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第五章 大人になる時

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高く澄んだ空の下、はるか彼方に、山はぼんやりと見えています。真夏の青々とした、力みなぎる山もいいけれど、今の季節の上品なたたずまいも捨てたものではない、とワクは思いました。
サブロウ一家の家を出てから二年。父親の家を旅立ってからは、二年半ほどの月日が流れていました。
十九歳の秋。さらに少し背が伸びました。
両手で川の水をすくい、ごくごくと喉を鳴らすワク。その腕も、以前より少しだけ逞しくなったようです。
喉が潤うと、体を包むほっこりした陽射しに浮かれて、ワクは鼻唄を歌い出しました。初めは囁くような声だったのが、徐々に調子に乗って大声になります。そのうち、身ぶり手ぶりもついてきて、しまいにはほとんど踊っていました。
無理もありません。爽やかな秋晴れで、周りに誰も見ている人はおらず、そして何より――彼は若かったから。
踊るワクの鼻の頭に、トンボがやってきてとまります。トンボを驚かさないように気を付けながら、やさしく体を揺らして踊ります。トンボが鼻から飛び立つと同時に、トンボを見送るように身体をくるりと一回転。
後ろを向いた拍子にふと気づくと、四、五歳くらいの男の子が立っていました。彼について来ているようです。一旦は知らん顔をし、後ろを意識しながらしばらく歩いていましたが、いつまでたっても帰っていく様子がありません。ついにワクは、男の子に声をかけました。
「おい、坊や。」
男の子は一瞬足を止め、こちらを伺うような目つきをしましたが、ワクが笑いかけると、嬉しそうに駆け寄ってきました。
「踊り子しゃん! 踊り子しゃん!」
オドリコシャンというのが何を意味するのか、ワクには一瞬ピンときませんでしたが、すぐにそれが「踊り子さん」のことだと思い至りました。
(踊り子? 俺が? なんだそりゃ。)
「坊や、うちはどこだ?」
「あっち。」
自分たちがやってきた道の方向を指しますが、近くに家はありません。最後に見た民家がどのあたりにあったか――しばらく民家を見ていない気がします。もうかなりの距離をついて来ていたのでしょうか。
「仕方ねえなあ。お前の家まで戻ろうか。」
男の子はなぜだか嬉しそうに、こくんとうなずきました。
嬉しそうにワクと手をつないで歩く男の子。笑いながらワクをじっと見上げて来ます。ワクが、少々ぎこちない笑顔で笑い返してやると、嬉しそうに、
「踊り子しゃん、踊って!」
とねだってきます。
「いや、おれ、踊り子じゃねえよ。」
「踊って、踊って!」
「し、仕方がねえなぁ。」
さっきは人が見ていないと思ったから、思いつくまま、でたらめに身体を動かしていたのです。言ってみれば、「メチャクチャ踊り」です。改めて踊ってくれと言われると、とても照れるのですが、それでもワクは踊りました。
「お前も踊れよ。」
言われた男の子も、一緒になってメチャクチャに体を動かし始めました。
いつしか二人は、より変な動きを競い合うように踊りながら歩いていました。時々ポンと頭を叩いてやると、男の子は「キャヒン!」と言って嬉しそうにしました。

どれだけ歩いたでしょうか。気づくと、日が少し傾いて、短い秋の日は夕方にさしかかろうとしていました。
(早くこの子の家を見つけなきゃ。)
と思っているところへ、ほどなく一軒の家が見えてきました。先ほどここの前を通った記憶があります。
「あそこか? お前の家は。」
「うん!」
男の子は、にこにこ顔で答えます。もうすっかり仲間気分のようです。

