幻麼げんま》である。謂わば、本体の蜘蛛、といったところか……ちなみに、これらの黒縄は、すべて死者の遺髪をり合わせ、鬼の腐血ふけつで固めた、縄術系じょうじゅつけい忌辮索いみべんさく】の集大成である。
 幻麼は、度肝を抜かれ棒立ちの殺手二人に、激しい憤怒をつのらせ、眼光を煌めかせた。
 その瞳は、泪で潤んでいるようにも見えた。
「へん! なにが不死身の殺手だ! 所詮は、神祇府じんぎふの犬どもに操られる、憐れな傀儡兵かいらいへいじゃねぇか! おどれらは皆、犬のクソ以下だ! 捨駒すてごまにされた挙句、地獄で後悔しても遅いぜ! 尤も、釈迦のてのひらで踊らされてる猿真似人間に、ワイのありがたい忠告なんぞ、判ろうはずもねぇか! 哈哈ハハ! ホント憐れな連中だねぇ! だがよぅ……てめぇの命を危険に晒しもせず、大義名分をふるうなんざ、正義でもなんでもねぇや! 臆病者の卑劣漢がするこったぜ! ま、糸が切れるまで精々神祇府の云いなりに、あくせく働くがいいさ! 但し、裏切りの代償は高くつくからな! いや、神仏に代わって、ワイが黒縄地獄へ招待したるぜ!」と、思いつく限りの罵詈雑言を吐き散らしながら、両手で鞭をしごく幻麼。
 彼の胸に今、去来するものとは――、
〈幻麼、お前さん……泣いとるのか?〉
〈一体どうしたってんだよ、幻麼! まさか今更、怖気づいたってワケでも、あるめぇ?〉
〈ド阿呆ぅ! このワイに限って、そんなワケねぇだろ! これはな……うれし泪だよぅ〉
〈うれし泪ぁ? なにをトチ狂ってやがる〉
〈だってよぅ……ワイは捨て子にされて以来、いつか路傍ろぼうで、野垂れ死にするのが関の山と、そう思って生きて来た男だぜ。それが皆と出会って、ワイは生まれ変われたんだ。それだけじゃねぇ。こんな立派な最終舞台まで、用意してもらえた。誰に知られるでも、認められるでも、ほめられるでもねぇ。後世にまで名が残るような、死にざまじゃねぇだろう。けどワイは、本当に幸せだよぅ。どうせ死ぬなら、この面子メンツで……うん、坊が以前、云った通りだ。うれしくて仕様しょうがねぇんだ。これは、いつものイカサマなんかじゃねぇ。ワイの嘘偽りない至心なんだ。畜生、泪が止まらねぇや……へへ、莫迦だろ? 皆、笑ってくんなよぅ〉
〈幻麼……もう泣くな。お前は最高の仲間だったよ。俺たちも皆、お前と同じような境遇で生い立ち、そして運命的に出会った。悪業で結ばれた罪深い俺たちだが、誰も後悔はしてないぜ。だから幻麼……最期まで笑いながら、皆で一緒に逝こうじゃねぇか……なぁ〉
〈そうです、幻麼。あなたのことを、心から誇らしく思いますよ。私も、あなたと……そして皆と、こうしてともに逝ける名誉を、死んでも忘れません……ありがとうございました〉
 仲間がくれた最高の言葉をバネに、幻麼はあらためて奮起した。
 ウネウネとうごめく黒縄地獄の真ん中で、幻麼は最期の気焔を吐いた。
「さぁ、どうした! 虎の威を借るなんとやらめ! 爪の垢ほどでも度胸があるなら、く入って来いや! このワイが、できそこないの操り人形なんぞ、軽くひねり殺してやらぁ!」
 これに、怒り心頭の飛天行者と忘八。到頭、冷静な判断力まで、失ってしまった。
 その上、彼らもやはり、盗賊【雷鳴】個々の力を、見くびっていたのだ。
 だからこそ【神籬森冥罰衆】は、墓穴を掘り、泥梨ないりへ先走ったのだ。
「下郎の分際で、図に乗りおって! 只今の暴言、すぐに後悔させてやるぞ!」
「いかな奇策を弄したところで、貴様の敗北は最早、避けられん! 死ぬ前にも、とくと地獄を見て逝くがよい! まずは、その小面憎こづらにくい滑稽顔を、死化粧に染め変えてやろうか!」
 飛天行者と忘八は、ほぼ同時に幻麼の最期の砦『玄武殿』へ、勝鬨かちどきを上げて攻め入った。
 途端に鉄扉が落ち、脱出口は閉ざされる。そして、小さな世界は一気に暗転……そこから、三人の荒々しい怒号が、完全に聞こえなくなるまで、そう長い時間はかからなかった。
しおりを挟む

処理中です...