Hermit【改稿版】

ひろたひかる

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心の扉を開けたなら~蘇芳と一平

6.急転直下

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 深夜。
 日常業務を終えて自室に戻ろうと玄関ホールを歩いていた駿河は、なにやら物音を聞いたような気がした。
 2階の廊下の一番奥、蔵人の部屋のほうだ。
 もう蔵人は寝ている時間のはず、何かあったのかと蔵人の部屋へ向かう。

「旦那様?」

 控えめに叩いたノックの音が、何だか妙に乾いた音で、柄にもなく駿河は不安に駆られた。

「失礼します、旦那様――」

 開いたドアの向こうに駿河が見たのは、床に倒れ伏した蔵人の姿だった。

「旦那様!」


 結局、駿河が呼んだ救急車も役には立たなかった。
 蘇芳の父・蔵人は、その夜脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのだった。


 それからは怒濤のようだった。蘇芳には親戚はいるが、蔵人が蘇芳を引き取るときにもめて疎遠になっているため、頼れる大人がいない。そこで蔵人の親友であり右腕でもある金城が親身に相談に乗ってくれた。滞りなく葬儀も済んだが、同時にいろいろな手続きをせねばならず、蘇芳は理解しきちんと処理しようと必死だ。もちろん金城が大いに手伝ってくれ、弁護士も相談に乗ってくれるが、決めることも作成する書類も多く、今が夏休み中であることに感謝しかない。

「――疲れた」

 昼食後、ふらりと戻った自室でベッドに倒れ込んで、つい口に出してしまった。広い部屋に自分の言葉だけが漂って消える。
 忙しさにかまけて余計なことを考える暇がないのはありがたいが、部屋でひとりになってしまうといろいろなことが頭をよぎる。蘇芳はこの家にひとりになってしまった。駿河も京子もいるが、頼れる肉親はいない。不安が胸を締め付けるようだ。

「どうなっちゃうんだろうな、これから」

 少し昼寝しようか。そう思ってうとうとしていたら、コンコンとノックの音がした。

「はい、どうぞ」
「失礼いたします、蘇芳様」

 扉を開けて入ってきたのは駿河だ。いつもの穏やかな笑みだけれど、少し心配そうな顔をしている。

「弁護士の石川先生と金城様がお見えになっております」
「石川先生が?」

 石川弁護士は今回の相続について任せていた弁護士だ。そういえば今日訪ねると言われていたのを思い出した。

「そっか、今日だっけ。少し待ってもらって、髪と服を整えたらすぐ行くから」
「蘇芳様、大丈夫ですか? 石川先生は明日以降にしていただいてもいいのですよ?」
「大丈夫、ありがとう」

 寝起きで少し重たい頭を起こして身繕いし、応接室へと向かった。

「お待たせしました」
「いえいえ、お休み中のところを申し訳ありません」

 駿河が人数分のアイスコーヒーを配って部屋を辞していく。応接室には石川弁護士と金城氏、蘇芳が残った。

「こちらが蔵人様の遺言でございます」

 弁護士は恭しく封印された書状を開封した。今日は遺言を開封する大事な日だ。

「ひとつ、古川家の財産は長男・蘇芳が受け継ぐものとする。ただし、妻・紘代と次男・光流にも私の所有する会社の株券の一部と横浜の土地を含む別宅、現金資産の20%を相続させる」
「え!」

 蘇芳は思わず声を上げてしまったが、石川弁護士は構わずさらにページをめくる。

「ひとつ、昴グループの総帥の座は長男・蘇芳に譲るものとする。ただし、蘇芳が大学を卒業する以前に私が他界した場合は、後見人をおくものとし――」

 話はまだまだ続いていたが、蘇芳はもう頭の中が真っ白だった。
 正直、古川家も昴グループも受け継ぐ気はさらさらなかった。自分は紘代と光流を追い出してしまった存在、財産も地位も受け取るわけにはいかないんじゃないか。
 だから、