一人の若い娘が、ほうきで家の前を掃いていました。
油断して、踊りながら娘に近づいて行ったワク。娘が顔を上げた瞬間、胸にズキンと衝撃を覚え、思わず娘に見とれて立ちすくみました。同時に、間抜けな踊り姿を見られたと気づいてドギマギ。小柄な娘は、白くて柔らかそうな肌に、つやつやの黒髪で、やや垂れた目尻に黒目がちのつぶらな瞳をしていました。ワクは、自分の顔が熱くなっていくのをはっきりと感じました。
「あら、坊ちゃん、どこへいらしてたの? お父さんがお探しだったのよ。」
「踊り子しゃん! ねえちゃん、これ、踊り子しゃん。」
「はぁ?」
そこで娘は初めてワクに目を向けました。珍しいものでも見るようにワクを見つめて、
「旅芸人の方ですか?」
「! い、いや、ち、ちが!」
ワクは混乱し、まともな言葉を発することができません。耳まで真っ赤にして、男の子の頭を思わずポカン、と叩くと、強すぎたのか、男の子は泣き出します。
「あ、あ、ごめ…。」
ワクにはもはや収拾がつきません。絶望的な気持ちに陥りました。
すると娘はあろうことか、口に手を当てて笑い出しました。
「おほほほ!」

その後、この坊ちゃんの父親が、戸口での騒ぎを聞きつけ、ワクを家へ招き入れてくれました。土間の囲炉裏端で、ワクはいきさつを話しました。
「そうかそうか、坊主が世話になったな。」
「まあ、世話っていうか、ただこいつが…この子がついて来ちまうので、家まで送ろうと思っただけで。」
「それはえらい迷惑をかけちまったな。」
「いや、迷惑ってこともないけど…。」
と、ちらりと娘の方を見るワク。
「わたしはてっきり、旅芸人の方かと思ったわ。」
娘はまたワクたちの踊りを思い出したのか、口に手を当てて笑いをこらえている様子です。
ワクは恥ずかしくて恥ずかしくて、いたたまれない気持ちで、赤い顔をうつむけます。
「それはそうと、もう日が暮れかかっているが、おまえさん、今晩はどうするね? ここへ泊まっていってもええぞ。」
「泊まる? 踊り子しゃん、泊まる?」
坊やは大変うれしそうです。
「いいんですか、泊っても?」
「ああ、ええよ。坊主が世話になったしな。」
「じゃ、遠慮なく。」
と、また娘をちらりと見るワク。
娘は涼しい顔で、黙って下を向いていました。

娘の名前はナズナ。ワクより二つ年上の二十一歳でした。この家の娘ではなく、知り合いの家から、泊まり込みでお手伝いに来ている身ですが、小さな子供の時分からだそうで、主人はナズナのことを、なかば本当の娘のように可愛がっている様子でした。
坊やは四歳で、ユキといいました。つい昨年、母親を亡くしており、その母親は踊りが上手で、結婚前には踊り子をしていたとのことでした。
次の朝、ワクが礼を言って出発しようとすると、ユキ坊やがぐずり始めました。
ワクの着物の裾を引っ張り、おいおいと泣きます。ただただ悲しそうに、涙を流して声を上げます。
「…。」
「悪いな。もう一日泊って行ってくれんか。」
「俺は全然構わねえけど。いいんですか?」
「ああ、お願いするよ。」
ワクも、滞在を延ばすにやぶさかではありませんでした。ユキ坊のことも可愛かったのですが、それ以上に、ナズナが気になっていたからです。
「ユキはお前さんのことを踊り子だと思って、それで母親の仲間のように感じているのかもしれんの。」
「ふーん。」

それから、ワクは出発をずるずると一日延ばしにしていきました。主人からの要望で泊っているとはいえ、ただ飯を食らうのは気が引けるため、宿代を支払うことを申し出ましたが、主人は断りました。
「なら、何か仕事させてくれよ、おっちゃん。ただ飯と寝床を恵んでもらっているだけじゃあ、なんだかな。」
「そうか。じゃあ、お前さん、俺の仕事を手伝わんか。それで宿代はタダ。逆に給金もやれるぞ。少しならな。」
「仕事って、おっちゃんのやっている、屋根の修理か?」
「ああ、そうだ。」
屋根の修理というのは、茅葺屋根の修復作業です。
そうしてワクは、しばらくの間、この家に寝泊まりすることになったのですが――それが、少しばかり心が乱される原因になったのです。
彼はナズナを初めて見た時から、自分の中に奇妙な、これまで経験したことのないものを感じていましたが、日が経つにつれ、それは大きくなっていきました。
朝起きるとすぐに、ナズナの顔を思い浮かべます。顔を合わせて、
「おはよう。」
と言葉を交わすのが、一大事。彼女の姿が目に入ると心臓が歓喜にビクンと飛び跳ねますが、同時に何だか厄介ごとを背負い込んでしまったような、落ち着かない気持ちに。そんな腫物のような心を隠して、何でもない態度をとろうとする。たいそう疲れ、さらには自分が情けなくなり、軽蔑されているに違いないと思い込み、どっぷりと落ち込みます。なんだか自分がとても弱くなってしまったように感じます。普段の強気な彼には似つかわしくありません。
ときにはそんな気持ちが、態度に表れてしまいます。
ある朝、
「おはよう、ワク。」
と声をかけてきたナズナがまじまじとワクを見て、問いかけました。
「どうしたの? 機嫌が悪いみたい。よく眠れなかったの?」
「い、いや、別に。」
顔が火照っているのを相手に悟られまいと、横を向きます。なぜか少々乱暴な気分になり、洗面所の戸を閉める手に力が入って大きな音を立てました。ナズナにはそれがやっぱり不機嫌の証のように見えて、ちょっと悲しそうな顔をしました。

