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第三十章 生きる意味

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「じゃ、四日後の夕方に、次の町の宿屋の前でね。」
「分かった。」
「次の町までの道順を、聞いたとおりに書いておいたからね。」
「分かってるって。何だ、お前、俺のことを馬鹿にしてるのか?」
「だって、最近物忘れが激しくなったって、言ってたじゃないか。」
「そりゃ、若い頃に比べたら記憶力は落ちてるさ。だが、大事なことは忘れねえよ。」
「はいはい、分かった。あ、俺、そろそろ行かなきゃ。じゃ、オジキ、気をつけて。」
「お前こそ、気をつけろよ。」
「ああ、そうだね。」
ケイは慌ただしく宿の部屋を出て行きました。
(何だよ、一人前の口を利きやがって。人を年寄り扱いして。まあ、でももう二十一だからな。一人前になってくれねえと、それはそれで困るが。)
自分が二十一の頃と言えば、ちょうどケイの父親、センタと出会った頃です。もうすっかり一人前のつもりでいましたが、今のケイを見ていると、やっぱり二十歳過ぎなんてまだ子供なんだな、と思わずにはいられません。自分も、五十代、六十代の人から見たら、ほんのひよっ子だったんだろうな。口が達者なだけの。

ワクもその翌日、ゆっくりと身支度をしてから、宿を出ました。三日後にケイとの約束の場所に着けば良いのです。急ぐ道行きではありません。
宿の前で見上げる空は、雲一つない快晴。どこまでも高く、真っ青です。
ケイはここのところ、物書きの活動に本格的に取り組んでいます。公共読物も世間にかなり浸透し、読み手は、読んだ後に、その満足度に応じた金額のお代を箱に入れるのが慣習になってきました。内容が面白ければ面白いほど、書き手に高い収入がもたらされます。それによって、物書きは無報酬の奉仕活動ではなく、職業としても成り立つようになりつつあったのです。その収入はまだまだ多いとは言えませんし、書き手が旅人の場合、読物を掲示してからしばらくの間は、その地に留まる必要が生じますが。
さて、ケイの扱う内容は様々ですが、今回は、山奥の少人数集落の暮らしを記事にまとめるつもりだそうです。この町の外れに迫っている山を登って行った先に、その集落があると、この町の住人から聞いたのですが、そこまでの行程にはかなり急な坂もあるため、年配者には厳しいかも知れない、とのことでした。ワクはケイの取材にはいつも同行していましたし、今回も大丈夫、一緒に行けると主張しましたが、最近何かとワクを年寄り扱いするようになったケイに、拒否されました。
「平坦な道ならいいが、今回はオジキ、別行動にさせてくれよ。万が一のことがあったら大変だから。」
そんなケイの態度が気に入らないと思いつつも、確かに脚力が弱っているという自覚もありましたし、ケイの邪魔になってもいけないと思い、仕方なく別行動に同意しました。ワクは、寄り道をせず、まっすぐに次の町まで行きます。そこまでの道筋は、宿の人に聞いて二人で確認してあります。
久しぶりに、一人きりの、のんびりした行程を満喫する絶好の機会です。

町外れ。山道への入り口にたどり着きました。ケイはここを登って行ったはずです。ワクはその道へは進まず、山の脇を通る下の道を選びます。
家並が途切れ、目の前には、山肌を背景に、田んぼと畑の光景が大きく広がりました。田んぼはちょうど、田植えの季節を迎えています。ワクの目の前でも、幾人もの人がちょうど苗を植えているところです。
ワクは、自分が初めて田植え作業をした時のことを思い出します。サブロウの家に、住み込みで働き始めたばかりの頃。あの時がちょうど、そろそろ田植えの準備が始まるという時期でした。ワクはまだ十七歳。サブロウの父親に子供だと言われ、何とか働かせてもらえることになったものの、自分だって十分に役立つのだということを見せてやりたい、と張り切っていました。が、働き始めると、そんな緊張感よりも、新しいことを知る喜びが勝り、毎日がワクワクの連続でした。
(懐かしいな…。サブは元気にやっているかな。)
田植えをしている人たちの中に時々、まだ子供と言ってもいいような年齢の若者が混じっています。ワクはその中に、あの頃の自分自身を見る気がしました。不慣れで不器用ですが、元気一杯、興味津々です。一人前に役立っているとは言い難いですが、その瞳はキラキラと輝いています。生きていることを本能で楽しんでいる、そんな感じです。

