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「師匠?」
服部さんが眉を寄せた。
「はい、メイクの師匠! 私、オトナっぽくなりたいです。服部さん、私にメイクを教えてください!」
勢い込んでまくしたててからハッとした。
ちょっとまて、服部さんはコスメショップの人。ということは、メイクのアドバイスなんかは仕事なんだよね? それをただで教えてくれ、なんてちょっと虫がよすぎるな。
そしてやっぱり怖いよ服部さん。にらんでる? こっちをにらんでる? 不躾な子供だって思われちゃったかな?
私は勢いで言ってしまったことを早くも後悔し始めていた。うわ、やる気だけが空回ってるよ、私。ちょっと落ち着かなきゃ。
「あ、いや、すみません不躾に。その、こちらでメイク教室とかやってれば」
「しばらく予定はないな」
「そうですか……」
そんな都合良く行かないよな。ほっとしたような、がっかりしたような。
「すみません、そしたら色だけでも選んでもらえるとうれしいです」
とりあえず口紅だけでも買って帰ろう。せっかく来たんだから。さっきつけさせてもらったサンプルのコーラルピンク、あれもいいかも。それにあわせて他の化粧品も選んでもらおうかな。
「――いや、ちょっと待て」
口紅の並んだ棚に向かおうとしたら、服部さんに止められた。
「キミ、うちでバイトしないか」
「へ?」
突然とんだ話に呆然とする。
え、どこからそういう話になったんですか?
「ありがたいことにうちの店は最近繁盛していてな、人手が足りていない――そして、キミはメイクを習いたい」
「それはそうですが、どうつながるんですか?」
「うちの店員は当然皆メイクをする。お客様が見て憧れるようなメイクをすることが必要だ。だから、バイトたるキミにメイクを指導するのは店長である俺の仕事だな」
「――!」
「どうだ?」
「やっ、やります! やらせてください!」
「バリバリ働いてもらうぞ」
「望むところです!」
服部さんが「よし」と満足そうに頷いた。
どこか笑顔が黒く見えたけど、そこはとりあえずスルーすることにする。
そうだよね、化粧品揃えるのにもお金がかかる。当然バイトしなきゃいけない。今、ちょうどバイトしていないから新しいバイト入れることには問題ない、っていうかむしろ大歓迎だ。
それに、忙しく働いていれば悲しい気持ちも紛れるかもしれない。おまけにメイクも教えてもらえる。いいことずくめじゃない。
服部さんはちょっと怖いけど、こんなチャンスはなかなか巡り会えないだろう。
とはいえ、服部さんがバイトの雇用を決めちゃっていいわけ? ふと不安に思って服部さんに聞くと、さらりと爆弾を投下された。
「問題ない。俺が店長だ」
★★★
服部さん――店長の言っていたとおり、バイトはなかなか大変だ。
お店の名前は「ロージィ・ルーム」。化粧品会社の直営店だった。
もちろん、メイク初心者の私に接客なんかできるわけもなく、主な仕事は商品の補充や店舗の清掃だ。というのも、ここの店は商品の購入は当然できるが、サンプル品をたくさん用意してあって、自分でメイクを試すためのブースがたくさん設置してある。勿論、メイクのプロである店員のアドバイスもばっちりだ。だから私の仕事はお客様が使った後の席を清掃したり、必要な備品を補充したりすること。
まあ、ほかの諸処雑多な仕事もあるけど、主な仕事はそれ。
その合間を縫って、店員さんたちのメイクアドバイスを盗み聞き(人聞きの悪い)自分もメイクの勉強をしている。
ところで私にも店長から「きちんとメイクをしてくるように」とのお達しは出ています。なので、必死に自分でメイクして行くんですが――
「35点」
店長の採点は厳しい。そう、出勤の度に店長のダメ出しが飛んでくるのだ。
「久保川さん、ここのチークの入れ方どこで勉強した」
「え、ええっと、メイクの動画ばっかり集めたサイト見つけまして、そこで」
「全然だめだ。見たことなんでもやればいいってものじゃない。これじゃ顔の他のパーツとバランスが悪すぎる」
そう、実は店長から「メイクの基礎」とか「メイクのやり方」なんてのは教わっていない。そんな初歩はインターネットでも本でも情報が世間にあふれている。だからまずはそれを自分で勉強して、自分なりにメイクをしてみろ、それを修正してやる――そんなふうに最初に言われたのだ。