茅葺屋根の修復作業の方は、やってみると意外と重労働です。高いところでの作業ですが、彼はその点は平気でした。怖いどころか、名前のとおり、ワクワクします。力が必要である一方で、繊細な作業もあり、神経を遣いますが、きれいに仕上がった部分を見ると気持ちが沸き立ちます。これはこれで面白い! とワクは夢中になりました。
いつしか、主人のことを「親方」と呼んで慕うようになりました。
秋空の下、修復の仕上がった屋根の上で風を浴びていると、なんとも言えない充実感に満たされます。仕事を終えて帰宅する家には、好きな女性が待っている。こんな人生も悪くないな、と思わずにいられないワクでした。

ある日の帰宅後、着替えなどをしながら、なんとなくナズナの姿を目で探すと、彼女は窓の外、裏手の畑にいました。
裏戸口から出て、
「た、ただいま。」
ぎこちなく声をかけるワク。顔が火照るのが自分で分かります。
「あ、お帰りなさい。今日もご苦労さま。」
「あ、ああ。」
ぶっきらぼうに、それだけ答えて下を向くワク。
「どう? 仕事には慣れた?」
「ああ。」
「親方は優しく教えてくれるの?」
「ああ、とっても丁寧に教えてくれるよ。」
「そう、良かったわね。」
ナズナはワクよりも年上です。何となく、弟を心配するような口調になります。
「お、俺、手伝うよ。」
「いいのよ、疲れているでしょう。」
「いいや、全然。」
ナズナは目じりを下げて優しく笑い、
「じゃ、お願いしようかしら。」
ワクは、目の前がぱあっと明るくなったような気分になり、それからいそいそと、ナズナに指図されるままに作業を手伝いました。
彼女はほぼ毎日、その時間帯に、何かしらの作物を摘んでいるのです。夕食のおかずの食材や調味料として使うためです。
それから毎日、ワクは仕事から帰ると裏庭に行きました。頼まれもしないのに何となく手伝いをしながら、慣れてくると一転して、その日の屋根作業のことやその他の出来事を、喜々として話すようになりました。話の内容は取るに足らないことが多いのに、ナズナはいつも、にこにこしながら聞いてくれます。時にはお姉さんらしく、たしなめられることもありましたが、そんな時も含めて、ワクは幸せでした。
少しでも自分の話を聞いてくれれば幸せ。いや、一緒にいるだけで幸せ。いやいや、少しでも自分の活躍を聞いて欲しい。感心して欲しい。ワクの気持ちは、もうナズナのことでいっぱいでした。
でも、ナズナの方はこれほど自分のことを想ってくれているわけではないのだろう、自分はまだまだ子供なんだから、彼女に釣り合うような人間ではない。時にワクは悲観し、切なくなり、落ち込み、自分を卑下します。
恋心を経験することにより、ワクは相手の目を通して自分を意識し、見つめるようになったのでした。もっともそれは多分に主観的で、皮相的で、かつ感傷的な見つめ方ではありましたが。
作物を摘んでいるナズナの手を見ているうちに、ワクは彼女の手が、日々の労働で大変荒れていることに気づきました。それ以来、一緒に畑にいるときは、ワクは自分が作物を摘み、ナズナにはそれをさせないようにしました。彼女が他にもたくさんしている労働を考えれば、そんなことは焼け石に水だということは分かっていましたが、そうせずにはいられませんでした。
そう、ナズナの仕事は家事だけではありませんでした。もうひとつ、草履作りもナズナの主な仕事でした。
「亡くなった奥さんが中心にやってらしたの。私は奥さんに習ったのだけれど、奥さんが亡くなってからは、私ひとりで細々とやっているのよ。」
「俺もやるよ。教えてくれ。」
「何を言っているの。あなたはお昼間の仕事で疲れているの。無理をしてはいけません。」
「ナズナだってそうじゃねえか。」
「私は慣れているから。」
「俺だって慣れるから大丈夫だ。」
ナズナは、聞かん気の弟を見るような目でワクを見て、かすかに微笑みながらうなずきました。
毎日一時間だけ、という条件でワクは草履作りに参加することとなりました。実際のところ、ナズナに教えてもらいながらの作業ですから、果たして手伝いになっているのかどうか――かえって迷惑なだけだったのかもしれません。が、それは楽しいひとときでした。少なくともワクにとっては、永遠に続いて欲しいと思うような。

