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第三十三章 すばる

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ワクたち三人とフミ母子は、時々は別行動をしながらも、一緒に旅を続けました。
その間、たくさんの人と出会い、たくさんの人のために働きました。それは、ワクにとってはまるで、「お助け団」時代の再来のようでした。ワクは心の中で、この五人組を勝手に「ワクワク団」と名付け、ひとり楽しんでいました。ワクはさしずめ、あの頃のオジジの立場ですが、
(どうも俺は、オジジのようなできた人間にはなれっこねえな。器が違うよ。)
そうひとりごちていました。
ある時には、ふとしたきっかけで知り合った、不良集団になびこうとしている少年をワクは説得し、親の家へ帰らせる手助けをしました。息子が無事に帰ってきた日、母親のお礼の訪問を受けました。
「本当にありがとうございました。一生の恩人ですわ。」
丁寧に頭を下げる母親に、ワクは静かに、
「そんな大げさな。大したことはしてないのでね。」
「いえ、お爺さんの説得がなかったら、あの子は一生を駄目にしていたかもしれません。」
「そんなこと。あの子は、根はとてもいい子だ。お母さんの育て方は間違っていなかったですよ。」
泣き出す母親。
シオリはこのやりとりの一部始終を、隣で見ていました。そして、ますますワクに対する敬愛の念を深めるのでした。シオリにとっても、ワクはすっかり父親代わりになっていました。まあ、父親にしては少しばかり歳を取り過ぎているかも知れませんが。
またある時は――。
フミ母子とワクたち三人は、一緒になって、ある若者を助ける作戦を実行しました。
寝たきりの父親の看病をするがために、仕事をすることが出来ず、生活に困っている若者のために、寄付を募りました。ケイが寄付募集のチラシを作り、シオリは紙芝居を作りました。ワク、フミ、シオリの出演と、ヒビキの音楽効果で、町角で上演します。いわば、困っている親子の存在を知らしめ、寄付を募るための、大人向けの紙芝居です。そんなものが人々に注目されるのかどうか、いささか不安はありましたが、やってみると予想よりは反響がありました。たくさんの寄付が集まり、当面の生活難は免れただけでなく、若者はそれを機に、この町に助け合いの仕組みを作ろう、と志を立てるまでに至りました。ケイはさっそく、「町民助け合い」の仕組みを紹介・提案する公共読物を作りました。ワクたちは、この若者の未来に大いに期待を持ちました。
子供の施設への訪問も、頻繁に行いました。意識さえしていれば、そういった施設には意外と出会えるものです。ワクたちは、訪れた町や村に施設を見つける度に、歌や紙芝居の興行を行うようにしました。
シオリは、紙芝居を読むだけではなく、物語を創作することも極めて上手でした。優しい感動を呼ぶ物語、遠い世界への憧れに満ちた物語、親子や友達同士の温かい心の触れ合いを扱った物語。心の触れ合いに関しては、シオリ自身の求めるものをそのままお話にしているのかも知れません。
シオリの作品は、子供たちからは大好評を得ています。中でも彼女の代表作は、神話の神様たちを扱った物語で、カガヤカヒコ、キラメカヒコの兄弟が活躍する「天空の輝き」です。あの、ヒビキの同級生にいたというカガヤカヒコという名前から発想を得たのでした。
子供たちに喜んでもらったと実感しているときのシオリは、それこそ、神話の神々にも負けないほどいました。ワクは、良い意味での自尊心が育ってきて、かつ謙虚な態度を失わないシオリを、自分の目に入れても痛くない程に可愛く感じています。近い将来、ケイと一緒になったら…とまで考えていますが、自分の息子と娘が結婚するようなものですので、それはそれで妙な気分でもありました。