確かにバイトを始めてわかったけど、店長は忙しい。めっちゃ忙しい。そんな人に手取り足取り教えてもらうのは、店長の時間的にも私の良心的にも大いに問題があったわけだ。まあ、さすがにおすすめの本とかサイトは泣きついて教えてもらったけど。スパルタだ。
そんなわけで、私が自習したものを添削する方式のメイク指導は始まったわけだ。
ぽんぽん、と店長が選んだチークをはたき治してもらう。ついでと言わんばかりにアイラインを修正、リップも少しオレンジがかったピンクを重ね塗り。その間も目力の強い店長の目が私をにらんでいる。緊張なんてもんじゃない――けれど。
「どうだ」
「――はい、恐れ入りましてございます」
店長がちょこっと手を加えるだけで、何かが劇的に変わってしまう私の顔。すごすぎる。
怖いんだけどなあ店長。でもアイラインを引くとき、リップを塗るときの手つきはとても優しい。どこか色気すら感じてしまうのだ。
そんなこんなで店長にびびりながらも毎日必死に仕事とメイクをがんばっている。
この「ロージィ・ルーム」、従業員は全部で5人。服部さんが店長で、女性の店員さんが4人いる。みんなメイクすんごい上手。美人。その中で一番腕がいいのが、なんと服部店長なんだとか。すごいなあ。私の中で店長は「相変わらずちょっと怖いけど、なかなか尊敬できる」という方向にシフトチェンジするのにそれほど時間はかからなかった。
「でもね、店長ってちょっと変わってる……っていうか、でしょ?」
休憩時間に一緒になった皆川さんがそう言って笑った。ちなみに最初に店に来た時、私が店長と勘違いした人だ。
「えー……っと」
「いいのよ、店長出かけてるから大丈夫。ちょっと融通きかないし、接客業のくせに時々人の気持ちわからないようなこともあるから」
「ああ、私、初対面からちょっと怖いと思いました」
「わかるわかる」
けらけらと皆川さんが笑う。
「なのに店長に『師匠と呼ばせてください』でしょ? すごい強者が来たってみんなで話してたの」
「ええ~……」
「どう? メイクの勉強進んでる?」
「いえ、まだまだです。店長が毎日私のメイクに点数つけるんですけど、赤点しかとったことないです」
「ふふ、練習あるのみよね――そうだ、一度私もメイクやってあげようか」
「皆川さんが?」
うれしくて声が跳ね上がった返事に皆川さんがにっこり頷く。皆川さんって、すてきな大人の女性だ。いつも長い髪をきゅっと結い上げてきりっとしたメイクをしているけど、話してみるとほんわかムードで。あの黒髪美人さんとはまた違うタイプの大人の女性。
前に服部店長に「大人っぽくなりたいというのなら、自分に合った色やメイクの仕方を覚えて自分らしい大人っぽさを作っていけばいい」って言われたのはこういうことなんだな、と改めて納得した。
「ほら、どう?」
時間があまりなかったので軽く手を入れてもらった程度のメイク。
「可愛いです。うわ~、ありがとうございます」
できあがった私の顔は最近流行のかわいいメイク。使っている化粧品は私のものと「ロージィ・ルーム」で扱ってるサンプル。
すごく可愛い。うん、すごく。ただ私の目指す「オトナっぽい」というより、アイドルみたいなかわいい系メイクだけど。
でもさすがは皆川さんだなあ。このメイクはこのメイクでとってもかわいい。
「さ、そろそろ休憩も終わりね。いこっか」
「はい」
皆川さんと店舗に戻る。
皆川さんにしてもらったメイク、本当にすごく可愛くて他の店員さんたちにも褒めてもらった。
可愛くなるのってうれしい。メイクって、思ったよりずっと楽しいかも。
「ほら、この子が使ってるシャドウがこちらの色なんですよ」
皆川さんが接客しながら私を指す。なるほど、実際につけてる様子をお客様にも見せられるからいいわけね。私がモデルで申し訳ないけど。
備品補充したり清掃したり、いろんな雑用をこなしているうちに閉店だ。
「久保川さん」
あらかた片付くと店長に呼ばれる。
「はい、店長」
「今日のメイクは、そうだな、80点というところか」
「はちじゅってん」
えええ、これ皆川さんがやってくれたんだけど?