「すみません、考える時間を、ください」

 としか返事ができなかった。


 そうしてまたしても増えてしまった悩みを抱えて自室に戻る。財産の相続は、当面暮らせる位をもらえればいいと思っていた。そうして自分がこの家を出れば、紘代と光流が戻ってこらえるかもしれない。いいチャンスだ。
 なのに蔵人は蘇芳に財産どころか地位まで置いて逝ってしまった。プレッシャーに潰れてしまいそうだ。
 今日は本当に疲れた。蘇芳はベッドに倒れ込んだ。今度こそ眠って、少し休もう。そう思って眼鏡を外してサイドテーブルに置いた。

 そこへ再びノックの音がした。

「――はい、どうぞ」

 今度は家政婦の京子だ。手にはトレイを持っていて、ティーポットとカップが載せてある。

「お疲れ様でした。蘇芳様のお好きな紅茶を入れましたから、いかがですか?」
「ああ、ありがとう――」

 ベッドから起き上がろうとしてはっとした。今、眼鏡を外している。油断していた。当然のように京子の心が蘇芳の中に流れ込んでくる。
 紘代と光流が出て行ってしまった日、京子も「蘇芳が来たから二人は出て行った」という嫌な気持ちになっていたことを蘇芳は知っている。あの頃、テレパシーで聞いてしまったから。その後ごく普通に優しく接してくれてはいたけれど、京子は今でもそう思っているんじゃないだろうか、その心の声を拾ってしまうのがとんでもなく怖い。
 いつもは眼鏡のおかげで聞かずに済んでいたというのに――

 けれど、京子から漏れ聞こえてくる心の声はただ蘇芳を心配する気持ちだけ。

(え?)

 京子がカップ淹れた香り高い紅茶をベッドのサイドテーブルに置き、その横に小さな皿に載せたチョコレートを置いてくれる。

「京子さん……」
「蘇芳様、無理をしなくていいんですよ」
「無理なんか」
「蘇芳様はまだ高校生ですよ。お友達と遊んで、勉強して、いろいろな経験を積んでいく時期です。なのにおうちのことも会社のこともなんて」

 京子からやるせない気持ちが聞こえてくる。

「無茶苦茶ですよ。いくら蘇芳様が出来る子だからって、あの内容は盛り過ぎです。無理だって断ったって、誰も蘇芳様を責めませんよ」
「京子さん……」
「もちろん駿河さんだって私だっておりますからね、蘇芳様ががんばるとおっしゃるなら精一杯お手伝いいたしますよ。でも、今の蘇芳様にがんばれとは言えませんよ」

 ただただ身内として心配してくれる気持ちがストレートに聞こえてくる。話していることと心の声が一緒に重なって聞こえてくる。

「京子さん、僕は」

 蘇芳は泣きそうな気持ちで京子を見た。
 昔、会ったばかりの頃に嫌な気持ちを読み取ってしまったからと心を閉ざしてしまっていた。あれから何年も経って、駿河も京子も親身に接してくれていることがわかっているのに。そう、わかっていたのだ。なのに「心の底では嫌われているのでは」と恐れてしまっていたのだ。
 嫌われているのではないかということは怖いが、好かれていると期待して「でも違った」と突き落とされるのはもっと怖い。
 すべては知ろうとしなかった、尻込みして信じようとしなかった自分のせいだ。
 鼻の奥がつんとするのを必死に抑える。

「いいんですよ、蘇芳様。まだ高校生の男の子がお父さんを亡くしたんです。泣いたって誰も笑ったりしませんから」
「――」

 ベッドに座ったまま顔を伏せる。抑えても肩が小刻みに震えてしまう。

「ごめん京子さん、ごめん」

 目の前で涙を流してしまっていることを、心を閉ざしてしまっていたことを。
 人は変わるものだ。変わることが出来るのだ。それを理解できていなかった。そんな蘇芳を周囲はずっと見守ってきていてくれたのだ。その優しさにすっかり甘えてしまっていた自分が恥ずかしい。

 そして蘇芳は決断をする。
 周囲の人たちを信じることを。
 父の遺言であるなら甘んじてそれらを受け取ること。
 紘代と光流を探し続け、彼らが希望するなら全てを渡すこと。
 会長職を引き継ぐが、年齢のこともあり学業優先にすること。
 同じ理由で対外的な顔出しは避け、金城氏に教わりながら会長職をやっていくこと。

 必死に奔走しているうちに気がついたら様々な手続きが終了し、夏休みも終わりに近づいてきていた。

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