頭上でとんびが、ぴーひょろろと鳴きました。
今日の空は雲ひとつない快晴。暑すぎもせず、心地よい風が頬を撫でます。
ワクは、今日で六十歳になります。
最近、歩く速度が落ちてきたようです。速く歩くと息が切れやすくなりました。ケイは何も言いませんが、きっとワクの速度に合わせてくれているのでしょう。
もちろん、まだまだ歩けます。憧れの山に、そしてその向こうの楽園にたどり着くまでは、歩き続けるでしょう。
山は相変わらず、近づいたり、逆に遠のいて見えたり――。なかなかたどり着ける気配はありませんが、焦る気持ちはありません。ワクは旅そのものを、古くから親しんできた友人のように感じています。

前方に、小さな男の子が二人、道端に立っています。竹かごと網を持っている格好からすると、蝶々か何かを捕まえようとしているのでしょう。子供たちの周囲には、確かに蝶々が何匹も舞っています。
「あ、あ、こっち! はやくはやく!」
「それっ! …あーあ!」
うまく捕まえられないようです。
「おお、坊主たち、上手に捕れるかい?」
「だめだー。おじちゃん、できる? おじ…いちゃん?」
「…。」
ワクは一瞬返事に詰まりましたが、気を取り直して、
「よーし、貸してみろ。」
網を手に取り、慣れた手つきで、たちまち一匹のモンシロちょうを捕まえました。
「おー!」
子供たちの目が輝きます。
「お前たちもやってみろ。いいか、見てろよ。蝶々の飛んでいく先へ網をこうやって――ほら!」
また一匹捕まえたワクを見て、子供たちは、
「ぼくもやる! やるやる!」
それから子供たちは、何とか一匹ずつの蝶々を捕まえることができました。
「やったー!」
「やったな、お前たち。良かったなー。」
「うん。おじいちゃん、ちょうちょ捕り名人!」
「へへ。だけどな、蝶々はかごに閉じ込めると可哀そうだから、捕まえたら逃がしてやった方がいいぜ。」
「えー、せっかくなのに?」
「家に連れて帰って、飼いたい!」
「うん。蝶々、可愛いもんな。でもな、蝶々にとっては、人間の家に住むよりも、こういう広ーい外に住んだ方が幸せなんだぜ。」
「ふーん。」
「生き物にはな、それぞれみんな、幸せになれる場所ってもんがあるんだ。人間にも、蝶々にも。」
「ふーん。」
「試しに放してやってみろよ。」
「うん…。」
子供の一人が、自分のかごの蓋を、躊躇ためらいつつそっと開けました。中の蝶々が、ゆっくり、ひらひらと出て来ます。蝶々は、子供に挨拶をするように、顔の周りをひらひらと飛び回ってから、向こうへ飛んで行きました。その姿はとても生き生きとして見えました。
「なんか、ちょうちょが、さようならを言ってくれたみたい。」
「ああ、お前さんに、ありがとうって言ってたんだぜ。」
「幸せになったんだね。」
「ああそうだ。良かったな。」
子供たちは、くすぐったいような嬉しそうな様子で顔を見合わせました。
(しかし、お爺ちゃん…か。この子らからしたら、俺はもうお爺ちゃんなんだな。)
たしかに、髪も七割がた白くなってきました。肌も、さすがにつるつるというわけにはいきません。若い頃から鍛えているせいで、年齢の割に逞しいガタイではありますが。