そんな風にして月日は流れて行き、ワクたちとフミたちが合流してから、一年近くが経とうとしていました。
ある秋の夕暮れ時。
秋にしては暖かい日でした。今夜は野宿です。ワクとフミは並んで、野宿予定の草原に立っています。周囲では若者たちが、焚火や食事の用意に忙しくしています。ケイとヒビキが、
「年長者はゆっくりしてて。」
と言うものですから、ワクとフミはいささか手持無沙汰で、景色を眺めています。
ワクの頭髪はもう真っ白になりました。歳を取っても髪は豊かですのでふさふさとした白髪です。ヤエさんにもらった杖は、今では肌身離さず、常に突いて歩いています。
「何だか落ち着かないな。あいつらに任せておいたらどうなるか分かったもんじゃない。」
「ワクさん、あなたは働きすぎなのよ。そろそろ若い人たちに頼って楽をしても良い頃よ。」
「いやあ、まだまだひよっこだからなあ、ケイなんざ。」
「ふふふ。可笑しい。根っからの苦労性なのね。」
「てへへ。」
「今夜は星がきれいよ。」
「なんで分かるんだい?」
「雲が少ないし、何よりも空気が澄んでいるから。…日が暮れたら、ご一緒に星空を楽しみませんこと?」
「いいねえ。」
彼らの背後では、ケイたちが、微笑ましいと言わんばかりに、顔を見合わせています。
焚火を囲んでの晩餐。真っ暗な中、皆の顔が焚火の炎で朱色に浮かび上がります。
ひとしきり食べてお腹が満足すると、シオリが自分の新作を語り始めました。そんなとき、シオリの語りに、ヒビキが即興でつける伴奏がまた絶品で、それはもう、たまらなく贅沢な夕べのひと時になるのでした。
その「贅沢なひと時」を堪能した後、ワクとフミは、少し離れた、開けた場所まで歩いて行きました。
「オジキ、オオカミが出るかもしれないから、気をつけろよ。」
「お前に言われなくても大丈夫だ。俺がいったい何年旅をしていると思ってるんだ?」
「でも、昔みたいに、オオカミよりも速く走るというのも厳しいだろうからね、もう。」
「まあ! オオカミと競争したことがあるの?」
「うそ。冗談ですよ! でも、昔のオジキなら、オオカミと競争しても勝ってたかもしれないな。」
皆が和やかに笑います。
しばらく歩いた所で、ワクとフミは立ち止まりました。すでに日はとっぷりと暮れています。星明かりでかろうじてお互いの顔が分かる程度です。背後にかすかに、焚火の火が見え、ケイたちの話し声が聞こえます。左手の森の中から、フクロウの声が聞こえます。
見上げた空は、落ちて来そうなほどの星でいっぱいでした。
「秋だから、ほら、ちょうど、すばるが見え始める頃よ。あ、あった。あのあたり。明るい星が五つ六つあるでしょ。あれよ。」
「どこだい?」
「ほら、あれ。」
ワクは、夜空を指さすフミの顔に出来るだけ自分の顔を近づけて、空を見上げます。
「ああ、あった。あれか。」
夜空に白く輝く星たち。その澄んだ輝きは、フミの心根と同じだ、とワクは思いました。
二人の肩は思いがけず、触れ合わんばかりに接近していました。ワクは右手でそっと、フミの左手を握ろうとして――杖を突いていることを思い出しました。杖をそっと左手に持ち替えて、改めてフミの手に触れました。フミは空を見上げたまま、優しくワクの手を握り返してくれました。
静かな胸のときめき。そのまま二人は長い間、穏やかな幸福感にゆっくりと包まれていました。

それからさらに、三年ほどが過ぎました――。
フミ母子は、相変わらずワクたちと合流したり離れたりしながら、おおむね旅を共にしています。
一つ変わったことといえば、ヒビキに恋人が出来たことです。ある村で訪れた子供の施設で働く娘で、名前をユリといいました。音楽好きで歌も上手く、しかも子供好きで、共通点が多いため、ユリとヒビキはすぐに意気投合しました。ユリの夢は、自分で子供の施設を開くこと。いずれ、こことは別の町に、夢の自分の施設を持ちたいと思っていました。ヒビキはその夢に共鳴し、話はトントン拍子に進みました。つまり、この近辺の町か村で、二人で所帯を持って施設を開こう、ということです。今の施設を急に辞めるわけにはいかないので、半年後くらいをめどに、ヒビキは改めてユリを迎えに来ることとしました。
二人のために、フミはもちろん、ワク、ケイ、シオリも喜びました。一方で、フミがヒビキたちに同居するならば、ワクたちとは離れ離れになる、ということが、ワクを淋しがらせました。
が、ケイには、まだ誰にも伝えていない、ある考えがありました。それは、自分たちもこの機会に定住するのが良い、という考えです。
最近のワクは、ケイから見ても、足取りが危なっかしいことが多くなりました。無理もありません。もう六十九歳なのです。本人はまだまだ若いつもりですが、端から見れば、完全に老人。いまだに旅をしているのが不思議なくらいです。昔、ワクと旅をしていた「お助け団」のことは、ワクから聞いてよく知っていますが、その中のオジジとカアサが旅を引退して定住したのも、今のワクくらいの年頃のことだったと思います。
ケイは、いつか近いうち、機会をつかまえてワクにそのことを切り出そうと思いつつ、なかなか切り出せないでいました。