――と突然、服部さんが私のあごに手を当てて、くいっと上を向かされた。……って、えええええっ!
「オトナっぽいメイクを目指すんだろう? メイク自体としてはよくできている。だが、キミの目指すオトナの女というよりはむしろ可愛らしい女の子の印象だ。だから80点」
「あら店長、ひどいですね。それやったの、私なんですけど」
皆川さんがわざと怒った顔を作って口をはさんできた。
「皆川さんか。久保川さんのしたいメイクと方向性がちょっと違っていたからな。技術的には問題ない」
「あら、でも似合ってましたでしょう?」
皆川さんと服部さんが議論を始めてしまったけど、私の耳にはほとんど入ってこない。
頭がぐるんぐるん回るみたいに混乱してしまっている。顔も熱い。
さっきの、顎クイ! 顎クイだよね!
きゃああああああっ! あんなことされたの、人生初! 曲がりなりにも店長にドキッとしちゃったよ!
でも私が好きなのはあき兄。あき兄だけなんだから。今の顎クイも、もしあき兄にやられたら……と思ったら鼻血噴きそうだ。
ちょっとしたパニックをなんとか乗り越え、バイトを終えて家路を急ぐ。
すっかり暗くなった街を、できるだけ大通りを歩いて帰る。もう10時を過ぎてるし、住宅街に入ってしまえば人通りはかなり少ない。気をつけるにこしたことはない。
「あれ? 瑠璃?」
歩いていたら名前を呼ばれた。振り向くと、そこにいたのはあき兄だった。とたんに体の奥から喜びがわき上がる。そういえばこの間カフェの様子を見に行った日からあき兄に逢ってなかったんだっけ。
そう思ったらとたんに黒髪美人さんの姿が脳裏に蘇った。
そうだよ、私、失恋したんだよ。
そう気がついて瞬間的に凍り付く。でも、いけないいけない。あき兄にそんな泣きそうな顔見せられない。
泣きそうな顔を見られて、子どもみたいになぐさめられたらしばらく立ち直れない自信があるよ。だから、出来るだけ普通に、元気に振る舞う。
「あ、あき兄! 今帰り?」
「おう。おまえも何でこんな遅いんだよ。危ないだろう」
早足で追いついてきて私と肩を並べて歩き始めた。うわ、ちょっと久しぶりでドキドキする。
「あのね、私、バイト始めたの」
「バイト? どこで」
「吉祥寺駅そばのコスメショップだよ」
「コスメ……化粧品屋か」
「まあそんなとこ」
「瑠璃、おまえ化粧っ気なんて全然なかったのに、どういう心境の変化だよ?」
う、それは言えない。
「ま、まあ、私だってもう二十歳だし? 少しは研究しとかないと、三年生の終わりには就職活動始まるんだから。それまでにちょっとくらいメイクの練習しないとと思ってさ」
「ああ……まあな。でも、おまえみたいなのが働いてて、その店売り上げ落ちるんじゃないか」
「なっ! なんでよ、ひど!」
「だってこんなお子ちゃま――あ! いて! 冗談冗談!」
「そこへなおれ、いますぐ成敗してくれるわ!」
ばたばたとあき兄を追いかけているうちに、あっという間に家に着いてしまった。センサーで人を感知して点灯する玄関灯がカチッと灯り、薄暗かった玄関前がぱっと明るくなる。
あき兄相手に何とかいつも通りに振る舞えたみたいでほっとする。
「お、じゃあな」
「あ、あき兄」
お礼を言おうと呼び止めると、あき兄が立ち止まって私の方を振り返った。振り返って――ちょっとだけ目を見開いたような気がする。あき兄のいるところの方が暗いから本当に見開いたのかどうかちょっと怪しいけど。
「どうかした?」
「いや、その――メイクするとずいぶん変わるもんだなって」
「ふふん、そうでしょう。今日は皆川さんって店員さんだけど、いつもは店長が教えてくれたり手直ししてくれるんだ。店長ね、すごいんだよ。うちの店にいる店員さんの中で唯一の男性なのに一番メイクがうまいの」
「――男性?」
ぽつりとあき兄がこぼした言葉は私の耳には届かなかった。
「送ってくれてありがとう。あき兄、またね」
「あ、ああ、またな」
そのまま私はあき兄に軽く手を振って家に入った。
だから、あき兄がしばらく呆然とそこにたたずんでいたなんて知らなかった。
服部さんが眉を寄せた。
「はい、メイクの師匠! 私、オトナっぽくなりたいです。服部さん、私にメイクを教えてください!」
勢い込んでまくしたててからハッとした。
ちょっとまて、服部さんはコスメショップの人。ということは、メイクのアドバイスなんかは仕事なんだよね? それをただで教えてくれ、なんてちょっと虫がよすぎるな。
そしてやっぱり怖いよ服部さん。にらんでる? こっちをにらんでる? 不躾な子供だって思われちゃったかな?