しばらく歩くと、小さな森に行き当たりました。中へ小道が続いています。ワクは、木漏れ日で明るい森の中へと歩を進めました。
木の枝にはリス。木々の間に鹿。足元にはトカゲ。みんな生きている。はらはらと落ちてくる木漏れ日。世界はこんなに美しい。
やがて森を抜けると、そこは広い花畑でした。一面のシロツメクサに交じり、あちらこちらに白色、薄黄色、薄桃色のヒナギク。ワクは思わず、溜息をつきました。
(まるで天国だ。そうか…天国か。山の向こうの楽園も、こういうところなのかな。いや、楽園と天国は違うんだな。オヤジやセンタがいる場所が、こういうところなのかな。)
考えてみれば、これまでに知り合った人、慣れ親しんだ人たちの中には、年齢的に、すでに鬼籍に入っていても不思議ではない人が多くいます。そう考えると、天国というところが、ワクにはとても身近に感じられるのでした。まあ、皆が皆、天国に行くわけではないかも知れませんが…。
ワクは荷物を脇に置き、緑の絨毯の上に大の字に寝転がりました。ヒナギクの茎やギザギザした葉っぱに半ば埋もれ、花をやや下から見上げるような恰好になります。太陽の陽差しが明るすぎて、思わず目を細めます。
(ケイは大きくなったもんだな。もう立派な大人だ。)
昨日ケイのことを生意気だと思ったことも忘れ、ワクはひとりごちました。
(初めて会ったときは、まだほんの子供だったが。ええと、いくつだったんだ? 十歳…かな。するとあれから十一年か。早いもんだ。)
ワクの脳裏に、センタと再会したときのことが甦ります。
(あれにはびっくりしたな。まさかまたセンタと巡り会えるなんて。ああいうのをなんていうのかな。奇跡、というより…運命? 神様のお計らい? とにかく、偶然じゃねえ。何かの意思を感じるよ。とにかく、センタと再会しなければ、今こうしてケイと、ほとんど親子のようにすることもなかったわけだし。そして、ケイと一緒じゃなければ、おそらくヒロにも出会ってなかっただろう。結婚もしていない俺が、二人も息子を持っちまった。人生、先のことは本当に分からないもんだな。
なあ、センタ。昔、湖で水浴びをした頃の俺たち、あの頃の俺たちは、何を考えていたのかな。若くて、とにかく希望に溢れてはいたな。だが俺は、ただただ山へ向かって進むことばかりを考えていた。その先に何があるかなんて、その先に何がしたいかなんて、これっぽっちも考えていなかった。ましてや、こんな歳になってもまだ山に着かずに旅を続けているなんて、考えもしなかった。しかも、お前の遺した息子と一緒に、だぜ。だれがそんなこと、予測出来るもんか。
でも、それもこれも、やっぱりすべてあらかじめ決まっていることのような気がする。なるべくしてこうなったんだ、と。人生には偶然なんて一つもない。すべては予定ずく、緻密な計画どおりに物事は進んで行くんだ。根拠はないけれど、何となくそう思う。
俺は未だに山へたどり着いてない。この調子だと、生きている間にたどり着けるのかどうか、はなはだ怪しい。ケイを山の向こうの楽園に連れていく、というお前との約束、悪いが、果たせるのかどうか分からねえな…。だが、結果的にたどり着けるかどうかは、二の次かもしれねえ。そんな気もする。
今まで色んなことがあった。色んな人に出会った。これからもきっとそうだろう。一つの場所に定住して、一つの仕事に取り組んで、着実に生きている人たちを見て、引け目を感じた時期もあった。自分は半端者だ、と。だが、今はそうも思わない。旅をする、という人生を選んだのは、俺自身だ。選んだ時には弱冠十七歳で、何にも分かっちゃいない、ただ漠然とした憧れだけで決めたんだが。だが、人生の選択なんて、いつでもそんなもんだよな。ヒロがソウキチ親方に弟子入りしたときも、たった三日間で決めたんだぜ。でも、それが間違っていたとは思ってない。そんなもんだと思う。
俺も色々と経験してきたもんだから、行く先々で、わりと重宝されることが多いよ。農家の仕事や大工仕事なんか、何度となくやっているからな。そりゃ、その道の専門家にはかなわねえけど、新人の若造の面倒を見ることくらいは出来る。時には、仕事以外の悩み事の相談にも乗ったりしてな。サブのように深く専門知識を身に着けることは出来ていないが、代わりに、色んなことができる。農作業、茅葺屋根の修復、草履作り、大工仕事、宿屋の経営、などなど、広く浅くだが、大げさに言えば何でも出来るぜ。それに、仕事ではないが、野宿の技術や、食べられる草、毒のある草の知識、小動物の捕まえ方、魚釣りなど、野で生きる上で必要な技術も一通り身に着けた。それらは、生涯家の中で生きる人間には出来ねえことだ。)
ワクはそこで、「伝説の旅人」との評判が立ったことを思い出して、小さな苦笑を浮かべました。
(さすがに伝説は無いけどな。あのマサの奴が、大げさに書くから。)
けれど、旅人という存在が、それまでの「放浪者」という扱いから、憧れの対象、立派な人種へと変わってきた――そう世間の目が変化してきたのもその頃です。世の流れというものは変わって行く。人の評価も、時代とともに変わって行く。だから結局、自分のやりたいようにするのが一番なんだ。
(お前の言ってた通りだよ、センタ。)