そんなある日。
ケイは、自作の公共読物を、町角の掲示板に貼り出していました。今回は、親のいない子を育てている施設の特集で、これまで訪問してきた施設の様々な特徴や、引き取ってくれる養父母を募集していることを紹介する記事でした。
「世の中にそういう施設がある、ということをまずは広く知ってもらうことだと思うんだ。一方で子供が欲しいと思っている夫婦があれば、縁結びができるかもしれないし、そこまでいかなくても、俺たちみたいに訪問して子供たちのために何かやる人が増えるかもしれないし。」
ワクは立派な大人になったケイを少なからず誇りに思っていました。本人に直接そう言うことはあまりありませんが、センタには、心の中でちょくちょく話しかけていました。
(お前の息子は本当に立派な、優しい、正義感の強い男になったぜ。俺は泣けてくるよ…。)
さて、ケイとヒビキ、シオリが三人で貼り出し作業をしていると――。
「こらー、待てー!」
遠くから叫び声が聞こえたと思ったら、ケイたちの背後で貼り出し作業を見ていたワクとフミの脇を、小さな男の子がすり抜けて走って行きました。
後ろから、叫んでいた男が追いかけて来ます。事情は分かりませんが、男の子を捕まえようとしているようです。男の子は後ろを振り向き振り向き、怯えた顔で逃げようと走りますが、二人の距離は縮まっています。振りむいた瞬間に見えたその子の表情が、とても悲しげに見えました。
ワクはとっさに、追いかけてくる男を待ち構えて、通り過ぎる瞬間に捕まえようとしました。ワクの性質からして、このような場面を見ぬふりで放っておくことなんてできませんから。
「おい、お前さん、ちょっと…。」
男がワクの脇を通った瞬間、声をかけ、捕まえようと手を伸ばしたワク。
次の瞬間、ワクの身体は男に跳ね飛ばされ、くるくると旋回しながら、二メートルほども後ろに吹っ飛び、倒れました。ケイ、ヒビキ、シオリとフミも、その場面を目撃していましたが、あっという間で、助けの手を出す暇もありませんでした。
「あっ!」
ケイが慌ててワクに駆け寄ります。
男は速度を緩めず、走り去って行きました。おそらく、ワクには気づいていません。
ワクは、死んだように青い顔をして目をつむり、身動きをしません。ケイは、ワクの頬を叩きます。
「あ、ああ…。」
幸いにも、ワクはすぐに意識を取り戻しました。失神していたのです。
「大丈夫か、オジキ!」
「ああ。あれ? 俺、どうして転んでいるんだ?」
「もう! 無茶するんじゃないよ!」
立ち上がろうとしたワクは、ふらついて、いったん尻餅をつきました。しかも、左脚に大きなあざができているではありませんか。ケイたちは、ワクを近くの診療所に連れて行きました。
「左足首を捻挫していますな。しばらくはちょっと痛むよ。」
宿で、フミさんに膏薬を塗ってもらっているワク。その表情は憮然としていました。
「普段の俺なら、あんなやつに飛ばされるなんて絶対にないのに。」
「何言ってんだ、オジキは! 自分の年齢を考えろよな!」
激しく叱るケイは、今にも泣きそうな表情です。シオリは芯から心配そうな顔でワクを見つめていました。
その晩、ワクは少し熱を出しました。軽い吐き気もあります。昼間の件が刺激になって体調が崩れたのでしょう。シオリとフミが交代で、夜通し看病をしていました。
その様子を見ていよいよ、ケイは気持ちを固めました。