私は勢いで言ってしまったことを早くも後悔し始めていた。うわ、やる気だけが空回ってるよ、私。ちょっと落ち着かなきゃ。
「あ、いや、すみません不躾に。その、こちらでメイク教室とかやってれば」
「しばらく予定はないな」
「そうですか……」
そんな都合良く行かないよな。ほっとしたような、がっかりしたような。
「すみません、そしたら色だけでも選んでもらえるとうれしいです」
とりあえず口紅だけでも買って帰ろう。せっかく来たんだから。さっきつけさせてもらったサンプルのコーラルピンク、あれもいいかも。それにあわせて他の化粧品も選んでもらおうかな。
「――いや、ちょっと待て」
口紅の並んだ棚に向かおうとしたら、服部さんに止められた。
「キミ、うちでバイトしないか」
「へ?」
突然とんだ話に呆然とする。
え、どこからそういう話になったんですか?
「ありがたいことにうちの店は最近繁盛していてな、人手が足りていない――そして、キミはメイクを習いたい」
「それはそうですが、どうつながるんですか?」
「うちの店員は当然皆メイクをする。お客様が見て憧れるようなメイクをすることが必要だ。だから、バイトたるキミにメイクを指導するのは店長である俺の仕事だな」
「――!」
「どうだ?」
「やっ、やります! やらせてください!」
「バリバリ働いてもらうぞ」
「望むところです!」
服部さんが「よし」と満足そうに頷いた。
どこか笑顔が黒く見えたけど、そこはとりあえずスルーすることにする。
そうだよね、化粧品揃えるのにもお金がかかる。当然バイトしなきゃいけない。今、ちょうどバイトしていないから新しいバイト入れることには問題ない、っていうかむしろ大歓迎だ。
それに、忙しく働いていれば悲しい気持ちも紛れるかもしれない。おまけにメイクも教えてもらえる。いいことずくめじゃない。
服部さんはちょっと怖いけど、こんなチャンスはなかなか巡り会えないだろう。
とはいえ、服部さんがバイトの雇用を決めちゃっていいわけ? ふと不安に思って服部さんに聞くと、さらりと爆弾を投下された。
「問題ない。俺が店長だ」
★★★
服部さん――店長の言っていたとおり、バイトはなかなか大変だ。
お店の名前は「ロージィ・ルーム」。化粧品会社の直営店だった。
もちろん、メイク初心者の私に接客なんかできるわけもなく、主な仕事は商品の補充や店舗の清掃だ。というのも、ここの店は商品の購入は当然できるが、サンプル品をたくさん用意してあって、自分でメイクを試すためのブースがたくさん設置してある。勿論、メイクのプロである店員のアドバイスもばっちりだ。だから私の仕事はお客様が使った後の席を清掃したり、必要な備品を補充したりすること。
まあ、ほかの諸処雑多な仕事もあるけど、主な仕事はそれ。
その合間を縫って、店員さんたちのメイクアドバイスを盗み聞き(人聞きの悪い)自分もメイクの勉強をしている。
ところで私にも店長から「きちんとメイクをしてくるように」とのお達しは出ています。なので、必死に自分でメイクして行くんですが――
「35点」
店長の採点は厳しい。そう、出勤の度に店長のダメ出しが飛んでくるのだ。
「久保川さん、ここのチークの入れ方どこで勉強した」
「え、ええっと、メイクの動画ばっかり集めたサイト見つけまして、そこで」
「全然だめだ。見たことなんでもやればいいってものじゃない。これじゃ顔の他のパーツとバランスが悪すぎる」
そう、実は店長から「メイクの基礎」とか「メイクのやり方」なんてのは教わっていない。そんな初歩はインターネットでも本でも情報が世間にあふれている。だからまずはそれを自分で勉強して、自分なりにメイクをしてみろ、それを修正してやる――そんなふうに最初に言われたのだ。
確かにバイトを始めてわかったけど、店長は忙しい。めっちゃ忙しい。そんな人に手取り足取り教えてもらうのは、店長の時間的にも私の良心的にも大いに問題があったわけだ。まあ、さすがにおすすめの本とかサイトは泣きついて教えてもらったけど。スパルタだ。