太陽が真上の位置に来ました。そろそろお昼です。宿で持たせてもらったおにぎりと、ちょっとしたおかずがあります。が、ワクはそれを食べるのも何となく億劫に感じて、もうしばらくこのまま寝転がっていることにしました。

生まれ育った家を出てから、こうやって何度となく、野原で空を見上げてきました。すべては山の向こうの楽園に着く、という目標のため。それがなければ、今でも故郷の家に暮らしていたかも知れません。そこまで考えて、ワクははっとしました。もし故郷の町で暮らし続けていれば、ワクが旅の途中で出会った人々、誰とも出会うことはなかったのだ、と。もちろん、故郷に留まれば、そこで出会う人たちはそれなりにいたでしょうが、それは、実際にワクが出会った人たちとは違います。あの愛しい人たち。コハルやコマリのことを愛おしく想い出すのはもちろんですが、それ以外の人たちも、自分が出会った人たち皆を、一人残らず、ワクは愛おしく感じています。それらの人たちの誰もに出会わなかった人生だったとしたら――。
山への憧れは、もちろん消えていません。いまだに、山へ着いた後の楽園での生活を夢に見ることがしばしばあります。が、ワクは、そこへたどり着いた後にだけ、幸せがあるのではないだろう、と感じるようになっていました。今ここで感じること、今ここで出会う人たち、今ここでする体験、それらすべてがワクに充実感、感動、ひいては生きているという実感をもたらします。すべては、山へ向かうという大きな目標を背景にして、今まさにここで、色鮮やかに輝いている。
(今この瞬間を輝かせること。今この瞬間を精一杯生きること。今この瞬間を最大限味わうこと。そんな輝いた瞬間の積み重ねこそが、それが生きるということなんだよな、きっと。)
道行く先で出会った人々と一緒に仕事に没頭している最中、仕事を終えて労をねぎらい合っている時、来年や将来の目標をその人たちと語り合う時、ワクは、ああ生きている、と感じるのでした。

それからかなり長い間、ワクは、身の回りの自然の音と気配を感じながら、じっとしていました。小鳥の囀り、少し時期が遅いような気もするうぐいすの声。花畑を渡って行く風の音と香り。その風に乗ってほんの微かに聞こえてくる、人の声。田植えをしている人たちの話し声でしょう。花畑の向こうに見えている樹々が、風にそよぐ音。時々聞こえる、キィという鳴き声は、きっと鹿です。すぐ耳元には、ミツバチの羽音。
空はどこまでも高く、青い。
ワクは全身で、自分を取り巻く世界を満喫しました。

やがて、少しばかり陽の光が弱くなってきました。さっきまで目映まばゆいばかりに輝いていた花たちが、少し落ち着いた色合いになってきました。今日はすでに、一日の盛りの時刻は過ぎたのです。朝が来て昼が来る。夕暮れを経て夜が来て、そしてまた朝が来る。また明日になれば、陽光を浴びた世界はきらきらと輝きを取り戻すのです。が、そうと分かっていても、色彩が鮮やかさを失い始めるこの時間帯に、無性に寂しい想いに襲われるのは、何故でしょうか。

その夜は結局、その花畑の片隅で焚火をし、一泊しました。食事は、宿で持たせてもらったおにぎりとおかず。
随分久しぶりの、一人きりの野宿でした。夜はむしろ、少しも寂しくありませんでした。とっぷり暮れてしまった後の方が、暮れ行く最中よりも返って心が落ち着くように感じられます。

翌朝、目覚めたワクは、遠方に見えている山に向かって、手を合わせました。
(おはよう。今日も良い天気になりそうだな。今日もよろしく頼むぜ。)
山はもちろん何も答えてくれませんが、ただじっと、親しみを込めた静かな眼差しで見つめてくれているようです。
ワクは、良い天気につられて、少しだけ遠回りをしてみることにしました。
(そろそろ梅雨に入ってもおかしくない時季なのにな。俺がせっかくの機会を無駄にしないように配慮してくれているのかな。誰が? さあな。)
目の前に真っ直ぐ延びている一本道。この道を素直に行けば、ケイと待ち合わせている、隣町に着きます。ワクはわざと、左手に迫っている林の中へ分け入っていく、半ば獣道けものみちのようなみちへ入りました。
やや急な上り坂を、一歩一歩踏みしめながら進んでいきます。
(意外ときつい坂だな。俺もまだまだ、これくらいの道は大丈夫だろう。これなら、ケイの行き先について行っても良かったのかも知れねえな。)
少し汗が出てきます。ワクは茂みの中でいったん立ち止まり、思い出したように、荷物袋の中から、杖を取り出しました。
珍しい三つ折り式の杖。黒光りする、頑丈そうな杖。そう、ヤエさんがワクに持たせてくれた、あの杖です。その先端には相変わらずジロウの首輪と、コウサクの御守りがついています。あれからおよそ二十年も経っているのに、その頑丈そうな見た目はほとんど変わっていません。これまでも度々使っていましたが、それは主に、精神的に支えが欲しい気分の時でした。今日は、身体的に支えを欲しています。
(いよいよこいつを、本来の意味で必要とする年齢になってきたな。母ちゃん。母ちゃん、大事に使わせてもらうよ。)