ケイは翌朝、ワクの体調がだいぶ良くなったのを見て、寝ているワクの枕元で切り出しました。
「オジキ、話がある。」
「何だ?」
「怒らずに聞いてくれよ。」
「何だよ、いったい? 怖い顔して。」
ケイは少しの間、黙って宙を見つめていましたが、やがて意を決したように、
「どこかこの近くの町で、家を借りて住もう。シオリと三人で。」
「…! 何だって?」
ケイはしばらく無言でワクを見つめました。
「そんなこと! 俺は、俺はな、お前を山の向こうの楽園に連れて行くっていう、あいつとの約束があるんだぞ!」
「知ってる。」
「だったら…。」
「オヤジがオジキに託したのは、俺を大人になるまで育ててやってくれ、ということだと思う。」
「…。」
「そして、俺はもう大人になった。自分で生活ができるし、仕事もある。それに…。」
「それに?」
「結婚もしようと思っている。」
「!」
「オヤジの願いには、オジキは十分に応えてくれた。もう責任を感じることもないんだよ。」
「何を、何を言ってやがる! お前はまだまだ子供だ。俺がいなきゃ…。」
「だから、別に離れて暮らそうと言っているんじゃないんだ。これからだって、折りに触れて、俺に色々と教えて欲しい。でも…。」
「でも?」
ケイは一瞬躊躇した後、
「はっきり言うよ。もう歳なんだから、旅は無理だ。」
ワクは、頭をガーンと殴られたような気がしました。
(この感覚。この感覚はどこかで…。そうだ、昔、ナズナが嫁に行くと聞かされた瞬間とそっくり同じじゃねえか。なるほど、そういうことか。)
ワクは妙な、理屈のない納得感に襲われました。そんな回想をしている場合ではないと分かっていながらも。
いえ、ワクにも、本当は分かっているのです。オジジやカアサだって、この年頃で旅を引退したではありませんか。自分だけが、いつまでもとしていられる訳はありません。分かってはいますが…。そのことを、己の最も愛するケイから宣告されたことに、ワクは衝撃を受けていました。いや、もっとも愛するケイこそが、ワクにそれを告げるのに最も相応ふさわしいのかもしれません――。
「み、三日間、考える時間をくれ。」
大事なことは三日間考えるべし。逆にそれより長く考えても、結果は同じ。三日間でよい。自分が実家を旅立つと決めたとき。ヒロが家具職人の親方に弟子入りすると決めたとき。いずれも、考えた期間は三日間だったではありませんか。
「分かったよ。よく考えてよ。定住すれば、フミさんたちとご近所で暮らせるわけだしね。…厳しいことを言って悪かったね。気分はどう? 吐き気はない?」
ケイは、いつもの優しいケイに戻っていました。
中庭に面した宿の窓ごしに、秋の朝の明るい陽光が差し込んで、二人の顔を柔らかく照らしました。

ワクは三日間、迷い、苦しみました。
これまでも何度か、定住した時期はありました。が、今回は年齢的にも、定住するということは、山を目指すという目標を捨てることになりかねません。十七の年からずっと、一生をかけて追い続けてきた目標。ずっと夢見てきた楽園。それを追いかけるのをやめるのか――。
(父ちゃんと約束したんだ。山を目指すって。山へ着いてから迎えに戻るという約束は果たせなかったが、山にたどり着くこと自体は、まだ諦めちゃいねえ。センタとだって約束した。ケイを山へ連れていく、と。)
もう少し。もう少し時間があれば。最近、山はいよいよ近く、大きくなって来たではありませんか。もう少しでたどり着くかも知れないのです。もっとも、そのことをケイやシオリに言っても、共感はしてもらえませんが。彼らには山が近づいているようには決して見えていないようでした。山は、それを見る人の心の状態や期待を、その姿に反映するのかも知れません。すると、冷静に考えれば、ワクは決して山に近づいているわけではないのかも知れません…。
それからワクは、これまでに出会った人々、出会った出来事を、次々と思い起こしました。楽しかったこと、辛かったこと、悲しかったこと、淋しかったこと、嬉しかったこと、心が温まったこと――。すべてがワクの宝物でした。それらの想い出に囲まれていれば、今後は定住しても生きていけるのでしょうか。
やがて――。
ワクの顔には静かな笑みが浮かびました。
心から迷いが消え、覚悟が決まって、すっきりとした顔で眠りに就きました。

三日後の朝、ワク老人は息子に、定住に同意する旨を告げました。
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