そんなわけで、私が自習したものを添削する方式のメイク指導は始まったわけだ。
ぽんぽん、と店長が選んだチークをはたき治してもらう。ついでと言わんばかりにアイラインを修正、リップも少しオレンジがかったピンクを重ね塗り。その間も目力の強い店長の目が私をにらんでいる。緊張なんてもんじゃない――けれど。
「どうだ」
「――はい、恐れ入りましてございます」
店長がちょこっと手を加えるだけで、何かが劇的に変わってしまう私の顔。すごすぎる。
怖いんだけどなあ店長。でもアイラインを引くとき、リップを塗るときの手つきはとても優しい。どこか色気すら感じてしまうのだ。
そんなこんなで店長にびびりながらも毎日必死に仕事とメイクをがんばっている。
この「ロージィ・ルーム」、従業員は全部で5人。服部さんが店長で、女性の店員さんが4人いる。みんなメイクすんごい上手。美人。その中で一番腕がいいのが、なんと服部店長なんだとか。すごいなあ。私の中で店長は「相変わらずちょっと怖いけど、なかなか尊敬できる」という方向にシフトチェンジするのにそれほど時間はかからなかった。
「でもね、店長ってちょっと変わってる……っていうか、でしょ?」
休憩時間に一緒になった皆川さんがそう言って笑った。ちなみに最初に店に来た時、私が店長と勘違いした人だ。
「えー……っと」
「いいのよ、店長出かけてるから大丈夫。ちょっと融通きかないし、接客業のくせに時々人の気持ちわからないようなこともあるから」
「ああ、私、初対面からちょっと怖いと思いました」
「わかるわかる」
けらけらと皆川さんが笑う。
「なのに店長に『師匠と呼ばせてください』でしょ? すごい強者が来たってみんなで話してたの」
「ええ~……」
「どう? メイクの勉強進んでる?」
「いえ、まだまだです。店長が毎日私のメイクに点数つけるんですけど、赤点しかとったことないです」
「ふふ、練習あるのみよね――そうだ、一度私もメイクやってあげようか」
「皆川さんが?」
うれしくて声が跳ね上がった返事に皆川さんがにっこり頷く。皆川さんって、すてきな大人の女性だ。いつも長い髪をきゅっと結い上げてきりっとしたメイクをしているけど、話してみるとほんわかムードで。あの黒髪美人さんとはまた違うタイプの大人の女性。
前に服部店長に「大人っぽくなりたいというのなら、自分に合った色やメイクの仕方を覚えて自分らしい大人っぽさを作っていけばいい」って言われたのはこういうことなんだな、と改めて納得した。
「ほら、どう?」
時間があまりなかったので軽く手を入れてもらった程度のメイク。
「可愛いです。うわ~、ありがとうございます」
できあがった私の顔は最近流行のかわいいメイク。使っている化粧品は私のものと「ロージィ・ルーム」で扱ってるサンプル。
すごく可愛い。うん、すごく。ただ私の目指す「オトナっぽい」というより、アイドルみたいなかわいい系メイクだけど。
でもさすがは皆川さんだなあ。このメイクはこのメイクでとってもかわいい。
「さ、そろそろ休憩も終わりね。いこっか」
「はい」
皆川さんと店舗に戻る。
皆川さんにしてもらったメイク、本当にすごく可愛くて他の店員さんたちにも褒めてもらった。
可愛くなるのってうれしい。メイクって、思ったよりずっと楽しいかも。
「ほら、この子が使ってるシャドウがこちらの色なんですよ」
皆川さんが接客しながら私を指す。なるほど、実際につけてる様子をお客様にも見せられるからいいわけね。私がモデルで申し訳ないけど。
備品補充したり清掃したり、いろんな雑用をこなしているうちに閉店だ。
「久保川さん」
あらかた片付くと店長に呼ばれる。
「はい、店長」
「今日のメイクは、そうだな、80点というところか」
「はちじゅってん」
えええ、これ皆川さんがやってくれたんだけど?