小さいと思っていた林は、意外と広く、樹々に閉ざされた世界から、なかなか外へ出られません。これは引き返した方がいいかな――、と思っていたところへ、急に目の前が開けました。
足元の先は、ちょっとした谷になっています。谷というよりは、窪地というべきでしょうか。窪んだ地面の一面に、黄色や白や桃色や橙やすみれ色や――あらゆる色彩の花が、文字通りいます。花には蝶や蜂が群がっています。昨日の花畑に輪をかけたように、信じがたいほど美しい光景でした。
ワクは、今度こそ天国に来たに違いない、そう思いました。
(俺は気づかぬうちに生死の境を越えちまったんだ。そうに違いない。だってそうでなきゃ、こんな景色はありえない。)
午前中いっぱい、その天国の花園で過ごしました。ひょっとすると、ここが山の向こうの楽園なのだろうか。一瞬そんな考えが頭をよぎりました。が、そんなはずはありません。山はまだずっと前方に見えています。それに、楽園とは、ただ単に景色がきれいな場所ではないはずです。それは――それはきっと、すべての人々が、汗水を垂らしながらも、笑顔で溌剌として暮らしている、そんな場所でしょう。ここには人が誰もいない。したがって、ここは楽園ではない。
太陽が真上に来たのを機に、ワクは重い腰を上げ、歩き始めました。窪地から元の道へ上がり、林の中へは入らず、そのまま林沿いの道を歩いていきます。左手に花園を見下ろす形で。前方に、ちょうど良い具合に蒼々とした山が見えています。
(お前さんは、いつまで経っても変わらねえな。俺が子供の頃から、お前さんはちっとも歳を取ってねえ。)
知らず知らずのうちに、山に向かって心の中で話しかけているワクです。いえ、この時は実際に声に出して話しかけていました。
「なあ、お前さん、いつまで俺を待っててくれる? もう何十年も待ってくれていて。済まないなあ、長いこと待たせちまって。まあ、この際ついでだ。あと何年かかるか分からないけど、ゆっくり気長に待っててくれよな。歓迎会の出し物でもじっくり考えておいてくれ。」
「でもなぁ、こうしてお前さんに見守られながら歩いていると、お前さんと一緒に旅を続けるというだけで、それだけでもう十分なのかもしれない、という気がする時があるよ。もし、お前さんのところにたどり着けなくても。何だか、な。上手く言えないけれども。」
今では、山は最終目的地であると同時に、ワクの生活の中に、いつでもそこに存在になっているのでした。
「なあ、人間っていうのは不思議なもんだが、でも、結構単純だよな。死にたいほど悩んでいても腹が減る時は減る。腹を満たすと、何となく問題が軽くなったような気がしてくることもある。それと、心の叫びに素直に耳を傾けて、大事にしてやると活力が湧いてくる。でも、そうしているうちに次の悩みが生まれる。で、それを人に話すと、悩みが半分以下になっちまう。つまりは、至って単純だ。大事なのは、本来の自分の心身を大事にすること、それと、人は一人じゃ生きられないってこと…じゃねえのかな。」
「俺には、生涯を通しての親友が三人もいることに気がついたよ。一人はオヤジ。一人はセンタ。そしてもう一人は、山、お前さんだよ。」
遠くの山を見て、思いを馳せるワク。ひょっとしたら自分は、この、山と自分との間に広がる、広々とした空間にこそ、愛着を感じているのかもしれない。そんな奇妙な考えが、ワクの頭をよぎるのでした。

翌日。夕焼けの中。
待ち合わせの宿屋にようやく到着しようとしているワク。その表情は、悟り切った人間のように穏やかです。
ケイが、前方で、満面の笑みで大きく手を振っています。その姿は、また一回り逞しくなったように、ワクの目には映りました。
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