一方でワクは、ユキ坊やともますます親しくなりました。坊やは相変わらずワクのことを「踊り子しゃん」と呼びます。違う、名前はワクだと言うと、「ワクの踊り子しゃん」と言います。踊り子ではない、と言うと、悲しげな顔になり、しまいには泣き出します。何度かそんなやりとりを繰り返した後、ワクは諦めました。それどころか、「踊り子しゃん」と呼ばれたら、笑顔で「メチャクチャ踊り」を披露するようにしました。ユキ坊やは飽きもせず、毎回手を叩いて喜び、時には自分も踊りました。親方によると、母親が亡くなって以来夜尿症おねしょが治らなかったが、ワクがやってきてからそれが不思議と止まった、とのことでした。

三月初め。
厳しい冬を越え、季節は春になりかかっていました。
ある夕方、仕事から帰ると、客室から男性の声が聞こえます。今日は親方に大事な用があるからと、ワクはひとりで仕事に行っていたのでした。
その親方が、ひとりの知らない男性と話しているようです。
「いままで散々お世話になりまして、本当に、何と言ってよいか…。」
「いやいや、この子は本当に働き者で、こちらはずいぶん助かっているんで。」
「そうですか。」
「最近はもう、こんな言い方しちゃあお前さんに失礼だが、自分の娘みたいに思えてましてな、淋しいこってす。」
「よかったな、ナズナ。こんなに可愛がっていただいて。」
男性は少し涙声になっているようにも聞こえました。
ナズナの声は聞こえません。
男性はナズナの父親でしょうか。これまでワクは会ったことがありません。それよりも――。
(ナズナがいなくなる?)
話の内容からすると、どうもそのように思えて仕方がありません。でも、こんなに急に――。
ナズナの父親と思われる男性は、ほどなくして帰って行きました。
その夜、寝る前までの間、親方にもナズナにも特別変わった様子はありませんでした。ワクは自分の勘違いかもしれない、とも思いましたが、その夜はよく眠れず、何度も目を覚ましました。
翌朝、少し眠い目をこすりこすり起きて、朝食の卓につくと、ナズナの姿が見えません。聞くと、用事があって、今日は朝から実家に行っている、とのこと。ワクは再び胸騒ぎに襲われました。
夕方、仕事を終えて帰宅したときに、親方に呼ばれました。
「お前、ちょっとここへ座れ。」
「なんだい、親方。」
親方の少々こわばった表情を見て、ワクは一瞬、仕事で何かヘマをしたのかと思いました。が、親方は、予測に反して、こう切り出しました。
「お前は、ナズナのことをどう思っているんだ?」
「え?」
心臓が口から飛び出しそう、というのはこういうことかもしれません。ワクは瞬間、まずい! と思いました。何がまずいのか自分でもよく分かりません。
「いや、聞くまでもねえか。お前の気持ちはよく分かっている。」
「え?」
相変わらず、まともな返事が返せません。
「分かってはいるんだがなぁ。なあ、お前はまだまだガキだ。これは仕方のないことだ。」
「何が? さっきから何なんだ、親方? ナズナがどこかに行くのか?」
ようやく意味のある返事ができました。が、心臓が高鳴って苦しくなります。
「ナズナはな…もらわれていくことになった。」
「ほ、奉公先を変わるのかい?」
「ばか、違うよ。」
「?」
「嫁ぎ先が決まったんだ。」
その瞬間に誰かに頭を殴られたに違いないと思いました。その後のことは、記憶がぼんやりして、よく覚えていません。おそらく、表面上、何事もなかったかのように、普段どおり飯を食い、風呂に入り、寝床に入ったのでしょう。

