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柾士の話

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「いらっしゃいま――あら、坂本さん」

 夜もとっぷりと暮れた頃、閉店間際に涼やかなドアベルの音を鳴らして『ナルセ』に入ってきたのは紺のスーツを身にまとった長身の青年だ。
 彼の名は坂本#柾士_まさし_#、ここ『ナルセ』の常連であり店主成瀬の友人でもある。
 柾士の仕事は雇い主の娘の付き人兼ボディーガードといったところだ。彼が付き人を務める梓を迎えに『ナルセ』を訪れたのは一週間ほど前の出来事だ。

 柾士はキッチン正面のカウンターに座り、さくらが持ってきたおしぼりで手をきれいに拭いた。
 キッチンから成瀬が声をかける。

「やあ柾士。何にする?」
「この間は挨拶もしないで悪かったな、蓮。仕事だったからな――今日はマトンのドライカレーで」
「了解。ほら、先にこれでもつまんどいて」

 成瀬が小皿に盛ったピクルスを出したのを柾士はぱくりと摘まんだ。甘み強めのピクルスはカレーに合うように成瀬が漬けたものだ。

「うまいよ。疲れがとれそうだ」
「あれ、お疲れかい? 今日は梓さんの送迎だけじゃなかったの?」

 カウンターの中で小鍋に一人前のドライカレーを移しながら成瀬が顔を上げた。柾士は「いや」と面倒そうにため息をついた。

「梓お嬢様が高校女子部の生徒会に入っているんだが、11月に男子部と女子部の交流会があってな」
「ああ、そうだったね。時々来るから知ってるよ」
「それ以来どうもお嬢様の人気が上がっているらしくて」

 柾士の顔がムッとしかめられるのを成瀬は面白そうに見ている。

「へえ、梓さんモテモテなのか。いいじゃないか」
「よくない」

 少し大きめのピクルスを一口で口に放り込む。

「お嬢様に変な虫をつけてたまるかよ。虫よけで忙しいんだよ」
「さすが仕事の鬼。っていうか、ちょっと過保護な気もするけどね」
「過保護なものか。同年代の男子なんかにお嬢様は勿体なさ過ぎる。女子に興味津々な年頃だろうが」

 柾士の前に熱々のカレーが置かれた。少し深めの皿には雑穀米を土台にドライカレー、ゆで卵、水菜やトマトなどの野菜が美しく盛り付けられている。そしてその横にキッチンから成瀬の腕が伸びてきてよく冷えたビールのグラスをことりと置いた。

「おい蓮、頼んでないぞ」
「おごりだよ、おごり。一杯飲んでその眉間のしわを緩めなよ。そんなんじゃ大事なお嬢様に怖がられるぞ」
「――そんな顔してるか?」
「してるしてる」

 はあ、と大きくため息をついて柾士はビールのグラスを手にした。そこに成瀬――蓮が栓を開けたビールの瓶を差し出し、グラスと瓶をチン、と合わせて乾杯した。

「お疲れ」
「ありがとな」

 男二人がビールを喉に流し込む。ぷはっ、と口を離した後も柾士が難しい顔をしているので蓮は首をひねった。

「どうやらお嬢様の人気ぶりだけが悩みの種ってわけじゃなさそうだね」
「――お嬢様に縁談が来てな」
「縁談?!」

 蓮が驚いた声を上げる。二人の話を小耳にはさみながら片づけをしていたさくらも思わず振り向く。

「いや、縁談が来たってだけでご両親が突っ返してたけどな」
「梓さんまだ16歳だろう? いくら何でも早いだろう」
「あのご両親も恋愛結婚だからな、政略的な結婚を娘にさせたいとは思っていないらしい。ただ――」
「ただ?」
「梓お嬢様がもうそんな年頃になられたから――いつかお嬢様も結婚してしまうんだと再認識しただけだ」
「柾士――」
「もう、16か……」

 小さくつぶやいて残っていたビールを飲みほした。成瀬はその様子を見ていたが、ぽつりと言った。

「――なあ柾士、柾士にとって梓さんは本当に特別なんだね」
「――そりゃそうだ、俺の仕事だからな」
「仕事ってだけじゃないだろ?」

 成瀬の言葉に柾士はぴくりと肩を揺らす。

「仕事、だよ。お嬢様は16歳で、俺よりずっと年下だから」
「だからさ、妹みたいに思ってるんじゃないか?」

 少しの間店内に沈黙が流れる。
 真面目な顔で柾士を見つめる成瀬、目をまるく見開いて成瀬を見返す柾士、キッチンの奥で頭を抱えてため息をつくさくら。

「妹? ――いもうと。そうかも……な」

 ぎこちなく再起動した柾士が力なく笑った。
 スプーンをとってドライカレーを食べ始めた柾士から離れた成瀬は、キッチンの奥でさくらににらまれていたが、何を怒られているのか真剣にわからない顔をしていた。


 すっかり夜もふけた時間帯、『ナルセ』を出て家路をたどる柾士はふと空を見上げた。南の空に一際明るく光る星が見える。
 おおいぬ座シリウス、全天で最も明るい恒星。あまりに明るくて大きくて手が届きそうな気がするが、決して手は届かない。

「妹――だったらこんなに悩まねえよ」

 柾士にとって梓は特別。まるで手が届きそうで届かないあの星のようだと柾士は思った。
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