――と突然、服部さんが私のあごに手を当てて、くいっと上を向かされた。……って、えええええっ!
「オトナっぽいメイクを目指すんだろう? メイク自体としてはよくできている。だが、キミの目指すオトナの女というよりはむしろ可愛らしい女の子の印象だ。だから80点」
「あら店長、ひどいですね。それやったの、私なんですけど」
皆川さんがわざと怒った顔を作って口をはさんできた。
「皆川さんか。久保川さんのしたいメイクと方向性がちょっと違っていたからな。技術的には問題ない」
「あら、でも似合ってましたでしょう?」
皆川さんと服部さんが議論を始めてしまったけど、私の耳にはほとんど入ってこない。
頭がぐるんぐるん回るみたいに混乱してしまっている。顔も熱い。
さっきの、顎クイ! 顎クイだよね!
きゃああああああっ! あんなことされたの、人生初! 曲がりなりにも店長にドキッとしちゃったよ!
でも私が好きなのはあき兄。あき兄だけなんだから。今の顎クイも、もしあき兄にやられたら……と思ったら鼻血噴きそうだ。
ちょっとしたパニックをなんとか乗り越え、バイトを終えて家路を急ぐ。
すっかり暗くなった街を、できるだけ大通りを歩いて帰る。もう10時を過ぎてるし、住宅街に入ってしまえば人通りはかなり少ない。気をつけるにこしたことはない。
「あれ? 瑠璃?」
歩いていたら名前を呼ばれた。振り向くと、そこにいたのはあき兄だった。とたんに体の奥から喜びがわき上がる。そういえばこの間カフェの様子を見に行った日からあき兄に逢ってなかったんだっけ。
そう思ったらとたんに黒髪美人さんの姿が脳裏に蘇った。
そうだよ、私、失恋したんだよ。
そう気がついて瞬間的に凍り付く。でも、いけないいけない。あき兄にそんな泣きそうな顔見せられない。
泣きそうな顔を見られて、子どもみたいになぐさめられたらしばらく立ち直れない自信があるよ。だから、出来るだけ普通に、元気に振る舞う。
「あ、あき兄! 今帰り?」
「おう。おまえも何でこんな遅いんだよ。危ないだろう」
早足で追いついてきて私と肩を並べて歩き始めた。うわ、ちょっと久しぶりでドキドキする。
「あのね、私、バイト始めたの」
「バイト? どこで」
「吉祥寺駅そばのコスメショップだよ」
「コスメ……化粧品屋か」
「まあそんなとこ」
「瑠璃、おまえ化粧っ気なんて全然なかったのに、どういう心境の変化だよ?」
う、それは言えない。
「ま、まあ、私だってもう二十歳だし? 少しは研究しとかないと、三年生の終わりには就職活動始まるんだから。それまでにちょっとくらいメイクの練習しないとと思ってさ」
「ああ……まあな。でも、おまえみたいなのが働いてて、その店売り上げ落ちるんじゃないか」
「なっ! なんでよ、ひど!」
「だってこんなお子ちゃま――あ! いて! 冗談冗談!」
「そこへなおれ、いますぐ成敗してくれるわ!」
ばたばたとあき兄を追いかけているうちに、あっという間に家に着いてしまった。センサーで人を感知して点灯する玄関灯がカチッと灯り、薄暗かった玄関前がぱっと明るくなる。
あき兄相手に何とかいつも通りに振る舞えたみたいでほっとする。
「お、じゃあな」
「あ、あき兄」
お礼を言おうと呼び止めると、あき兄が立ち止まって私の方を振り返った。振り返って――ちょっとだけ目を見開いたような気がする。あき兄のいるところの方が暗いから本当に見開いたのかどうかちょっと怪しいけど。
「どうかした?」
「いや、その――メイクするとずいぶん変わるもんだなって」
「ふふん、そうでしょう。今日は皆川さんって店員さんだけど、いつもは店長が教えてくれたり手直ししてくれるんだ。店長ね、すごいんだよ。うちの店にいる店員さんの中で唯一の男性なのに一番メイクがうまいの」
「――男性?」
ぽつりとあき兄がこぼした言葉は私の耳には届かなかった。
「送ってくれてありがとう。あき兄、またね」
「あ、ああ、またな」
そのまま私はあき兄に軽く手を振って家に入った。
だから、あき兄がしばらく呆然とそこにたたずんでいたなんて知らなかった。
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