四月。
春になり、畑には作物と同時に、雑草も生い茂るようになりました。
ワクは畑で、ナズナと向き合って立っています。作物や雑草に隠れて、家の中からは二人の姿は見えません。
さっきまで二人はいつも通りに畑作業をしていました。結婚の話が決まった後も、ナズナの態度は特に変わらず、ワクもその話題には触れず、これまでと同じ生活を続けてきたのでした。が、六月にはナズナが嫁いで行ってしまうことも、ワクはもう知っています。
「春になって野菜も草も生い茂ってきたな。草なんて、いくら刈っても追いつきやしない。」
「そうね、毎年草抜きは大変だけど、今年はワクがいてくれるから大助かりね。六月になったらエンドウもキュウリも収穫できるわ。」
六月――。瞬間、ワクの体に熱いものが走りました。
どうしようもなく、ナズナを引き寄せ、抱き締めました。いけないことだと思っても、腕に力が入り、身体が言うことをききません。
するとナズナは、自分の方から背伸びをして、唇をワクに近づけ、軽く――ほんの軽く――ワクの唇に触れました。
ほんの一瞬でした。二人はすぐに離れ、立ったままお互いを見つめました。
やがて、ナズナはゆっくりと体を回して後ろを向き、家の方へ歩き出しました。その背中に、ワクはたまらず叫びました。
「ナズナー! 大好きだ!」
ナズナは振り返り、これまでに見た中で最高の笑顔を見せてくれた後、戸口から家の中へ入っていきました。
ワクはとっさに、家とは反対の方角へ走り、小高い丘の上の茂みに隠れて、おいおいと泣きました。涙はいつまで経っても枯れず、頬を撫でる生暖かい風に切なさをそそられるのに任せ、いつまでも泣き続けました。まるで小さな子供に戻ったかのように。

五月。
ワクは、ナズナの結婚より一足先に、親方の家をおいとましようとしていました。ナズナの件に加え、彼は本来の目標を、再認識したのです。ユキ坊も落ち着いてきた様子で、ここらが潮時でした。
出発前に、親方、ナズナ、ユキ坊は、もうすぐ二十歳になるワクに、ささやかな成人祝いを催してくれました。
「ワクよ、成人おめでとうさん!」
親方の掛け声で乾杯。
ワクは、酒というものをこの時初めて飲みました。苦くて深い、大人の味です。
ナズナとユキ坊は、野の花で作った首飾りをワクの首にかけてくれました。
ワクとユキ坊は、興に乗って「メチャクチャ踊り」を一緒に踊りました。今日は特別に心を込めて。
ワクはこの日を、自分が大人になった日として、一生忘れないだろうと思いました。

数日後。表玄関の前。
親方、ナズナ、ユキ坊やが見送りに出ていました。
「元気でな。お前とナズナがほとんどいっぺんにいなくなるからな。俺は淋しいよ。」
「すいません、さんざん世話になっておいて、何にも恩が返せねえ。」
「なに、十分働いてくれたさ。」
「踊り子しゃん、踊り子しゃん。また帰ってくる? いつ帰ってくる?」
「そうだな…ユキ坊が今よりずっと踊りが上手くなったころかなあ。」
坊やはこくんとうなずきました。希望と不安が入り混じったような顔で。
ナズナは一言、潤んだ目で、
「ありがとう。」
と。
「幸せになれよな。」
「もちろん。…ワクもよ。」
「うん。」

ワクはまた、夢に向かって歩き始めました。きりっと前を見据えるその表情は、また少し大人びたように見えます。
五月の陽光。
彼を取り巻くのは、すべての事物が光り輝いている、まるで天国からそのまま降りてきたような世界でした。
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